王の妃になるという覚悟。そのための争いに身を投じる覚悟。
 そして、その先に待つ蕭家との戦いに挑む覚悟。

 春蘭はしばらくの間、黙り込んだ。
 長いようで短い沈黙はほどなくして破られる。

「……正直、まだ心は固まってないわ。でもわたしの役目は理解してるつもり」

 ただ、気持ちが追いつかないだけだ。
 自分がすべきことや周囲が自分に望むことは分かっている。いずれ無理にでも割り切るしかなくなる。

「…………」

 複雑な心境ながら、紫苑もまた莞永と同様の所感であった。

 贔屓目(ひいきめ)なしに見ても、春蘭は惰弱(だじゃく)な王をそばで支えるに当たって最適な人材なのではないだろうか。

 どうか王妃になって世を変えて欲しい。そう思う反面、後宮へ送り出すのは寂しいとも思う。
 いまのところ、それが紫苑の本音だ。

 彼女が入内(じゅだい)すれば、常にそばにいることはできなくなるかもしれない。己の手で守れる保証がなくなってしまう。
 自分を一番に頼ってくれなくなるかもしれない。

 春蘭の中で自分よりも王の方に比重(ひじゅう)が偏ったら、優先順位まで入れ替わってしまうだろう。
 いや、王妃になるのであれば当然そうであるべきなのだけれど。
 それは────辛い。あまりにも。

 自分の存在意義すら曖昧になりそうだ。

「ねぇ、紫苑」

 ふと静かに呼びかけられる。

「もし、わたしが後宮入りすることになったら……ついて来てくれる?」

「もちろんです」

 口をついて出たといった具合の即答ぶりである。
 聞かれずとも、頼まれずとも、最初から紫苑の答えは決まっていた。

「どこまでもお供いたします、お嬢さま」

 何があろうと、決して揺らがない。

『ひとつだけ、約束して』

 いまは亡き春蘭の母の声が頭の中で響いた。

 良妻賢母(りょうさいけんぼ)たる彼女はいつも優しかったが、そのときだけはどこか(おごそ)かだったのを覚えている。
 それでいて寂しげで、悲しげで、(すが)るようでもあった。

『ずっと春蘭のそばにいて。この子を守って』

 その約束はいつしか紫苑にとって使命となり、果てには存在意義となったのである。

「よかった。それなら、王妃になるのも悪くないかも」

 冗談めかして春蘭は笑ったが、そう遠くない未来を示しているような気がして、いっそう複雑な思いが胸の内を掠めた。

 どうにか蓋をして見て見ぬふりを決め込むと、普段通りの微笑をたたえる。

「……今日もあの丘へ寄られますか?」

「そうね、お願い」

 分かりました、と頷いた紫苑は上向けたてのひらを差し出す。

「お手をどうぞ、お嬢さま。中で芙蓉が待っています」