元明の正妻にして春蘭の実母である緋茜(ひせん)は、上品で美しい、まさしく良妻賢母(りょうさいけんぼ)たる人物であった。

 母親の死後、幼いながらに一族と絶縁した紫苑は、形見ひとつを持って屋敷を出た。
 彷徨い歩いていたそんな彼を見つけて声をかけ、鳳邸に置いてくれたのがほかならぬ緋茜である。

『名は何というの?』

『……わたしに、名はない』

 心に深い傷を負ったような、何らかの事情を抱えているにちがいないと思わせるに十分なその様子に、緋茜も元明もそれ以上何も聞かなかった。

 何も持たず、名すら捨てた彼が唯一その手に握り締めていたのは、母親の形見である指輪だった。
 白金でできたその滑らかな表面には、紫苑の花が彫られていた。雅やかで精巧(せいこう)な代物だ。

『それなら、あなたは今日から紫苑ね』

『しおん……?』

『この指輪に彫られてる花の名前よ』

 形見の指輪は、彼の指にはめるには大きく持て余していたため、緋茜は紐を通して首飾りにしてやった。

 ────明朗(めいろう)な緋茜と穏やかで優しい元明の人柄により、紫苑は徐々に警戒心を解いていった。
 かくして鳳邸での暮らしに慣れてきた頃には、緋茜が臨月(りんげつ)に入っていた。

『紫苑。ひとつだけ、約束してくれないかしら』

 生まれてくる子に思いを()せていた紫苑は、その真剣な声色に我に返る。

『ずっとこの子のそばにいて、守ってあげて』

 彼女が()()()()そう言ったのか、鳳家の事情を聞き知った紫苑には理解できた。
 幼くともその切なる心情を(おもんぱか)ることができないほど、鈍感な子どもではいられなかったからだ。

(……はい、奥方さま)

 ────そうして春蘭に仕えることになった。
 彼女を見ていると、緋茜と交わしたそんな約束を思い出す。
 それこそが恩返しである上に使命となり、存在意義となった。
 紫苑にとってそれは、決して(かせ)などではない。

「何もかもを見限り、諦めようとしていたあの頃のわたしに、奥方さまは“生きろ”とおっしゃってくださった」

 何も聞かずに真心をくれた、名をくれた、緋茜にも元明にも、そして春蘭にも感謝しかない。
 だからこそ、紫苑は尽くすのだ。
 命に替えても、約束を果たさなければ。

「そっか、そうだったんだな。無条件の信頼関係……そりゃ揺るがねぇわけだ」

 自身の過去については曖昧に誤魔化したものの、櫂秦が尋ねたことに紫苑は余すことなく答えた。
 彼自身の事情にいま踏み込んでいくほどの無神経さは、さすがに持ち合わせていない。

「春蘭の母さんは、何で……」

 命を落とす羽目になったのだろう。
 口を開いたものの、迂闊に尋ねてよいものか分からなくなり言葉尻がすぼむ。

「……いずれ話そう。お嬢さまにも、いつか伝えなくてはならないことがある」