────黒煙(こくえん)のような雲が流れ、白い月が姿を現す。
 夜半、春蘭の部屋から漏れる明かりを庭先で紫苑は眺めていた。

「本当に大丈夫なのですか? お嬢さま……」

 室内では春蘭が、芙蓉の手伝いを得ながら医女の装いに着替えているところだった。
 扮装に際し、紫苑の用意した衣である。

 その腰紐を結びながら案ずるように眉を下げた芙蓉に、こともなげに笑い返す。

「大丈夫よ! うちは広いから、抜け出してもお父さまにバレる可能性は低いし」

「そ、そういうことではなくて」

「分かってる、うまくやるわ」

 雪や塩のごとく真っ白な医女服に身を包み、得意気に言ってのける。
 明朗(めいろう)な姿は頼もしい限りだが、それで不安が晴れるわけではない。

「でも、もし出かけたことをお父さまに勘づかれそうになったら、何とか誤魔化しといてくれる? お願い」

「……はい。それくらいでしたら」

 そう答えながら、最後に白い髪紐を結んでやる。
 鏡台(きょうだい)の前から立ち上がった春蘭を確かめた。装いは完璧に医女である。

 扉を開けると、待っていた紫苑が一礼した。
 その手を借りながら(くつ)を履き、春蘭も庭へ下りる。

 しだれ桜から舞い落ちた花びらが絨毯のように地面を染め、池には花筏(はないかだ)が漂っていた。

 門の方へ向かうふたりを芙蓉は套廊(とうろう)から見送る。
 紫苑は(はい)した剣の(さや)を握り、春蘭に目をやった。

「宮殿までお供します」

「ひとりで大丈夫よ。その方が目立たないでしょ?」

「だめです。夜道にお嬢さまひとり放り出せると思いますか」

 宮廷へ潜入するというくらいなのだから、軒車ではなく徒歩で向かうことになる。
 昼間の暴動を目の当たりにした以上、尚さらたったひとりで歩かせるわけにはいかない。

「だけど……」

「本当は宮中まで付き添いたいところなのですが……。あ、いっそ門番を昏倒(こんとう)させてしまうのはどうでしょうか」

 さらりとものものしい提案をする。
 春蘭は目を見張った。

「まさかその衣を拝借(はいしゃく)して成り代わる気?」

「ええ、それもありますが……手形が偽だとバレたら厄介なことになります」

 袖口から取り出した通行手形を見やり、紫苑は眉を寄せる。
 “それも”などと言っているが、実のところそちらの理由の方に重心が偏っているように思える。

「心配しすぎよ、紫苑も芙蓉も。この格好なら手形なしでも宮門を突破できそうなくらいだわ」

 彼の手から手形を取り、春蘭は言う。
 気づけば宮門前の大路(おおじ)にさしかかっていた。ふたりは一旦足を止める。