何も伝えなかったこと、遠くへ離れる選択をしたことを、はじめのうちは後悔するかもしれない。
しかし、それだけが唯一彼女の意思を尊重できる選択肢だ。
枯れ果てて荒廃していた光祥の心を、潤して満たしてくれた春蘭。
────彼女に出会わなければ、恐らく自分は絶望の果てに“復讐”という茨の道を歩んでいただろう。
両手を血に染めながら、誰のことも顧みず、平気で人の命を奪っていたはずだ。
自らが死ぬことも厭わなかっただろう。
きっと、誰かを愛しく想うあたたかい気持ちなんてものも知らなかった。
あとにも先にも、心にいるのは春蘭だけ。
彼女が幸せならそれでいい。
今日の選択が間違っていなかったと、いつか思える日が来ることを願いながら、光祥は傾いた夕陽を追うように歩いた。
心に留めた思いの丈と同じく、腕飾りを渡すことは結局なかった。
◇
一台の豪勢な軒車が、宮門前に停まった。
緋色の布簾を侍女の千洛が上げると、軽やかな足取りで帆珠が降りてくる。
開かれた宮門の内側で数人の女官が頭を下げ、うやうやしく出迎えた。
「ようこそおいでに。太后さまがお待ちです」
美しく着飾った帆珠は、しかし不満の色を顔に滲ませながら女官たちを一瞥する。
「呼びつけておいて急かすつもり? ……まったく、会いたいなら自分が来るべきでしょ。なんて図々しいの」
遠慮の欠片もない不遜な台詞に、女官たちは思わず眉をひそめた。
戸惑うようにざわつく彼女たちの様子を見た千洛は、慌てて帆珠を窘める。
「お、お嬢さま。言葉にはお気をつけください!」
「何よ、あんたまで。悪い? ここで何を言ったってどうせ誰も聞いちゃいないわよ」
目の前の女官たちの存在をあからさまに無視した発言に、千洛はさらに青くなった。
帆珠は“たかが女官”と侮っているようだが、彼女たちにだって目と耳、そして口があるのだ。
ここで見聞きしたことを、太后に告げ口されてもおかしくない。
「お嬢さま……!」
咎めるように小声で呼ぶが、帆珠は千洛の本意になど気づくはずもなく、ふいと顔を逸らした。
いつもなら恐ろしさに退いてしまう千洛だが、いまだけは勇気を出さねばならない。
何と言っても、帆珠の命に関わる問題なのだから。
「そのような態度はどうかお慎みください……! いま、この時期に宮殿へ呼ばれた意味をお考えに!」