────それは、さらに一年前に遡る。
十八歳だった莞永は当時、武科挙を受けておらず、兵士でもなければ宮殿に仕えてもいなかった。
官衙に勤める役人として、日々仕事に邁進していたのである。
とはいえ正式に文科挙を受けたわけではないため、雑用を押しつけられてばかりの下っ端であった。
官衙は、各州の都に置かれた役所である。
錦衣衛の管轄下で、基本的に警察業務を担当するが、錦衣衛ほど権限は大きくない。
主に罪人の追跡や逮捕を担い、町の治安維持に努めている。
しかし錦衣衛が前面に出張ってくるため、実際に回ってくる仕事は、失せ物探しや喧嘩の仲裁など些細なものであった。
ただ、当時はいまよりも錦衣衛が大人しかったためか、時折大きな事件が官衙に回ってくることもあった。
その日、とある通報が官衙に寄せられた。
内容は────“貴族の男が殺害された”という物騒なもの。
殺人事件、しかも被害者が貴族とあってか、莞永のような下役にも招集がかかり、現場へ急行することとなった。
現場はとある屋敷であった。
立ち入り禁止を意味する“禁”の字が記された紙札つきの紐が、屋敷の周囲を取り囲むように張り巡らされている。
ものものしい雰囲気だった。
野次馬たちを制しつつ、見張りについている同僚の役人に会釈をし、紐を潜って中へと足を踏み入れる。
屋敷自体は特別大きくないが、この家の主は朝廷に勤める官吏で、そこそこの家柄ではあった。
開けた庭には、手入れの行き届いた植え込みがあり────その傍らに、被害者である貴族の男がうつ伏せで倒れていた。
横から覗けば、顔が見える。
苦悶の表情を浮かべたまま絶命したようであった。
植え込みを囲う石に血痕が付着していたが、男はいたって綺麗な状態だった。
半襟に少し血が染みているものの、傷そのものは一見見当たらない。
「お疲れ、莞永」
熱心に遺体を観察していると、先輩の役人に声をかけられた。
はっと振り向き、軽く頭を下げる。
「あ、お疲れさまです。あの……」
諸情報を尋ねようとすると、聞かれる前に先輩役人は記録書を取り出した。
謹厳な面持ちで読み上げていく。
「被害者は見ての通り、この男。年齢は五十。ここからすぐのところに自宅があるが、昨日は帰っていなかったらしい」
「え? ここ、彼の屋敷じゃなかったんですか?」
「ああ。この屋敷に住んでいるのは主である朝廷勤めの官吏と、そのひとり娘。妻は既に他界。あとは奉公人が数名」
「────正確には?」
「ええと……三人」
先輩役人は記録書の文字を目で追って答えたが、はたと動きを止める。
莞永も眉を寄せた。いまのは、莞永が尋ねたのではない。
顔を見合わせたふたりは怪訝な表情で振り向いた。
そこには、見慣れない男が立っていた。
色白ですらりと背が高く、長い髪を高い位置で括っている。
涼しげな顔は整っているが、何の色もない表情からは冷たい印象を受ける。
男は悠然と後ろで手を組み、莞永たちの方へ歩み寄ってきた。
先輩役人は訝しむように尋ねる。
「おまえ、誰だ?」
「謝朔弦。この事件の解決を、錦衣衛より仰せつかってきた」
またしても、莞永と先輩役人は顔を見合わせた。
錦衣衛が人を遣わして介入してくるなど、未聞のことである。
しかし“謝朔弦”という名を聞いたことはあった。
二年前の国試で、史上最年少で首席及第したという、稀代の天才である。
「ああ! おまえがあの謝朔弦か! 一度会ってみたいと思ってたんだ。そうか、いまは錦衣衛にいるのか」
先輩役人はすぐに警戒を解き、嬉しそうに朔弦の肩を軽く叩いた。
やはりと言うべきか、彼はまったくの無表情である。
感情がないのではないかと心配になるほどに。
「さーて、じゃお手並み拝見だな。この事件は、ふたりに一任しよう」
先輩役人は記録書を閉じ、それを朔弦に渡した。否、押しつけた。
彼は当然のように受け取り、早速中身を改めている。
突然の展開に困惑を禁じ得ず、莞永は即座に声を上げた。
「え、ちょっと待ってください! そんなこと、急に────」
「大丈夫、彼に任せてみよう。お前はただあいつの足となれ」
「そんな!」