財産分与の取り決めは
だいぶ佳乃子寄りのものとなった。
ローン完済してある自宅と土地は佳乃子に。
今後手にする浩介の退職金と預貯金を同等のものと考えて預貯金は佳乃子の物
有価証券に生命保険は浩介となった。

家のローンを借りる際、
佳乃子の父が頭金を出したことに
義理立てしているのか、
自宅土地共に佳乃子の名義にすることを
強く望んだのは浩介だった。


ーー別れた女房への選別なのだろうか。
あの五月蝿かろう夏海を黙らせることは
骨を折ることだっただろうに。
それを思うと少なからず同情の念を抱く山城だった。


特に佳乃子は父の遺産の整理等もあり
直近の生活には困らないだろう。
そう考えると浩介の佳乃子寄りに合わせた
思いはこのまま佳乃子に気付かれずに
浄化されないだろうと思った。
それも仕方のないことだ。

佳乃子は缶コーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「洋ちゃん、また今度お菓子持って
事務所に遊びに行くね。
晴香ちゃんにもよろしく伝えて」
「おう、また困ったら電話しろ」
そう言ってと山城も立ち上がる。
佳乃子の軽やかな足取りに安心する山城だった。


枯れ草が舞う小道を歩きながら
山城は電話をかけた。
佳乃子に頼まれた最後の仕事をした。
佳乃子が離婚届を出したと浩介に伝えることだ。



「わかりました。ありがとうございます。」
眉毛を一文字にして電話の相手に礼を言っている。
電話を切ると、今度は体を前に向け
テーブルに当たりそうなほど頭を下げた。


「申し訳ない。私のせいで辛い思いをさせている。」


浩介の前には楓と梓がいた。
3人は坂倉家のダイニングテーブルを囲んで座っている。


佳乃子が市役所に行っている間、
自宅に残った浩介の私物の処分と、
子ども達と話をする為に浩介は家に戻っていた。

楓は厳しい顔でじっと父を見つめている。
梓は下を向いている。
梓は小さい頃からお父さんっ子だった。
成人してもショックは強かった。

梓のその様子を横目に楓が口を開いた。

「母さんがどれだけ辛かったか。失望したか。
悲しんだか。わかってない。
謝って許されるものじゃないよ」

楓は父に対して厳しく言い退けた。
梓は心配そうな顔で楓を見た。

「許せることじゃないけど…
説明して…俺たちに話に来てくれたことには…
もちろん嬉しい気持ちじゃないけど。
俺の知ってる父さんらしくて…」

「何…それ。嬉しいって言ってる。」
梓が楓を見て呆れている。
「いや、安心!…安心したって感じ。俺らの知ってる父さんで。変わってなくて」
楓はバツの悪そうな顔だったが、
浩介に思いの丈を話した。

ーー確かに。お父さんらしい
梓はそう思うとやっと前を向いて
父の顔を見ることができた。

「私も許せない。
でも二人が決めたことに
とやかく言わないよ。
だから健康だけは気をつけて」
梓は真正面にいる父の目を見て話した。

「許さ無くていい。ありがとう…すまない」
浩介は赤い目で応えた。


梓は机の上に白い箱を出した。

「はい。これ、弟に」

「え」

「男の子でしょ。
会いには行かないけど…
新しい命は別の話。弟だから」

驚く父に小さな白い箱を渡した。
中には白いベビー靴下が入っている。

「ありがとう」
父の目が細くなり、
さっきまで我慢していた涙が大粒となって溢れた。

梓もいつの間にかポロポロと泣き始めていた。
浩介は慌ててポケットから
赤と青のチェックのハンカチを梓に渡した。

梓は腹違いの弟がこの顔をさせるのかと思うと本心は寂しいかった。
でもそこにいつもの父を見つけ安心したところもあった。


ハンカチで涙を拭きながら
久しぶりに大好きな父の懐かしい匂いを感じていた。
楓は落ち着いた口調で父に話した。
「今は母さんが心配だから
母さんのことはそっとしておいてほしい。」

