一年前の冬のこと────。
 凍てつくような空気が肌を刺し、吐く息は白く霞んだ。

 青みがかった冷たい月を見上げた莞永(かんえい)は、これ以上冷えないうちにと半蔀(はじとみ)を閉め、室内へと引っ込む。

 左羽林軍(さうりんぐん)にある朔弦(さくげん)の執務室で、日誌や調書の整理をしているところだった。

 几案(きあん)の上に積まれた調書の束を見て、莞永はため息をつく。
 それも白く霞んで逃げていった。火鉢にはもう少し頑張ってもらいたいところだ。

「まだこんなにあるんですか……」

「もう音を上げるのか? これでもほんの一部に過ぎないが」

 莞永は上官の涼しげな顔と卓上の山を見比べた。
 雪山にしか見えない。いつ雪崩が起きてもおかしくない。

 そうすれば間違いなく、自分はこの大雪に埋もれてしまうことだろう。
 その様を想像して青ざめながら、日誌や記録を淡々と書き記していく朔弦を見やった。

「おかしいです」

「何がだ」

「将軍もわたしも羽林軍所属ですよ? 羽林軍に調書なんて必要ないはずです」

 文句を垂れながら抗議するが、彼は手を止めないどころか顔すら上げない。
 しかし、莞永の言う通りである。

 羽林軍の最たる仕事は王室の警護であり、事件を調査することでは断じてない。

 ふたりが普段から何らかの事件を追っており、この部屋に調書があふれ返っていることが明るみに出れば、錦衣衛(きんいえい)から“越権行為だ”と糾弾されるだろう。

「だから?」

「だからやめましょう! もう金輪際、事件なんて追ってはいけません」

「しかし、いまやめれば未解決事件が増える」

「それは……そうかもしれませんが」

 確かに朔弦が捜査の指揮を執った事件は、これまでひとつ残らず解決している。

 動かせる人員は自身と莞永のたったふたりしかいないのに、的確な指示と鋭い読みでことごとく解決に導いてきたのである。

「羽林軍の仕事などないに等しいだろう。……あんな無能な王を誰が狙う?」

 彼の歯に衣着せぬ物言いはいつものことだが、毎回肝を冷やしてしまう。
 誰かに聞かれたら、と思うと恐ろしい。

 それと同時に“そんなことない”と反論したくもなる。
 自分たちよりも年下の若い王は、それなりに頑張っていると莞永は思う。
 とはいえ、ねじ伏せられる結末が見えているため、真っ向から反発はしないが。

「無能だなんて……」

「無能だ。役立たずで惰弱(だじゃく)傀儡(かいらい)。だが謀反など企てようものなら、侍中(じちゅう)に剣を向けるに等しい。……皮肉だな、王にとっては」

 苦笑しながら控えめに反論しかけたが、ぴしゃりと撥ねつけられる。
 平板な声で言った朔弦は、一旦筆を置いた。

 調書の山から一枚取り出し、くしゃりと丸め込む。
 どうやらまたひとつ、事件が解決したらしい。

 莞永はしばらく口を閉ざし迷っていたが、気になっていたことを尋ねてみることにした。

「将軍はなぜ、羽林軍に?」

 近衛(このえ)でありながら、王を守る必要がないと言う。
 無価値と見なし、弱いと見下し、ほんのわずかにでも尊敬の念など抱いていない。

 なのになぜ、王を命懸けで護衛する羽林軍に属しているのだろう。

「……なぜだろうな」

 彼はやはり、手を止めないまま答えた。
 答えになっていない答えだったが、莞永は何となく閃いた。

 左羽林軍大将軍、(しゃ)悠景(ゆうけい)────すなわち朔弦の叔父の影響なのではないか、と。

 冷血漢である朔弦とは異なり、悠景は明朗で勇猛、なおかつ義理堅い性分である。
 そのため羽林軍の兵たちから絶大な信頼を置かれ、人気を博している。

 実は朔弦もそのひとりで、彼に憧れているのではないか、と思った。

「それはちがう」

「……えっ!? 何も言ってません」

「顔に書いてある」

 莞永は慌てて顔を覆った。
 どうして分かったのだろう。そんなに表情に出ていただろうか。

「……わたしは叔父上の“影”に過ぎない。それだけだ」

 いつもの通り、感情のない声だった。
 莞永は顔を覆った指の隙間から彼を覗く。

 こちらには一切視線を向けず、淡々と筆を動かしている。
 まったく心情が読めない。読めた試しがない。

 誰かの“影”に徹することは、朔弦にとって本望なのだろうか。

 これだけの才を持ち合わせておきながら、それではもったいないような気がしてしまう。

 ふと、彼が顔を上げた。目が合う。
 莞永は慌てて指の隙間を閉じたが、手遅れだった。

「隠れてないでお前も仕事をしろ」

 断じて自分たちの仕事ではない。しかし、確かに時間があるのも事実だった。

 平和なのはいいことだが、何だか持て余している。
 莞永は渋々、調書の山に手を伸ばし、その一角を切り崩した。

 調書に目を通す。事件の概要は、強盗及び殺人。
 現場の状況や被害者の情報など、必要な事項は既に書き連ねられている。

「これ、ぜんぶ将軍が?」

「ああ、退屈しのぎだ」

 莞永はそのひとことにすべて納得がいったような気がした。
 権限の範囲を越えて勝手に、そして密かに事件を嗅ぎ回っているのは、単に退屈しのぎだったのだ。

 本当に相当な暇を持て余しているらしい。
 自分本位な動機ではあるが、朔弦らしくもある。

 莞永は思わず、小さく笑ってしまう。
 痛ましい事件を前に不謹慎ではあるが、一年前の記憶が蘇り、思わずこぼしてしまった。

「……何だ」

「いえ、すみません」

 調書を手にしたまま、視線を宙に向けた。

「────ちょっと、きみと初めて会った日を思い出して」