────その後、莞永は朔弦の背を追い、武科挙を受けた。

 首席とはいかないまでも優秀な成績をおさめ、無事に左羽林軍への所属が決まったのである。
 莞永は錦衣衛への配属を希望したのだが、その腕前を買った上官たちが羽林軍へ推薦してくれたのであった。

 希望通りではなかったものの、羽林軍への入隊は光栄なことである。
 そこで活躍すれば、朔弦の耳にも自分の名が届くかもしれない。

 ……実をのところ、莞永は文科挙も受けたかったのだが、勉強に費やせる時間も資金も足りず、ひとまず諦めざるを得なかった。
 官衙を辞したあとに武科挙のみを受け、宮殿勤めを果たしたのである。

 隙あらば錦衣衛の書庫へ忍び込み、名簿から朔弦の名を探した。
 しかし、あのとき彼が言っていた通り、その名はどこにもなかった。

 そんな折である。
 莞永が左羽林軍で、新たに任命された将軍と出会ったのは。
 兵が一堂に会した訓練場で、()は言った。

「謝朔弦だ。今日からおまえたちの上官となる」

 莞永は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 なぜ、錦衣衛ではなく左羽林軍にいるのか。
 あの日、そもそも本当に錦衣衛から派遣されてきたのか。
 様々な疑問が頭の中を駆け巡ったが、同時にあらゆる感情が波のように押し寄せ、思わず泣きそうになった。
 正直、もう二度と会えないのではないかと諦めてかけていたところでの劇的な再会となった。

 それを機に莞永は死にもの狂いで務めを果たし、順当に昇級していった。
 そして今日(こんにち)、ようやく朔弦の右腕にまで上り詰めたのである。



 ────なぜか未だに、事件を追わされているが。

「本当に退屈しのぎだったんだね」

「はじめからそう言っているだろう。わたしは錦衣衛に籍を置いたことなどない」

 朔弦は手際よく雪山を切り崩しながら答えた。
 だからこそ、莞永があれほど錦衣衛の名簿を漁っても彼を見つけることができなかったのだ。

 “退屈しのぎ”というのは嘘ではなかったが、実のところそれだけではなかった。

 あの頃、あらゆる文人、武人、そして彼らの属する部署が、科挙の首席合格者である朔弦という人材をこぞって欲しがった。
 引く手数多(あまた)であったため、どこに身を置くか選び放題であったのだ。

 そんな中、彼の考えることはひとつだった。

 どこに属することが叔父や謝家にとって利があるのか、すなわちどうすれば悠景の役に立てるのか。
 それを確かめるため、めぼしい部署には実際に潜り込んで見て回っていたのであった。

 ────結果、楽観的で割と危なっかしい叔父の最も近くにいることが最善であると判断した。
 一番そばで支えることを選んだのである。

 また、そもそもあの日、錦衣衛や官衙のずさんさに辟易したのも事実である。
 朔弦がいなければ、あの程度の事件でさえ迷宮入りしていたかもしれない。
 あるいは奉公人の男や令嬢が、不当な罰に処せられていた可能性もある。

 いずれにしても、左羽林軍で莞永と再会したことは、奇跡に等しい偶然であった。

「……おまえも手を動かせ」

 一年前を懐かしんでにこにこしている莞永に鋭く言う。

 彼は、手に取ったはいいものの持て余していた調書に目を落とす。
 少し迷ってから素早く雪山に戻した。

「いえ、わたしは将軍の足なので。それに、将軍の退屈しのぎの道具を奪ったら悪いですから」

「調子がいいな。だから部下止まりなんだ」

「わたしは部下がいいんですよ。ほかならぬ将軍の部下が」

 ここまで軽妙に朔弦と話せるのは、真に莞永だけであろう。

 左羽林軍の兵たちは、一様に朔弦を氷のような鬼畜だと恐れている。
 また、それ以外の大半は朔弦が稀代の秀才であるために色眼鏡を通して接していることだろう。

 屈託のない笑顔を向けられた朔弦は呆れたような表情を浮かべたものの、やがて、ふっと息をこぼすように小さく笑んだ。
 見落としそうなほど些細な表情の変化であった。

 ────几案(きあん)の上に積もった雪がとけていく。

「来年は退屈しない年になるといいですね」

 莞永は調書の山と朔弦を見比べ、ぽつりと呟く。
 その言葉を耳にしながら、淡々と記録書に文字を書き連ねていく。

「……そうだな」

 ややあって答えた。
 大してそう思っていなそうな、それでいて切に期待しているような、どちらとも言えない声色である。



 夜が更けていく。
 冬が深まっていく。
 その分、夜明けと春が近づく。

 翌年の新たな出会いと激動を、彼らはまだ知らない。



〈番外編  ─月()ゆる夜、光る晩翠(ばんすい)─ 完〉