浩介はティッシュで涙を拭った。
「もちろん。何かあったら連絡は山城さんにお願いするよ。…お母さんはの調子どうだ?」
「最近は都さんと遊びに出掛けているよ。
もっと元気になったら働きたいらしい。」
「そうか。良かった」

「そろそろ、お母さんが帰ってくるかもしれないから。行くね。」
浩介は「ありがとな」と白い箱を二人に見せて、席を立つ。それに続いて楓、梓も席を立った。


玄関まで行くと浩介の靴のを枕にすずが寝転んでリラックスしている。
浩介は両手に持った紙袋を置き「いつもかわいいな」とすずの頭を撫でた。
なかなか動かないすずに、浩介が喜び半分で困っていると
その横に楓が大きな体でしゃがみこんで「すずおいで」と言っている。
それでも呑気に知らんぷりのすずに3人で笑った。


梓は後ろからその様子を見ていた。
小学校の頃毎朝二人で父を見送っていた懐しい朝の光景に被った。


楓がすずの頭を撫でると尻尾で床を叩きつけ、プイっと靴から離れた。
梓の足元まで行くとグイーンと体を伸ばしている。

「じゃぁ。」
至極簡単な言葉を残して浩介は家を出た。
楓と梓はいつかはわからない「また」で、父を見送った。
佳乃子は駅前の喫茶店「木の家」で
サンドイッチセットを頼んでカウンターで女将さんとマスターとで話をしていた。

今頃家では浩介と子ども達が話をしている。
3人の話が終わるまで「木の家」にいることにした。

楓と梓の二人はこの離婚について
佳乃子とは話したがらなかった。
佳乃子が話し始めると話題を無理矢理変えたり
用事をつけてその場から離れたり…。
佳乃子もそれ以上無理には話をしなかった。
二人が佳乃子の体調を心配してのことだと
わかっていたから。

だからこそ、浩介と子ども達が
話し合える時間を大事にして欲しかった。
それに浩介と鉢合わせして、流石に平常心ではいられない。
だから佳乃子は安全な「木の家」で過ごしている。

佳乃子の目の前にサンドイッチセットが届いた。
パンに挟まれた卵から湯気が立ち上っている。
心も温まりそうなほど口に美味しさが溢れた。

「卵サンド美味しいでしょー」
女将さんが一番人気だと教えてくれたのだった。
「今日は珍しいね。都ちゃんは?」
「千鶴さんは今日はお孫さんの発表会なんです。」
女将さんに言われる程、都さんと佳乃子はよく二人で出掛けている。
二人で出掛けた後はこの「木の家」でお茶をして帰っている。

「はい、いらっしゃいませ」
女将はドアのカウベルの音と共にいつもに笑顔で接客に向かった。

佳乃子は卵サンドをまた一口頬張って、今日の自分を労っていた。
ーー美味しい。もっと食べれそう。

もう一口、もう一口と、佳乃子がサンドイッチの味を楽しんでた。
すると珍しく女将の慌てた声が聞こえてきた。

「あー。おーいえー。おーいえー。
ちょっと待ってね。」
相手に有無も言わせないところが女将さんだ。
パタパタと靴を鳴らして佳乃子の席にやって来た。

「ちょっと。佳乃子ちゃん。佳乃子ちゃん。
英語できる?外国人のお客さん。
私、ダメなのよお願い。マスター無理だもんね。」
そう、佳乃子に聞いてきた。
マスターは目の前で静かに頭を縦に振ている。

「ちょ、ちょっとまって」
慌ててオレンジジュースでサンドイッチを押し込んだ。

女将に「よかったー」と連呼されながら外国人のお客さんの元に連れてこられた。
外国人の男性は陽の当たる窓際の席に座っている。

ーーなんて言うんだったっけ。

サンドイッチの最後をしっかり飲み込むと佳乃子は英語で話しかけた。

「(いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?)」
「(何かオススメはありますか?)」
グレヘアーの男性外国人はメニューを見ながら答えた。

