「朔弦の言ってた“男”って、結局誰なんだよ?」

 思わぬところから矢が飛んできたような気になった。どうにか流れた問いかけを彼に蒸し返されるとは。

「……盗み聞きしていたのか」

「なんだよ。おまえも莞永と聞き耳立ててたじゃん。見てたぞ」

「おい……っ」

 図星であった紫苑は慌てる。しっ、と人差し指を立てるが手遅れなのは明白であった。

「紫苑は知ってんのか?」

「あ、ああ……。それは────」

「聞いてた通りよ。きっと朔弦さまの思い違い。本当に心当たりなんてないもの」

 答えかけたのを制するように春蘭が言う。
 (よど)みない口調だが、紫苑は驚いてしまった。

 夢幻との邂逅(かいこう)は確かな事実であるのに、どうしてそう頑なに知らぬふりを決め込んでいるのだろう。

 とても信じられず、納得がいかないというように櫂秦は口を尖らせる。顔にこそ出さないが、紫苑も同様であった。
 一抹(いちまつ)の不安が胸を掠め、訝しむ思いが強まる。

 そもそも────“夢幻”とは何者なのだろう。

 実の名も素性も過去も何も知らない。
 彼はなぜ、ああして(かくま)われるようにして暮らしているのだろう……?



     ◇



「聞きましたよ。主上が反抗されたとか」

 半蔀(はじとみ)の障子紙に浮かび上がった二対(につい)の影が揺れる。
 福寿殿からは子の刻(午前零時頃)を過ぎても灯りが漏れていた。

「…………」

 容燕の口ぶりは、王を非難しているのか太后を嘲っているのか分からない。
 いずれにしても不本意であることに変わりはなく、太后は険しい表情をたたえた。

『……嫌です』

『……いま、何と?』

『王妃は、余が選びます』

 はっきりと意思表示をした王。久しく目にすることのなかった“生きた表情”で。揺るがぬ眼差しで。
 正直なところ、太后はあのとき圧倒されてしまった。

「あのような生意気を許してなるものか……」

 茶杯(ちゃはい)を持つ手に力が込もり、茶の表面が波打つ。
 それを見た容燕は薄く笑った。

「わたしからも言って聞かせておきましょう。太后さまは、絶対に審査権を渡してはなりませんぞ」