紫苑は()てつくような静かな怒りをたぎらせ、彼に凄みをきかせる。
 普段の温厚篤実(おんこうとくじつ)ぶりからは想像もつかないような眼光の鋭さだった。

「人攫い……? ご、誤解だ。そんなつもりなど────」

「こちらは鳳家のご令嬢だ。手出ししようものならただでは済まない」

 あまりの気迫に気圧(けお)されていた彼だったが、それを聞いた途端にはっとした。
 じっと春蘭を見つめる。

「そなたが……」

 終始どことなく憂いを帯びているような彼の顔が、ほんのわずかだけ綻んだ。
 (かげ)っていた瞳に淡い光が射す。

 彼の反応を(いぶか)しんだ紫苑は露骨(ろこつ)に眉を寄せ、春蘭に向き直る。

「お嬢さま。この不審人物をこのまま官衙(かんが)へ突き出しましょう」

 官衙といえば各州都(しゅうと)に置かれた役所で、罪人の捕縛(ほばく)も担っていた。

 そんなことになれば面倒なこと請け合いだ。
 焦りながら紫苑の手を抜け出した彼は、さっと急いで距離をとった。

「わ、わたしはもう行かねばならぬ」

 では、と素早くふたりに背を向け、足早に歩き出す。

「待って」

 それまで沈黙を貫いていた春蘭が口を開いたことで、彼は反射的に歩を止めてしまった。
 どうしても官衙へ連行するつもりなのだろうか、と狼狽(うろた)えて視線を彷徨わせる。

「あなたの名は?」

 予想外の言葉に思わず振り向いた。
 春蘭から害心や邪心(じゃしん)を感じられなかったためか、先ほどまでの危機感が浄化されていく。

 ふわ、とどこからか運ばれてきた花びらが舞い上がって流れてきた。

「……再び、会ったときに。だから────」

 そこまで言いかけて、ぎくりと身を強張らせる。
 また会おう、という言葉は紫苑の醸し出す殺気に負けて口にできなかった。

「で、ではな」

「あ、ちょっと!」

 逃げるように(きびす)を返し、雑多な人混みに溶けていってしまう。
 彼の姿はすぐに見えなくなった。

「お嬢さま、お怪我はありませんか?」

 さっと春蘭に向き直った紫苑は、青ざめた顔でそう聞きながら確かめる。

「大丈夫、大丈夫よ。この通り何ともないから」

「傷や痕のひとつでもあったら……」

 心配が拭えず、答えに構わず春蘭の手を取った。
 あの男に掴まれていた手首を真剣に眺め、赤くなっていないことを確認するとようやく安堵の息をつく。

「……よかったです。何事もなく」

「もう、紫苑はいつも大げさね」

 困ったように笑われたが、そうなるのも無理はないだろう、と紫苑は胸の内で正当化した。

 目を離したらいつも何事かに巻き込まれているのだ。案ずるなという方が無理な話である。

 それだけではない。
 先ほどの男といい、光祥といい、やけに見目麗しい()がつくこともまた、紫苑を悩ませる一因だった。