1
その晩は荒野にも宵のオーロラが明るかった。
白銀に青や紫を混ぜた光のべールが、幾重にも幾重にも、重層的に世界を照らしている。この金属質の荒野も例外ではない。鉱物樹の大森林は煌びやかに天空の光を照り返し、遠目には活況を呈するメガロポリスの蜃気楼にでも見えたかもしれない。
だが現実にはとても人間の住めるような土地ではなかった。普通の人間ならば、ほんの数日で毒に冒され、屍となって倒れ伏すだろう。
ここには可住域の指標である、あの青い花の群れは見当たらない。
こんなところに生きられるのは「鬼」くらいのものだ。
汚染された世界で人間を保護するために造られた、「人工の神々の種族」は年老いた。遠い昔に造られた、ヒトとの上位互換性を持つあまたの種族。多くはとうに遺伝子の劣化によって滅び、あるいは鬼と成り果てていた。彼らはかえって守るべきはずのヒトを餌食とした。
この世界はいまだに浄化されてはいない。
一切が、破滅へと傾斜していく。時の流れは終末へのカウントダウンを刻んでいる。
数多くの国々が消え去った。コロニーの城市は年々その数を減らしている。
それでも今ひとつの人影が、ぽつぽつと融けない雪に足跡を刻んでいく。
丈夫な黒いトレンチコートには唐草模様に銀の刺繍。黒地がちな光沢ある布にはところどころ、金色の花や小動物がアクセントを置いている。腰のベルトの左右に厚みのある山刀(先の尖った鉈のような短剣)を帯びている。鞘には蒔絵装飾がなされ、コートの柄によくあっていた。ただし鳶色の髪は風で乱れている。
長旅による疲労と磨耗の痕跡はぬぐえない。
アロンは遥か西方から来た旅人だった。
銀色の瞳の「龍」。アウストラシア王の命により、東方の探索に赴いたのだ。
太陽も星も燃え尽きたことになっている。
だが旅人アロンは知っていた。ぶあつい化学物質混じりの雲が天球をくまなく覆っているだけなのだと。宇宙の恒星から地表に届くエネルギーの減少が地球上の文明に衰退をもたらした。まだ太陽は死んでいない。その証拠に、オーロラを生み出しているのだ。
「今夜は満月なのかな」
暗く閉ざされた空を見上げ、呟いた。
銀の虹彩には踊るオーロラが映っている。今の光は昼間の白熱とは違う。青や金の混じった、優しいスペクトル。それにこの明るさ。
そうだ、やっぱり満月だ。
彼は頬をほころばせ、気をとりなおした。
土地によっては、雲に空いた穴から星空が見えるのだという。彼は見たことがなかった。だがいつかは出会えるだろう。いつか月をこの目で見てみたいものだと、彼は思っていた。
闇夜に手を伸ばす。
月や太陽をつかめるわけでもあるまいに。
2
踏みしめている雪は融けない。雪の細片と金属やガラス質の砂が入り混じって、地面は白一色に塗り固められている。ところどころにコケが生えてはいても、夜間には闇の影に紛れてしまうものなのだ。
けれども例外は常に存在する。故郷のアウストラシアの町々は青い花の道で結び合わされている。まるで灯台のように進路を導く光。儚くも闇夜になど負けはしない、健気なまでに淡くたしかな燐光。人の生存を許す目印。
アロンは目を瞠った。
「やった」
いかめしかった彼の顔に笑みがひろがる。どことなく子どもっぽい笑顔だった。
白夜のような薄闇に、一輪の青い燐光。
白いガラスのような砂に咲くその青い花は、ヒトの可住域の徴。
一本だけポツンと生息していることはまずありえない。近くに群生していて、そこから種子が飛んできたのだろう。……ならば人間の住む土地は近い。
これで長旅が空振りに終わり、虚しく往復するような羽目にはならずにすみそうだ。
彼は嬉々として足を速めた。
3
金属が入り混じった梢上に、目方のある何かがうごめいた。
アロンははたと足を止め、油断なく様子を窺う。
世界は白亜の砂雪と金属光沢の木立。張り巡らされた枝々には静寂。だが……。
山刀を抜き放つのと、闇の塊が頭上から落ちてくるのは同時だった。
横に転がって身をかわす。片膝立ちに立ちあがり、向き合った目に飛び込んできたのは、やはり「それ」だった。
憐れなまでに異様でおぞましい怪物。
