1
 狼たちの古い霊廟は、東方帝国様式の巨大な構造物だった。

 様式としてドーム構築の巧みさに特徴がある。四本の腕の長さが等しいギリシア十字の建物には合計で五つのドームが載っている勘定であった。正面の青銅扉を開けた玄関廊のある腕に一つ、それから左右と奥に同じサイズのものが一つずつ、これで四つ。それぞれにはガラス片を金属粉で着色したテッサラで、モザイクの絵画が描きこまれている。

 中央の交差廊部分は下部の壁からして、まるごと一個のドームになっている。それだけが違う趣向であった。モルタルと石と煉瓦で組み上げられた神殿の中心部は、漆喰でなだらかに仕上げられている。そこへラピスラズリの宝玉をすりつぶしてこしらえた高価な顔料で、一面の鮮やかな人工の青空が造りだされる。

 きっとどんな湖よりも、ずっと青いだろう。

 今では一面のこまやかな雲で、灰色の一色になった空。しかしこの聖殿では過去の失われた自然が再現される。

 この人工の天空はかつて最も美しい架空の夜空だ。星々の全てではないにせよ、黄道十二宮の星座が宝石で埋め込まれていた。さらには夏と冬の大三角形が同時に在った。

 一つ一つの恒星が複数の玉の集まりで具現される。さそり座のアンタレスやおうし座のアルデバランは、桁外れな大きさの真紅のルビーを一級品のダイヤモンドが取り囲んでいた。北極星と、特別にスペースを取ったお犬座のシリウス(天狼星)は青く光るサファイアだった。驚異的なことには天の川までが、無数の大小の真珠や荒いクリスタルカットの水晶で流れている。

 壁や床の大理石のタイルには数え切れない青銅板の墓標。貴人たちの魂は永遠の星空の下、終わりのない安らぎに眠っているのだ。ステンドグラスの絵画から流れ込む、生き生きとした人形の光の影。まるで幸福な楽園で歓談を楽しむようだった。石造りの列柱には果物のたわわになった樹木やら、酒杯やらがふんだんにあしらわれている。ここで眠るかぎりは飢えることも乾くことも永久にないであろう。

 そして霊廟の中央祭壇にはご神体、聖遺物が祭られている。一抱えもある青銅の鼎。意匠化された動物や植物の彫り物は、第一級の彫り物師の手になると一目瞭然である。ただし……真ん中には断ち切るようなひびが入っている。美術品としての造形が完璧であるだけに、そんな不慮の瑕疵はかえって痛々しく印象付けられるのだ。


2
 僧正は黙って、ご神体の前にたたずんでいる。

 目は半眼で薄く開き、焦点はどこか遠くを見通している。まるで水晶玉を覗き込む占い師のように、静かな神がかりの境にあるかのようだった。

 いつのころからか。この場所でひとりで瞑想に耽ることが多くなった。ずいぶん昔からだったろうか? 彼はもう覚えていない。端麗な見た目よりもずっと歳をとっていた。しかし老いてなお壮年にしか見えない若々しさは、血統の純度の高さを物語る。そして彼は聖域の真実を知っていた。

 例えば。この鼎の中身は蛇のようにのたうった、「異常巻き」のアンモナイトなのだと、過去に何度も実見している。そんなことは狼の貴族どころか、神官たちでさえごくひと握りしか知らない。

 人並み外れた知識というのは思考の深まりと苦悩をもたらす。

 一説によればその古代の貝は滅亡していく種の、末期世代の姿なのだという。悠久の時の流れに抗いえず、遺伝子の経年劣化により、もはや正常な形態さえ維持できなくなったのだと。

(なぜ?)

 僧正は疑問が湧き起こるのを禁じえない。

 どうしてそんなものがご神体なのか?

 それは「狼」の発祥当時から伝わるものだという。もしそうだとすれば、自分たちの種族は誕生当初から、避けられぬ破滅を運命付けられていたのではないのか? 自分たちを造り出した人間の「魔術師」たちは、最初から使い捨てるつもりだったのではないのか? 「危機」が過ぎ去り次第、人間を守り庇護した優生種族たちが、自然に自滅するように企んでいたのではないか? ……そんなにも非道な裏切りはなかった。

 しかし。

 しかし被造物が創造者を凌ぐこともあるだろう。

 彼は鼎の冷ややかな表面に手を触れる。それにはヒビがいって、もはや水を湛えることはできない。もし最初からこうだったのだとしたら。損なわれた子宮と、先天疾患を抱かえた鬼胎の仔。約束された滅亡を予言する暗喩、悪意の謎かけだったのかもしれなかった。

(だが……)

 僧正は気品ある眉間に意志をみなぎらせた。

 この悠久の昔、青銅製品を作った職人たちは奴隷だったのだそうだ。しかし製作を命じた権力者たちに比べて、どちらが高貴だったろう? 誰も製作を命じた王侯貴族の名など覚えていない。……それでもこの鼎は現在まで残っている。

「デミウルゴス(造物主)の技は、末永く残るものよ……」

 もしも未来が欲しいなら、自らが「作り手」になるしか道はない。造られた「もの」であることに安住しているかぎり……運命の神の思いつき、あるいは計画のための必然的帰結として破棄されることは避けられない。神の技を模倣することによってしか、望んだ未来は得られまい。



