1
 やっぱり呼び鈴は鳴らない。

 エステルは明かりのついていない部屋でベッドから起き上がった。

 シーツが皺だらけなのは、二日前の晩からずっと寝転がっていたからだ。着替えていないし、お風呂にも入っていなかった。

 魂が抜けてしまったみたいに。

 きっと、「彼」と一緒にどこか遠いところへ行ってしまったのだろう。

 心の抜け殻か、そうでなければ壊れたマリオネットだった。

「もう時間なのに」

 一週間前ならそうだっただろう。

 机で本を読みながら、だんだん退屈し、うとうとしだしたときにベルが鳴る。エステルは微量の驚きと期待に満ちた喜びで玄関口へ駆けるのだ。……許婚との二人きりの茶会のために。それは約束事、ほとんど習慣になっていた。

 枕もとの時計は、夜の八時半を指している。

 緑色の蛍光塗料がぼおっと淡く光っている。長針短針の二本の光はきっかり一分おきに一秒だけ途切れる。秒針は律儀な歩みで流れる時を刻んでいる。

 もう彼女にとっては時間の経過など無価値なだけだった。今か今かと待つことの意味は、一昨日の晩には失われていた。

 軽量な天蓋つきのベッドの上に座って、そっとカーテンを払いのける。

 風か何かで少し動いたような気がした。

 窓が閉まっているから、風のはずがない。だとしたら、彼かもしれないと思った。

「……いない」

 当たり前だった。

 生きているときでさえ、窓からこっそり部屋に押しかけてきたことなどない。ましてや死んだ人間は恋人を訪ねたりしないものだ。

 亡くなったのは三日前、藩王の主催した宴席でだった。

 倦怠した「狼」の貴族たちは、ほんの戯れ遊びで生命を玩具にする(剣闘士たちを見世物に殺し合わせる事くらいは、ごくごく日常茶飯だ)。

 だが今回の犠牲者は自由意思のもてない奴隷ではなかった。

 もちろん似たような前例がないわけではない。

 上級階級にとっても自害や処刑、決闘による早世はつきものだ。しかし酒の席のゲームとはいえ同胞の命を余興で奪うなど、もはや正気の沙汰ではなかった。

 ゲーム?

 エステルは眉間を曇らせ、毛布を握りしめて頭を左右させる。

(ちがう、殺されたのだ)

 騎士が宮廷で「勇気」や「名誉」を問われれば、応じないわけにはいかなかった。皇帝や廷臣たちとて、そんなことは重々承知していただろう。おまけに狡猾な老人たちは参加者に賞品までつけ、思慮の足りない若者たちをけしかけたのだという。

 結果、「酒の席に一興を添えた」褒美の翠玉を下賜され、それはエステルに遺贈された。

(殺されたのだ……!)

 エステルは目許が熱くなる。手で押さえても涙が止まらなくなってしまう。

 彼は自分の地位が低いために、彼女に飾りの一つも与えられないことを気に病んでいた。

(宝石だけあったって、あなたがいなくなったら仕方ないわ)

 エステルは暗い部屋でしゃくりあげ、さめざめと泣きつづけた。いかな「狼」の令嬢といえ、心まで虎狼になっているわけではない。たかが二十歳にもならない娘である。

 暗い窓ガラスに映ったエステルの姿は、やつれてもなお美しい。

 流れるようなシルバーブロンドの髪にヴァイオレットの瞳がよく映える。バランスのいい目鼻立ちは芸術家の造形物のように端麗だった。透けるようなネグリジェに守られたなで肩は、細い両腕と豊かな胸に続いている。

(キスするとき、ちょうどクッションだったっけ)

 そんな思い出が脳裏をよぎり、微笑む。

 急に悲しくなる。彼とあんなふうに唇を交わすこと……もう一度、はない。

 彼女はまたしゃくりあげ、机上に眼をやった。

 あの翠玉は魂の器でもあるかのように、闇の中でおぼろに光っていた。


2
 エステルが屋敷を抜け出したのはその晩の遅くになってからだった。もうじき日付が変わろうとしている頃だ。

 夜気は冷ややかに澄みわたっていた。

 幅広な石畳の目抜き通りには、列になったガス灯があかあかと点っている。軒を並べた屋敷は多くが明かりを消している。それでも遠くに街明かりが見える。ちょっと耳を澄ませば小道の空気の流れに乗って、喧騒が聞こえてくる。深夜まで続く酒宴は珍しくない。息をひそめる家々の持ち主たちが、必ずしも就寝中とは限らないのだ。連日の宴会に出かけて留守という場合が少なくない。

「にぎやかね」

 エステルはポツリと呟いた。普段は胸がおどった夜の街の気配も、気持ちを浮き立たせることはなかった。砂を噛むように味気なく、かえってしらけた気持ちになってしまう。胸中に虚しさがこみあげてくるのが押さえられない。