やせ細り、黒耀石のように黒光りしている肌はところどころが破け、血膿を流している。ボロボロの衣服はもう何年も着替えていないことを物語っている(そんな「人間的な」習慣など、とうに忘れてしまったのだろう)。発狂して正気を失い、生きたままに地獄に落ちたのだ。燃え立つような赤い髪が責め苦の炎を連想させた。青い瞳は冥界の鬼火のようにらんらんと輝いている。
正真正銘の鬼。
かつて「神」であった者たちの、哀れななれの果ての姿。遺伝子の劣化で守護天使から悪魔に転落した優生種。まさしく実体を持った悪霊であった。
アロンは両足で立ちあがり、両手には片刃の短剣を二刀に構えている。
銀色の目は穏やかだった。鬼でなく、理知を宿している。そして獲物を狙う肉食獣のように冷たく。あるいは一片の憐憫も混じっていたのかもしれない。
飛びかかってくる。超人的な跳躍だった。魔の襲撃者。
しかし……。
凶獣の落下地点にいたアロンは、片方の刃で爪を払いのけ、もう一方で体重を受け止めた。銀の刃の切っ先が血塗られ、黒い背中から飛び出す。鍛えられた鋼はあやまたず心臓を貫いている。一息に引き抜くと、どす黒い血潮を吹き上げてくずおれた。
爪の一撃を受けた短剣は刃こぼれしてもう使い物にならない。もし怪物にもう少し知力があって、フェイントで胴体にでも当たっていたら。大怪我どころではすまなかっただろう。神を殺す力を残してこそ、鬼。
そして造られた上位種族は人の姿をしている……心はどうなのだろうか。
「獣になっては、ヒトには勝てない」
アロンはポツリと呟いた。己が末路を悟るが如く寂しげに。
鬼は末期の痙攣にうめいている。じきに息絶えるだろう。さりとて放置するのも気の毒だった。トドメを刺そうとしたとき、背後で足音が聞こえた。……足音?
振り返れば尼僧姿の女がいた。金の刺繍であやどられた白いフード。色あせた赤い前髪と穏やかな黒い顔立ち。その肌の照り返しは彫像のように硬質だというのに、なぜか温かさを感じさせる。首周りには煌びやかなロザリオをかけていた。
「あなたがやったのですか?」
アロンはとっさに身構え、鋭い目つきで闖入者を睨む。
けれども彼女に動揺の色はなく、かえって威儀をただした様子さえみえる。
「あなたが、殺したのですか?」
年老いた女はもう一度、ごく理性的な声音で問いかけた。アロンは無言で頷く。
「……そうでしたか。あなたが……。それが、わたしの夫だったのですよ」
老尼の目線は「鬼」に注がれている。彼女の手には先の尖った、大きな包丁があった。みねに少しばかり錆びがある他は、ごく鋭利に研ぎ澄まされている。
「百年よりも、もっと長くつれそって……わたしたちが「羆(ひぐま)」の種族の、最後の生き残りでした」
歩み寄ってくる女。目はどこか遠い。
ロザリオを揺らし、女は大きな包丁を持ち上げる。
アロンは黙って道をあけた。
「とても長かったのですよ……。でもこれで、やっと終わりました」
老婆はかつて夫であった者の、懐かしい喉に包丁を当てる。
鬼は神妙で抗わない。面持ちはごく穏やかだった。
本来なら遺伝子を改良された優生種に、「ボケる」などということはありえない。しかし末世である。どうやら彼らは最後の一組だったらしい。この尼僧、発狂した老夫を長年追いまわしていたのかもしれなかった。
引導をわたして楽にしてやるために。
やむにやまれぬ事情での山姥行為であった。
老妻は布で丁寧にくるんだ夫の首を抱きかかえ、ほっとしたような疲れた笑みを向けていた。目に涙が光っている。
「どうか焼香でもしてあげていただけませんか? これでも主人は、元はつわものでした。自分に勝ったような、お若い方にお弔いいただければ……きっと草葉の陰にも喜ぶと思うのです。それに、一宿一飯くらいはさしあげられます」
アロンは頷く。彼は屍の胴を担いだ。
老尼はにっこりとし、皺のある黒い手で愛しげに首級の包みをなでた。
「あなたは旅の方のようですね。……ここからそう遠くない場所に、『狼』の統治する街があります。道も教えてさしあげましょう……嘘吐きで気に食わない連中ですが」
4
星と太陽が燃え尽き、月が溶けて消えた世界で。
「狼」の藩王主催の宴会で、余興にロシアンルーレットが行われた。
若い騎士が一人、頭をボウガンで撃ち抜いて死んだ。
愚かな勇気と儚い命の引き換え、一等賞品の名高い宝玉が下賜された。
廷臣たちは手を打って喝采し、彼のために祝杯をあげた。
これはホラーサーン(日の昇る場所)と呼ばれた、終末の国の物語。