3
 その晩も内市の藩王宮殿では、明け方まで酒宴が催されていた。オーロラの明るい夜だった。急遽に予定を変更し、屋外のテラスに設置された会場は数百人の廷臣や召使たちでさんざめいている。

 藩王その人もまた席に着いている。大岩のようなサイズの豪奢なクッションに身をもたせ、隣に現在の寵妾マリーアをはべらせている。あのロシアンルーレットは彼女の発案になるイベントだった。物好きで残酷な狼淑女の典型である。

 よく連れだって、藩王宮殿の反対側に併設された競技場にも姿を見せる。

 奴隷の男たちを、どちらかが死ぬまで石で殴り合わせたり。

 囚人同士を炭火の上に寝かせて、お互いに罵り合わせたり。

 不届きな小姓を野獣の生餌にして見物したり。

 上品に口許を隠しながら、残酷な見世物を安全地帯から楽しむ。それこそが狼の作法の真骨頂、もっとも洗練された上流階級の究極の娯楽である。

 今日はその手のイベントがないので退屈そうだった。

「わたくし、つまりませんわ」

 彼女は老いた藩王にしなだれかかる。

「みなさん、きっと退屈なさるでしょうに」

 藩王は白い髭を撫でて、目じりを下げながらもたしなめた。

「これ。たまには普通の宴も良いではないか」

 昨日の今日のことである。あのとき居合わせた太子がロシアンルーレットに参加してしまったことで、寿命が縮んだ思いをしたらしかった。当分はご免だと心に決めているのである。貴族からいたずらに死傷者を出せば、仕舞には身内の若手からクーデターでもおこりかねない。主権者たる老人は残り少ない日々を安穏と過ごしたいだけだった。

「夜景も悪くはあるまいて」

 テラスは西を向いている。この方面では内市と外市の境は崖である(東方は特別地区もあって高い壁になっている)。

 一瞥すれば一目瞭然のピクチャレスクな眺望。風景さえも全てがこの藩王宮殿を中心に成立していた。このホラーサーンでは本質的に内市も外市も宮殿庭園の延長に過ぎないのであった。

 海原のような緑の彼方に、砂漠のような色。その方向だと、内市の貴族の屋敷は緑の瓦で、外市の貧民街はひび割れた素焼き瓦なのだ。両者の境は落ち込んだ崖とごく低い石塀であり、遠目には波打ち際のように連なって見えるのだ。さらに砂色の世界には色彩が散りばめられていた。あまりに近すぎる「不快なもの」は、巧みに木立や点景物で視線から隠蔽されている。

 そして小さく遠い大伽藍の隣には紅い幻想的な光が望めるのだった。


4
 内市の西の外れには古い古い墓標の海がある。あの幽霊地区と隣接しているエリアだった。貴人が葬られる東方帝国建築の大伽藍もそこに所在している。騎士のアイザックが眠る新しい墓地も。

 沈黙がオレンジの光の波に揺らめく様は、僧正にとって馴染み深いものだった。その地区で引き篭もって過ごして長いからだ。……それでも胸に迫るのは変わらない。

 終末を象徴する光景に、また一日が終わろうとしている。

『たまに自分自身までがとっくに幽霊になってしまった気がするのですよ』

 この大伽藍の主である僧正は、そんなふうに語ることもしばしばだ。

 幽霊は架空の存在ではない。こんな夕暮れ時には、消え去った者たちが彷姿を見せはじめる。空に緋色のオーロラが揺れ踊る朝方には去っていくのだ。紅い花の密生している一区画では特にそうだった。

 噂を聞きつけた人々が、連夜にかわるがわるやってくる。

 彼は何十年もその様を見てきていた。

 まるで連日が、古代人の夏至の祭日のように。生と死の境界は常に曖昧で、まだ「生きている」人々と彷徨い出した死者たちが、ごく日常的に混交する社会。

 もう幽霊との交わりも、いまどき珍しくもない。冥府の王に攫われて嫁したペルセポネの神話、亡き戦友と涙ながら語らった勇士オデュッセウスの物語のように。黄泉の女王と結ばれた円卓騎士の伝説や、ゴーチエの描いた命なき姫君の切ない恋のように。かけがえのない愛妻を墓から取り戻そうとした、あのオルペウスの竪琴の旋律は音もなくこの国を満たしている。

 近くイザナミの勝利が成し遂げられるだろう。

 僧正は鐘楼からの眺めに嘆息する。

 この昼の光も遠からず闇に閉ざされる。この狼の都の未来のように。

「摂理は曲げられぬものなのか……」

 往古の黄昏の残照は、日が沈む前に一等に美しく、真実の黄金色に照り映えたのだという。やがて銀色の月が薄れていく夕焼けを優しく引き取ったのだろう。

 狭間の一時、昼と夜の二様の光はふれあい、お互いにとけあってグラデーションの綾を織り上げていく。

 遠からず安らかな夜がくれば、生きとし生ける者全てが埋葬される。そのときには天球に数え切れない星たちが煌く。蛍の群れのような魂たちが終わりのない安らかな永遠に憩い、自在に戯れ遊ぶのだろう。

 何もかもが暗闇に沈んでしまう、その前に。

 無量の時の、ほんの一瞬の刹那だけが儚く鮮烈に輝くのだ。