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 「どうしてそう無理をなさるのです。殿下のご病気は陛下も承知のはずです」

 イヴァンが万年筆片手に、頭を抱えていると、執事のアルヴィンが尋ねた。

 「民のために、俺が無理をせずどうする。それに、俺が無理をしないと、あの悪漢からシルビアを守れない」

 そう言って、イヴァンは顔をあげることなく、黙々と手を動かし、公務に取り組んだ。

 イヴァンは難読症と呼ばれる、文字を読むことが困難である病気を持っていた。どれだけ目を凝らしても、文字がぐにゃりと歪み、なんと書いてあるのかが判別できない。読める文字もあったが、まとまった文章を滞りなく読むのには時間がかかった。だから、無理やりいれられたアカデミーでも、勉強する気はまったく起きず、自暴自棄になった。自分が周囲から「うつけ」と呼ばれているのはなんとなく知っていたが、言い返すのも億劫だった。
 
 しかし、シルビアと出会ってから、その気持ちはガラリと変わった。
 初めて会ったときから、シルビアは読めない女だった。冷たい顔をしてイヴァンを蔑んでいるかと思いきや、あっさりと手を差し伸べ、見返りも求めなかった。アカデミーきっての才女で、容姿端麗な公爵令嬢にも関わらず、友人は一人もいないようだった。どんな物でも手に入る権力と財産を持っているのに、昼はいつも同じエッグサンドを頬張り、余ったパンの欠片を猫に与えていた。
 
 はじめは興味本位で家庭教師をしろと命じたが、意外にも真面目に授業をするシルビアの姿を見ているうちに、いつも変わらない表情も、実は少しずつ変化していることに気がついた。
 シルビアの好きな科目は数学だ。数学を教える時は、いつもより少し早口で、ツンとした顔で問題の解法を教えてくれる。逆に苦手な科目は、文学。難しい言葉を知っているのに、肝心の読解は苦手なようで、たまにシルビアの回答と模範回答が異なっている時は、あからさまに不機嫌な顔をして、足を組んだ。
 好きな食べ物はエッグサンド。執事のウィルソンお手製の物らしい。授業が終わった後、エッグサンドを頬張るシルビアの頬はほんのり紅潮し、まばたきはいつも以上にゆっくりになる。

 学業を手伝ってもらうつもりが、イヴァンはシルビアが見せる様々な顔に夢中になった。
 その変化を見逃さないように、居眠りをするふりをしながら、こっそりシルビアの横顔を見つめた。

 ずっとこんな日が続けばいい。
 そう思っていたイヴァンも、シルビアとシャーノン公爵の会話を聞いて、危機感を抱いた。

 (いつかはアカデミーを卒業しなくてはならない。公爵令嬢であるシルビアは、王室か、有力な貴族の元に嫁ぐのだろう。そうなれば、もう俺は……)

 いつかシルビアに会えなくなる。
 そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。

 その日から、イヴァンは人が変わったように学業に精を出した。
 「うつけ者」をやめ、シルビアにふさわしい王太子になるために。

 
 しかし、どんなに努力しても字を読むことが困難なのには変わりがない。公務に支障がでないよう、会議資料はアルヴィンが読み上げ、考える時は手を動かした。
 そんなイヴァンを見て、アルヴィンは安心したように微笑んだ。
 
 「殿下は、シルビア様と出会ってからすっかり変わりましたね」

 「そうか?確かに以前より知識はついたと思うが……」

 「いえ、そうではなくて……」

 そう言うと、アルヴィンは照れたように手の甲をさすった。

 「殿下は本当に、玉座にふさわしいお方になりました」