その晩は荒野にも宵のオーロラが明るかった。
白銀に青や紫を混ぜた光のべールが、幾重にも幾重にも、重層的に世界を照らしている。この金属質の荒野も例外ではない。鉱物樹の大森林は煌びやかに天空の光を照り返し、遠目には活況を呈するメガロポリスの蜃気楼にでも見えたかもしれない。
だが現実にはとても人間の住めるような土地ではなかった。普通の人間ならば、ほんの数日で毒に冒され、屍となって倒れ伏すだろう。
ここには可住域の指標である、あの青い花の群れは見当たらない。
こんなところに生きられるのは「鬼」くらいのものだ。
汚染された世界で人間を保護するために造られた、「人工の神々の種族」は年老いた。遠い昔に造られた、ヒトとの上位互換性を持つあまたの種族。多くはとうに遺伝子の劣化によって滅び、あるいは鬼と成り果てていた。彼らはかえって守るべきはずのヒトを餌食とした。
この世界はいまだに浄化されてはいない。
一切が、破滅へと傾斜していく。時の流れは終末へのカウントダウンを刻んでいる。
数多くの国々が消え去った。コロニーの城市は年々その数を減らしている。
それでも今ひとつの人影が、ぽつぽつと融けない雪に足跡を刻んでいく。
丈夫な黒いトレンチコートには唐草模様に銀の刺繍。黒地がちな光沢ある布にはところどころ、金色の花や小動物がアクセントを置いている。腰のベルトの左右に厚みのある山刀(先の尖った鉈のような短剣)を帯びている。鞘には蒔絵装飾がなされ、コートの柄によくあっていた。ただし鳶色の髪は風で乱れている。
長旅による疲労と磨耗の痕跡はぬぐえない。
アロンは遥か西方から来た旅人だった。
銀色の瞳の「龍」。アウストラシア王の命により、東方の探索に赴いたのだ。
太陽も星も燃え尽きたことになっている。
だが旅人アロンは知っていた。ぶあつい化学物質混じりの雲が天球をくまなく覆っているだけなのだと。宇宙の恒星から地表に届くエネルギーの減少が地球上の文明に衰退をもたらした。まだ太陽は死んでいない。その証拠に、オーロラを生み出しているのだ。
「今夜は満月なのかな」
暗く閉ざされた空を見上げ、呟いた。
銀の虹彩には踊るオーロラが映っている。今の光は昼間の白熱とは違う。青や金の混じった、優しいスペクトル。それにこの明るさ。
そうだ、やっぱり満月だ。
彼は頬をほころばせ、気をとりなおした。
土地によっては、雲に空いた穴から星空が見えるのだという。彼は見たことがなかった。だがいつかは出会えるだろう。いつか月をこの目で見てみたいものだと、彼は思っていた。
闇夜に手を伸ばす。
月や太陽をつかめるわけでもあるまいに。
2
踏みしめている雪は融けない。雪の細片と金属やガラス質の砂が入り混じって、地面は白一色に塗り固められている。ところどころにコケが生えてはいても、夜間には闇の影に紛れてしまうものなのだ。
けれども例外は常に存在する。故郷のアウストラシアの町々は青い花の道で結び合わされている。まるで灯台のように進路を導く光。儚くも闇夜になど負けはしない、健気なまでに淡くたしかな燐光。人の生存を許す目印。
アロンは目を瞠った。
「やった」
いかめしかった彼の顔に笑みがひろがる。どことなく子どもっぽい笑顔だった。
白夜のような薄闇に、一輪の青い燐光。
白いガラスのような砂に咲くその青い花は、ヒトの可住域の徴。
一本だけポツンと生息していることはまずありえない。近くに群生していて、そこから種子が飛んできたのだろう。……ならば人間の住む土地は近い。
これで長旅が空振りに終わり、虚しく往復するような羽目にはならずにすみそうだ。
彼は嬉々として足を速めた。
3
金属が入り混じった梢上に、目方のある何かがうごめいた。
アロンははたと足を止め、油断なく様子を窺う。
世界は白亜の砂雪と金属光沢の木立。張り巡らされた枝々には静寂。だが……。
山刀を抜き放つのと、闇の塊が頭上から落ちてくるのは同時だった。
横に転がって身をかわす。片膝立ちに立ちあがり、向き合った目に飛び込んできたのは、やはり「それ」だった。
憐れなまでに異様でおぞましい怪物。
