謝家別邸をあとにしてほどなくした頃、呼びかけられた声に振り向く。
 一瞬、帰りも煌凌が迎えにきてくれたのかと思ったが、そこにいたのは意外な人物であった。

「光祥。どうしてここに?」

 こんなところでばったり会うとは思わなかった。
 頬を綻ばせた春蘭は、被衣(かつぎ)を肩まで下げて駆け寄る。

 彼はいつも通り、穏やかな微笑をたたえていた。
 それなのに少し寂しげに見えたのは、傾いた夕陽の光彩が、儚い色と温度を作り出していたせいだろうか。

「櫂秦に聞いたよ。王妃を志すことにしたんだってね」

「……ええ。そのためにできることは何でもするつもり」

 迷いのない言葉に、光祥は正直気圧(けお)されてしまった。
 婚姻に前向きであることは既に聞いていたはずだったが、いざ本人から聞くと心が大きく波立った。
 求めていた逃げ道を封じられ、嫌でも認めざるを得なくなる。

「……本当に、春蘭の望んでること?」

 念を押して尋ねてしまう。
 受け入れがたい現実に遭遇すると、拒絶したくなるものだ。
 どうしても信じたくなくて、願望を押しつけてしまう。

「そうよ、わたしが決めたの」

「どうして? 相手の顔も知らないし、増して王に嫁ぐとなると苦労ばかりじゃないか」

 無意味だと分かっていながらも思わず食い下がる。
 春蘭は視線を宙にやり、どこか遠くを眺めるような眼差しをした。
 その表情は澄んでおり、笑んでさえいた。

「……そうね。でも、それは相手が王さまじゃなくても同じことよ」

「…………」

「わたしは鳳家の娘だもの。王さまじゃなければ、どこかの貴族に嫁ぐことになるわ。それだってきっと、嫁ぐまで相手の顔を知らない。婚姻っていうのは、いままで他人だった人と一緒になるってことよ。苦労ばかりなのは当たり前だわ」

 光祥は口を噤む。それ以上、何も言えなかった。

 念押ししても揺らがぬ答えが返ってくること、何を言っても彼女の意思を曲げられないことを、十分すぎるほどに思い知らされた。

 ふ、と眉を下げて笑う。
 五つも下だというのに、春蘭の方がよほど大人だ。……情けない姿を見せた。

「ごめん、みっともないこと言って。どうか気を悪くしないでくれ。……ただ、きみが心配で」

「そんな。気遣ってくれてありがとう」

 春蘭があまりに清らかに笑うため、光祥は胸が締めつけられる思いだった。

 自分の醜い感情を自覚させられるようだ。
 行き場のない恋情のせいで、つい性格が悪くなる。
 彼女の幸せを願っているはずなのに、妃選びがうまくいかなければいい、と思ってしまう。
 そうすれば、遠慮なんて無用になるのに。