 誰もが求めているのだ。忘却を。

 本当はよく知っているのに、美酒に酔いしれて忘れたふりをしている。

 生と終末の苦悩から逃れるため、享楽をよそおってごまかす。

 きっとみんな、酔いどれ、歌い、笑いながら死んでいくのだろう。魂が身体を離れる瞬間さえ、それと自覚することもなく。上辺の栄華など実体のない影のようなものだ。

 エステルはようやく、大切だったことを理解した。

 華やかさなどただの飾りでしかなかった。ちょうど大事な宝石を入れるための箱のようなものだ。いかに壮麗にしつらえられていたとしても、肝心肝要の中身が空っぽならば、そんなものに何の値打ちがあるだろう。

 小さな手は無意識に、ポケットの中の翠玉を握りしめていた。それは「彼」が遺した魂の形見みたいなものだった。

「ばかみたい」

 どうしてつまらないことで、彼を責めたりしたのだろう?

 強く目をつぶり、しばし煩悶した。「いっつも安い花でごまかすのね」とか、「どうしてあなたはもっといい服を着ないの」とか、「友達はみんな、一緒に着飾ってパーティに連れて行ってもらうのよ」と言って駄々をこねた。

 そんな意地悪な態度が彼を無茶な勇気、ひいては死に追いやったのかもしれない。

 後悔と罪悪感が襲ってきて、押しつぶされそうになる。

 胸元を強く押さえて、心臓の底から溜息する。

(ごめんなさい……)

 失ってから気づいても、もう遅すぎた。

「……ばかみたい」

 もう一度同じ呟きを繰り返した。目が涙に霞む。頭をかしげて遠い光を一瞥し、すぐに視線を前方に戻した。

 闇に霞んでいる。この道の先は城壁に行き当たっているのだ。

 城市は二重構造になっており、「狼」の貴族たちが住む内市と外部の平民が住む外市とは、城壁と空き地で隔てられている。だから外市はちょうど、巨大なドーナツ型の敷地になっている。

 そのままおもむろに街の境にまで足を伸ばした。

 夜間は城門が堅く閉ざされている。昼であっても外から内市(宮廷とお屋敷街)に許可なく入ることは禁じられている。

 しかし外へ出る分には自由も同然。そもそも石造りの塀は、内市側からならば必ずしも高くはない(方面によって差がある)。それに高い箇所であっても、内側の壁面にある階段は簡単に最上部へと昇ることを許している(あくまでも外部に対する防壁でしかない)。

 道の行き止まりは、自然の地形を利用し、外市に崖のように落ち込んでいる造りである。エステルは砂岩の石段を五段のぼり、城壁の上の小道に立った。

 平民たちの住む外市もまた、時間帯がら暗い。環状道路もはっきりとは見えない。光が集まっている場所が散在しているのは歓楽街だろうか。

 一等暗いところもある……地図にはっきり記されない、内市の僧院に近い区域だ。

 幽霊地区。平民たちはそう呼んでいるらしかった。

 さる貴婦人のサロン、同年輩の友人に聞いた噂話が蘇ってくる。

『幽霊地区って言ってさ。本当に出るそうよ、幽霊が……』

『真夜中に、古い服で着飾った子どもが輪になって踊ってたって』

『亡くなった先代の藩王様が井戸の縁で、あの琥珀の水煙草をふかしてたって』

 エステルはごくりと唾を飲み込んだ。

 そんな馬鹿なことがあるはずはない。

 でも……。

 彼女は眼下に広がる暗闇の一角を見つめた。照明とは色調の異なる、どことなく青い光がパラついているのは、あの花だろうか。

『あの青い花って。たまに紅いのが咲くんだって』

 頭の奥でチリチリと、誰かの不明瞭な声が喋っている。

『四葉のクローバーみたいに、見つけると願い事が叶うんだそうよ』

 願いが叶う。

 常識的に考えて、一度死んでしまった人間が生き返るはずがない。いかに「狼」の騎士とはいえ、致命傷を負って冷たくなってしまったら、命を戻すのは無理というものだ。いかに悲しみに心乱れようが、そんなことは判りきっている。

 でも……。

 それでも幽霊なら。彼の魂が天に召される前に、夢枕にでも現れてくれたなら。せめて一言二言言葉を交わし、詫びるくらいはできるのではないか? せめてもう一度だけ、ちゃんと「ありがとう」と言いたかった。

 ポテットから取り出した小さな翠玉は重々しく、美しい。明るいオーロラを反射して、キラキラ光っている。彼が命と引き換えに与えてくれたものだ。こんなにも愛してくれた魂が、自分に別れも告げずにこの世から立ち去るはずがない。

 彼はこの暗闇のどこかで、彼女を待っているのではないだろうか? 恋慕の情から義務感と焦燥が募る。無駄と理解しつつも、試してみなければ気がすまなくなってくる。

 エステルは城壁の縁に一歩近寄り、手すりに身を乗り出す。たかだか七メートル。狼の娘にとって、さしたる高さでもない。

 次の瞬間には手すりを飛び越えて、虚空に身を躍らせていた。

 狼の娘はスカートをはためかせて、眼下の闇に吸い込まれていった。