1
 その晩。アロンが呼び出し誘われた行く先は内市の南の外れにある庭園だった。

(いったいどういうつもりなんだ?)

 彼は油断のない面持ちで一分の隙もない。

 エステルが去った直後、夕刻に使いが宿を訪れたのだった。

 非公式での会談の要請のために。

(さして悪意は感じられなかったが……)

 釈然としない。アロンは戦士としての本能からか、近辺の地形に目を凝らす。

(ひとまず伏兵の気配はないか)

 本心から言えば完全に信用しているわけではなかった。単にこの場に呼び出した相手への警戒だけではなく、この狼の都の貴族たちに対しても心を許しているわけではない。だからこそ、あえて外市に滞在していたのだ。

 使者は手紙と共に内市への通行許可証までを持ってきた。詳しい身元こそ明かされなかったが、かなりの地位がある者の指図だと考えて差し支えないだろう。……だからこそかえって奇妙でもあるわけだが。

(こんなところで、こんな時間に)

 おおっぴらにできないような話だとでもいうのか。

 昼間に屋敷や公の施設に呼び出さないあたりからしてもおかしい。

 やって来て実感する。

 人気もなく、ずいぶんと寂しい場所だった。

 煉瓦造りの迷宮めいた遺構をそのままに利用して、うっすらと上書きするように整備したのだろう。倒れた円柱が折れて横たわった上に跡付けの天使の像が取り付けられている。反対側には方錐形の黒いオベリスクがあり、天使と対になって入り口を示している。

 無造作に配置される石の階段のところどころは花壇になっていて、色とりどりの草木が植えられ、緑の乾きを癒してくれる。水路の一部はそのままに再利用されており、新しい鉛管で必要に応じてつなぎなおされている。小型の白大理石の噴水もあちこちに設置されている。まるで古い時代を偲ぶ妖精の園のようだった。

 アロンは聴覚を研ぎ澄ましながら、庭園に入り込んでいく。

(正面入り口から直進して右手)

 待ち合わせは噴水のある小さい広場。

 色あせた大壁画の、無数の動物たちは暗号、錬金術の技法を象徴的に表現したもの。硫黄と水銀の聖なる結婚から卑金属を金や銀に変え、人間を神々に等しい不死にするという秘薬が生まれるとされている。

