ーー浮気相手に噛みつきたかっただけかもしれない。
くだらない。プライドだわ。


そう自分に問い聞かせて平静を保とうとしていた。


受話器の向こうの女が痛みに耐えて
次第に無言になり、荒い息遣いが聞こえてくる。
話す内容も話にならない箇所が増えていた。
佳乃子はただこの茶番に付き合っている。

付き合う義理など到底ないが、
そこにある新しい命を誰かに託すまでは
そこで静かに聞いているしかなかった。


静かだったスマホが騒がしくなった。


「…ドン…バタバタ」
足音の後に聞き慣れた声が聞こえた。


「何してるんだッ」


男の大きな声が聞こえる。
それは知っている声だった。
佳乃子にとって惨い瞬間だ。


佳乃子は反射的にスマホから耳を離した。
浩介の声に応えて女の声が聞こえる。
これ以上この2人の話を聞きたくない。
佳乃子はすぐに通話を切った。



ーー浩介の声だった。
わかっていたことだ。呼んだのだから。
それでも佳乃子は涙が止まらない。


ーー2人の空間を目の当たりにしたくなかった。


瞼を閉じても
佳乃子の目の奥から次から次へと涙が溢れた。

ーー浩介はもう戻らない。本当に私はひとりになった。

晴香は今にも消えてしまいそうな佳乃子を抱き締めた。
祈るように強く抱きしめた。

晴香に抱き締められると佳乃子はただ子どものように泣いた。

「あああ……」


夕日に染まった赤い鮮やかな事務所の中で
佳乃子の声だけが響いていた。