旅行から自宅に戻った3日目の朝。


昨日、役所に婚姻届を提出に行った帰り道に、詩は突然倒れ、意識を失ってしまった。


救急車を呼ぶと、病院に連れ戻されてしまう。


最期まで自宅で過ごしたいという詩の意思を尊重して、自宅に運び、夜通し看病していた。


しかし、夜が明けても、詩は眠り続けていた。


最大量の酸素を吸入していても酸素飽和度は上がらず、苦しそうに浅い呼吸をしている。


貧血が進んだ、真っ白な顔色。



もう、詩の体は限界に達していた。



─退院した時点で、別れが近いことはわかっていた。


だが、本当に、昨日のたわいもない会話が、詩との最後の会話だったのか…?



「…まだ、逝かないでくれよ。お願いだ」



綾人は、指輪をはめた詩の手を握り、優しく顔を撫でる。


その時、詩の目がうっすらと開いた。



「詩…目が覚めたか…!」


「…あや…と…」


微かな声で、詩が話す。


「無理に話さなくていい。苦しいだろ」


「あやと、わたし…」


「大丈夫だから。喋らないで、きちんと酸素を吸って」


「綾人、大好きだよ…」


綾人の言葉を遮り、詩が声を振り絞る。



「…俺もだよ。詩が大好きだ。」



「ごめんね 綾人には…迷惑ばっかり…かけて…」


少し話すだけで、息が切れる。

なんとか息を整えようとする詩。


詩が、最期の言葉を必死に伝えようとしていることを悟った綾人。


息がしやすいように、詩の体を起こし、上体を支える。

「俺の方が…俺が治してやれなかったせいで、お前に苦しい思いばかりさせて…本当にごめん」


涙が溢れてきて、声がうまく出ない。


「そんなことない…綾人がいたから、私はここまで生きられて…毎日がとっても幸せだった…ゲホッゲホッ」


激しく咳き込む詩。


「…詩、もういいから」


綾人が止めるのも聞かず、話を続ける。



乱れた呼吸の中、必死に言葉を紡ぐ。



「私に…愛することを教えてくれて、ありがとう」


「…俺の方こそ、俺と生きてくれて本当にありがとう。詩…ずっと、ずっと愛してる」


綾人の嗚咽が漏れる。


「ありがとう…誰かいい人、見つけてね」


「…何言ってんだ」


涙を流しながらも、笑みが溢れる2人。



詩の息がさらに荒くなり、肩が上下する。


「…疲れたな。もう休もう」


力なく頷く詩。


─なんだか、目の前が、真っ暗になってきた。


「くらい…ちょっとこわい…」


「大丈夫だ。俺がずっと抱きしめてるから。このまま少し寝よう」


「うん…ありがとう……あや…と…あいしてる…」


そう告げた後、詩の大きな目がゆっくりと閉じられた。


体から力が抜ける。


呼吸が止まっていた。


聴診器を取り出す綾人。


鼓動が弱くなり、ゆっくりになっていくのがわかる。


最愛の人の髪を、優しく撫でる。


冷たくなっていく体。



首に手を当てる。


もう、心臓は止まっていた。




「詩…!」


綾人の涙が、頬を伝い、胸に抱いた詩の顔に落ちる。



詩を抱いたまま、綾人は絶叫した。


冷たく、固くなっていく詩をずっと抱きしめたまま、綾人は動けなかった。