 その手の図案はアロンにとっても馴染み深い。

 龍や狼といった優生種の起源には錬金術が関係しているそうだ。


2
 アロンは煉瓦の壁を背後にして、会談相手を待つ。

 ほどなくして夜気を異音が切り裂いた。

 彼の手は素早く、あからさまな殺意を捕らえる。

 一本の矢が胸の前で震えている。矢柄は彼の手に捕まえられていたけれど。

「ふざけるな!」

 龍の伯は銀色の眼をいからせ、廃墟庭園の闇に一喝する。

 とっくに傍らの倒れた石柱に身を伏せていた。慣れた動作だ。

「どういうつもりだっ!」

 大声で怒鳴りつけながらも頭は冷静に事態を分析している。

 物音から探るに気配は一つ。そもそも確実に殺すつもりならば、たった一本だけ射掛けてくるのも妙ではあった。包囲されている様子もない。

 闇の奥で若い声が応える。

「呼び出しておいて、このもてなしは心外だと?」

「そうだ」

 アロンは冷ややかに答えて短剣を抜く。イザコザの経験がないわけもない。

 闇の奥、ただし今度はやや近くで笑う気配がした。

「ふっ、わたしには城の主人としての権利がある、と思うのだがね」

 アロンは相手の言い分に耳を澄ます。対話者は高みから投げるように語をつないだ。

「そもそも君は何者なのかね?」

「……アウストラシアの伯、アロン。公式に書類で提出したとおりだ」

 沈黙の刹那、二本目の矢が頭上をかすめる。

「そんな自己申告は判っている。あの親書を見るかぎり、そんなことは重々了解済みだ」

「だったら……」

 苛立たしげに抗弁するアロンに、暗闇の中の対話者は毅然として問うた。

「君は本当に、『龍』なのかね? 銀色の目の龍の話など、わたしは聞いたことがない」

 アロンは落ち着いて、逆に問い返した。

「だったら……俺も質問させてもらおうか?」

「まさか、さっきの問いを繰り返すつもりではあるまいね」

「……俺も聞いたことがない。『エメラルド板』の宝石を外して、遊興の景品にやってしまうなんてのはな! それとも何か企んでいるのか?」

 アイザックからエステルに遺贈された翠玉のことだ。

 あれこそ起源の書『エメラルド板』の断片であった。

「ほう?」

「とぼけるな!」

 アロンは今度こそ怒りを露わにする。本気で激怒しているふうだった。

「ただの狼の娘が持っていた。ロシアンルーレットの賞品なんだそうだ……しかも宮廷で! サイズからしても、カットの仕方からしても間違いない。あれはエメラルド板の装丁の装飾に使われてたもんだ。お前らは、いったいどういう杜撰な管理をやっているんだ?」

 それは滅び去った過去の文明が遺した叡智の集成。錬金術の奥義書たる、トトの知恵の書は、あまたの優生種の起源の書でもある。

 アウストラシアでも、分冊が神殿の奥で厳重に守られている。たとえ表面上の飾りとはいえ、外して玩具にするなど常識的にありえない話だった。

 アロンはほとんど糾弾する口調で声を高くする。

「皆が皆して、気でも狂ってんのか、貴様らは?」

 二秒ほどの間があって、大きな声が聞こえた。

 笑っていた。大爆笑だった。

「ああそうだろうよ。いかれているのさ、この国はな!」

 石畳を踏む足音が聞こえ、若く見える騎士が姿を現す。

 見事な金色の髪を風になびかせて、威風堂々と進み出る。若くは見えたが王者のような物腰で、高貴さをうかがわせる威厳があった。

「あのエメラルドは、最初、親父の寵妾に僧正が投げ売った」

 アロンは眉をひそめる。

「なんだと? そんな馬鹿な……」

 僧正、おそらくは保管の責任者だ。常識的にありえない。

「本当だ。研究資金が不足したんだそうだ」

 何の研究かは訊ねるまでもない。種族の延命のための研究であることはすぐに察しがつく。だからこそアロンは絶句した。

「国家事業だろう? これだけ平民種から巻き上げていて、資金が足りないなんて……」

「だったら良かったんだが。とっくに諦めているのさ。貴族連中の大半は今の贅沢のほうが大事なんだそうだ。ツケは未来の世代に支払わせるつもりなのさ。『我々の後には大洪水』なんてのが、流行のモットーなんだから……」

 太子は半分諦めたようなやるせない笑顔で肩をすくめる。

「……真面目に将来のこと考えてるのは一部の連中だけなのさ。あの僧正、初めのうちは、自分らの教会堂の宝石を外して、ガラス玉に入れ替えたりしてたんだが。そのうちやっぱり値崩れが起きて、にっちもさっちもいかなくなって。……市場が限られてるんだから、当たり前なんだろうがな」

 度し難い真相に唖然とするアロン。

 彼は呆れ果てて目を丸くした。「信じられない」と顔に書いてある。

「正気も狂気もどう違うかね? この国じゃ同じことだ! キチガイが牛耳ってるんだからな。真面目だから長生きできるとも限らんのさ、現実は」

 太子は傲と構えて、うんざりした口調で反論した。

「翠玉を受けとった娘のことも聞き及んではいる。運悪く死んだ、同志のアイザック君は気の毒だった。遺伝子欠損をずいぶん気に病んで思い詰めていたようだったが、あの婚約者の娘は最後までなーんにも知らなかったようだな」

 太子は一息吐いてから剛毅に名乗りをあげた。

「……申し遅れた。余は現藩王の第三王子にして太子、ホスロー。このまま行くと、将来この国の破滅の全責任を押し付けられる予定になっていた男だ。だからアイザック君とも大して変わらん立場だ。世代交代の『ロシアンルーレットで大当たり』でも出したようなものだ。余の受けとる一等賞品はさしづめギロチンか、磔刑の十字架だろうな」

 物怖じしない言い草にはほとんど悟りの境地が察せられる。

 しかしアロンは内容ではなく語調に微妙な違和感を持った。