「(サンドイッチセットの卵サンドは人気ですよ。
それにマスターのコーヒーはどれも美味しいです。)」
「(じゃぁ、サンドイッチセットで飲み物はコーヒーで。)」

そういうとこちらを向いてメニューを渡してくれた。男性外国人の方が驚いたように日本語を話した。
「アズのお母さん?」
「タイラー…さん?」

「初めまして…?アズのお母さんですね!スコット・タイラーです。」
「あぁ、初めまして。波田佳乃子です。」
タイラーは佳乃子の前に立つと握手を交わした。

パソコンの画面で見た印象より背が高い
佳乃子は驚きを隠せない顔でタイラーを見上げたq


「何?日本語喋れるの?もう言ってよー。
びっくりしたんだから。」
そう言って女将さんもタイラーと握手していた。


その様子を見て佳乃子は笑っている。
女将が「知り合いなら一緒のテーブルがいいわね」と、佳乃子のサンドイッチとジュースをタイラーと同じ窓際の席に置いてくれた。

タイラーは日本に在住して10年。
人懐っこい笑顔に年齢を感じるシワが魅力的な紳士だった。
今は高校の英語教師に加えて、英語圏の外国人に向けて日本を紹介しているHPを運営していた。
そのHPの書籍化に伴い、いろんなお店を探しているのだと教えてくれた。

「タイラーさんは、オーストラリアにいるのかと思っていました。」
「いえ、今もアズのいた大咲高校勤務しています。アズはとても英語が上手くなりましたね。それに佳乃子さんも上手ですね。」
「大学の英文科を出て、仕事でも英語を少し使っていました。でも20年以上ぶりに話したので発音が難しい。」
「僕は20年ぶりの英語が聞けたんですね。素敵ですね。」
タイラーのカバンについてるアニメのキーホルダーのことでタイラーと佳乃子は大いに話が盛り上がっていた。
「アニメが好きなんですか?」
「えぇ。でも一番好きなのは90年代のアニメ」
「もしかして戦闘ヒーローアステル?」
「なんでわかりました?」
「長男が好きで私もよく見てたんです。」
「なんと。アズの兄弟、わかってる。
私の家の本棚にもアステルのフィギアが飾ってあります」
「あのオシャレな、本棚に?」
「アステルがあることで一層オシャレでしょ」
タイラーと佳乃子は笑っていた。

食事が終わると女将さんがさっきのお礼にとケーキを持って来てくれた。
二人は時間を忘れてひととき食事と会話を楽しんでいた。


「あー楽しかった」
佳乃子はタイラーと楽しい時間が過ごせた。
それに久しぶりに英語が使えて嬉しかった。
二人は2時間ほど店で会話を楽しみ、
先に佳乃子が会計を済ませて外に出た。

佳乃子は頬が笑いすぎてほかほかしている。
ーーほんと楽しかった!

外気の寒さを感じて手に持っていた上着を着ようとした。
その瞬間、佳乃子の時が止まった。
表情も瞬時に凍った。


浩介がいる
佳乃子の目の前には両手に紙袋を持った浩介がいた。


店から聞こえる女将さんとタイラーの笑い声だけはさっきの暖かい空気を残している。
突然別世界の冷たい氷に落とされたようなそんな衝撃を佳乃子は感じていた。

浩介は天野駅にちょうど着いたところだった。
喫茶店から出てきた佳乃子に気付いて浩介も驚いている。
瞬時に佳乃子の笑顔が凍ったのが見えた。


銅像のように二人は向き合ったまま固まっていた。


ーーまさか鉢合わすなんて
と、佳乃子はかろうじて止まった思考で考えていた。


するとカランカランとカウベルの音と共に
タイラーが会計を終わらせて店から出て来た。
タイラーは上着を着ていない佳乃子を見て驚いていた。


「佳乃子さん?寒いねー上着来た方がいいよ。」
タイラーは上着を羽織って佳乃子に声を掛けた。


浩介はタイラーの声で我に返って
何も言わずに身体を駅に向けて歩き出した。


「お友達だった?」
タイラーは佳乃子に問いかけた。
「…いえ」そう言って佳乃子は
離れていく浩介の背中を黙って見ていた。


ーーこのままではだめだ
ここから抜け出せられない。
終わらせるために行こう。


「タイラーさん、楽しかった。
ありがとう。また。」

そう言ってタイラーに手早く手を振ると佳乃子も
駅に向かって浩介を追いかけた。