やせ細り、黒耀石のように黒光りしている肌はところどころが破け、血膿を流している。ボロボロの衣服はもう何年も着替えていないことを物語っている(そんな「人間的な」習慣など、とうに忘れてしまったのだろう)。発狂して正気を失い、生きたままに地獄に落ちたのだ。燃え立つような赤い髪が責め苦の炎を連想させた。青い瞳は冥界の鬼火のようにらんらんと輝いている。
正真正銘の鬼。
かつて「神」であった者たちの、哀れななれの果ての姿。遺伝子の劣化で守護天使から悪魔に転落した優生種。まさしく実体を持った悪霊であった。
アロンは両足で立ちあがり、両手には片刃の短剣を二刀に構えている。
銀色の目は穏やかだった。鬼でなく、理知を宿している。そして獲物を狙う肉食獣のように冷たく。あるいは一片の憐憫も混じっていたのかもしれない。
飛びかかってくる。超人的な跳躍だった。魔の襲撃者。
しかし……。
凶獣の落下地点にいたアロンは、片方の刃で爪を払いのけ、もう一方で体重を受け止めた。銀の刃の切っ先が血塗られ、黒い背中から飛び出す。鍛えられた鋼はあやまたず心臓を貫いている。一息に引き抜くと、どす黒い血潮を吹き上げてくずおれた。
爪の一撃を受けた短剣は刃こぼれしてもう使い物にならない。もし怪物にもう少し知力があって、フェイントで胴体にでも当たっていたら。大怪我どころではすまなかっただろう。神を殺す力を残してこそ、鬼。
そして造られた上位種族は人の姿をしている……心はどうなのだろうか。
「獣になっては、ヒトには勝てない」
アロンはポツリと呟いた。己が末路を悟るが如く寂しげに。
鬼は末期の痙攣にうめいている。じきに息絶えるだろう。さりとて放置するのも気の毒だった。トドメを刺そうとしたとき、背後で足音が聞こえた。……足音?
振り返れば尼僧姿の女がいた。金の刺繍であやどられた白いフード。色あせた赤い前髪と穏やかな黒い顔立ち。その肌の照り返しは彫像のように硬質だというのに、なぜか温かさを感じさせる。首周りには煌びやかなロザリオをかけていた。
「あなたがやったのですか?」
アロンはとっさに身構え、鋭い目つきで闖入者を睨む。
けれども彼女に動揺の色はなく、かえって威儀をただした様子さえみえる。
「あなたが、殺したのですか?」
年老いた女はもう一度、ごく理性的な声音で問いかけた。アロンは無言で頷く。
「……そうでしたか。あなたが……。それが、わたしの夫だったのですよ」
老尼の目線は「鬼」に注がれている。彼女の手には先の尖った、大きな包丁があった。みねに少しばかり錆びがある他は、ごく鋭利に研ぎ澄まされている。
「百年よりも、もっと長くつれそって……わたしたちが「羆(ひぐま)」の種族の、最後の生き残りでした」
歩み寄ってくる女。目はどこか遠い。
ロザリオを揺らし、女は大きな包丁を持ち上げる。
アロンは黙って道をあけた。
「とても長かったのですよ……。でもこれで、やっと終わりました」
老婆はかつて夫であった者の、懐かしい喉に包丁を当てる。
鬼は神妙で抗わない。面持ちはごく穏やかだった。
本来なら遺伝子を改良された優生種に、「ボケる」などということはありえない。しかし末世である。どうやら彼らは最後の一組だったらしい。この尼僧、発狂した老夫を長年追いまわしていたのかもしれなかった。
引導をわたして楽にしてやるために。
やむにやまれぬ事情での山姥行為であった。
老妻は布で丁寧にくるんだ夫の首を抱きかかえ、ほっとしたような疲れた笑みを向けていた。目に涙が光っている。
「どうか焼香でもしてあげていただけませんか? これでも主人は、元はつわものでした。自分に勝ったような、お若い方にお弔いいただければ……きっと草葉の陰にも喜ぶと思うのです。それに、一宿一飯くらいはさしあげられます」
アロンは頷く。彼は屍の胴を担いだ。
老尼はにっこりとし、皺のある黒い手で愛しげに首級の包みをなでた。
「あなたは旅の方のようですね。……ここからそう遠くない場所に、『狼』の統治する街があります。道も教えてさしあげましょう……嘘吐きで気に食わない連中ですが」
4
星と太陽が燃え尽き、月が溶けて消えた世界で。
「狼」の藩王主催の宴会で、余興にロシアンルーレットが行われた。
若い騎士が一人、頭をボウガンで撃ち抜いて死んだ。
愚かな勇気と儚い命の引き換え、一等賞品の名高い宝玉が下賜された。
廷臣たちは手を打って喝采し、彼のために祝杯をあげた。
これはホラーサーン(日の昇る場所)と呼ばれた、終末の国の物語。