あの日から楓は平静を装っていても薄黒いものが沸々と湧き、心の中を占領していた。

深呼吸をして指に力を込める。

呼び鈴を鳴らした。

楓は告別式の日、父が帰ったことを告げた母の小さい背中を思い出していた。

ーーあの日のあの赤い車の女は誰なんだ。
ーー離婚話は本当か。
ーーなんで母さんを置いて帰れたんだ。

楓は部屋の中からパタパタという
軽いスリッパの音が近づいてくる。

ガチャリと扉が開いた。

「おか…え…誰?」
白いワンピースを着た女は楓の顔を見て眉を顰めている。
楓を出迎えたのは赤いミニバンの女だった。

女がドアを閉めようとすると
楓は無意識にドアに手を掛けた。

「ちょっと!警察呼びますよ!」
女は楓の力に敵わず金切り声でそう言った。

「あんた誰なんだ!」
楓が女に向かって言った。

「楓…か?」
後ろから聞き慣れた父の声が聞こえてた。

振り向くと、そこには青ざめた顔の父がビニール袋を片手に立っていた。

女が「浩介くん!」と父の名を呼んでいる。

楓は浩介に駆け寄ると力任せにこうすけの顔を殴った。

「きゃあああ」

女の悲鳴が聞こえ、
浩介が持っていたビニール袋からカップアイスが転がった。

浩介は衝撃で後ろによろめき尻餅をついたような体制になった。


楓は拳のジンジンとした痛みを感じながら
浩介の襟元を掴みあげ、
また拳を振り上げた。

「…すま…ない」
浩介は抵抗せず、俯いている。

楓の暴力を受け入れる父の姿に、紛れもなくここに父の不貞があったのだと思い知らされた。

楓は浩介から手を離した。

「…何で…だよ…ふざけんじゃねーよ」

「母さんには…ちゃんとしてくれ」
そう言い終わると浩介の横を通り過ぎ、楓はその場を離れた。いつの間にか走り出していた。
涙を父には見せたくなかったのだ。