わたしの「ちょっと」は長かった。

 勉強、勉強、勉強——。
 これなら先輩の大学で音響物理学も受験できそうな成績では、と思うほどの成績を模試ではマークし続けた。

 合格発表の日。
「嘘——やば――」先輩が通う芸大の近場の大学ではなく、その芸大の音響物理学専攻に本当に受かってしまった。
 芸大の合格通知がパソコンに表示されている。深呼吸、深呼吸。みんな驚くだろうか。本人がこんなにびっくりしているのだ、それは腰が抜けるほどの反応も予測できた。

 机の抽斗の鍵を開け、それを取り出す。勉強続きで最後に聴いたときにぜんまいも切れ、そのままにしていた。かちちかちかち、とぜんまいを回す。
「やっぱ、あたし――この曲好き」
 蓋の裏面にあたるところの写真入れからジャニーズの切り抜きを抜き取って捨てる。卒業アルバムの先輩の仏頂面が出てきた。
 洟をすする。

『どしたん日南っぴ、イン早いね』
『もしかして、でも——大丈夫よ、後期もあるんでしょ?』
『せやで、落ち込むことあらへん。日南ちゃんなら絶対どっかに受かる!』
「あたし——」
『う、うん』
 ルームが黙り込む。わたしはヘッドセットを手に取る。マイクをオンにする。

「受かってた。芸大」
『おおおおおおおおおおおお!!!!』
『やったね、さすが日南姉!』
『やったああああああーーーー!』

「でも」
『うん?』

「どうせ先輩は好きな人と一緒に芸大に行って、そこにわたしが行ったって、何もならんくて、そんなこと考えてたら、何のために芸大行ってんのか、もう何も分からんようなって」
 ティッシュで洟をかむ。
「だから、みんなには悪いけどあたし芸大は——」
『いや、日南姉は』
 わたしはオルゴールの蓋をひらく。
「——オルゴールの音、拾えてる? これ、『あなたのために』って曲。死んだお祖父ちゃんが作曲して、世界で一台しかないの」

 場は静まり返っている。わたしはひとりだけで泣いている。
 嗚咽はオルゴールのぜんまいが切れた後も続いて、あたりがしんと静まったころにその木箱を掴み、ベランダへ出る。
『日南さん?』
『これはやばい、やばいぞやばいぞ』
『日南姉、話だけでもしようよ!』

「——でも、はあ、くそ。無理やん」
 ちょっと高層階のマンションの一室からオルゴールを落とすか、身投げするか、どちらも選べなかった。どちらもただの八つ当たりだからだ。


 東京で大学生活を送り、前期試験が終わった。酒も煙草もピアスも、ひと通りは経験した。

 大学オケでその先輩カップルを見つけるのも容易なことだった。——彼らが別れたということも、ほぼ同時に知った。
 大学のオーケストラの練習場所へ行ってみる。髪を明るく染めていたものの、先輩はすぐに見つかった。
「先輩」
「なんや、ユッキーやん。どしたの?」「バイオリン、続けとったんですね」「まあ、これしかないもんなあ、おれには。ユッキーこそ、おれがいうのもあれやけどよう芸大入れたなあ」先輩はからからと屈託なく笑う。「でも、音響ですし。演奏とかじゃなくて、箱物作る裏方ですよ」
「ふうむ。それはそうと——」先輩はあごひげをすりすりとさする「このあと時間ある?」

 その時は知らなかった。
 分かったこと。先輩はいま、フリーだということ。
 分かったこと。先輩はとても、寂しがり屋だということ。

 先輩とわたしが一緒に寝ている。手をつないで横たわっている。高校生の自分から見たら卒倒するのではないだろうか。また同時に、彼が不眠症だということが分かった。わたしが眠くなってもまだ先輩は身じろぎしている。それで酒量もかさむし、暇つぶしの煙草も増えていったそうだ。
「睡眠薬とか飲まないんですか」と訊いても「飲んだこともある。でも、朝に残るからもう飲みとうない」との答えで、「じゃあ、あたしが快眠電波、流してあげます」と、わたしはサテンのシーツの上で身体を滑らせる。

 スプーンを重ねるように先輩の背中から抱いた。あの音色、あのオルゴールの音色なら眠くなるはずだ。彼の背中に頬を寄せてハミングした。「なんか、ありがとな。こんな奴に——」

 先輩がハミングしている。わたしの声に合わせて。同じ旋律ではなく、違う曲なんだけど、わたしが十五年間聴いてきた祖母のオルゴールに符合するような、さしづめ二重奏といえる旋律——オルゴールのシリンダーがひと回りするころに二人は黙り込んだ。
「先輩」
「ユキ」
「あ、いや、ユキからいってよ」
「じゃあ先輩。いま即興で合わせました? それともこの曲、知ってました?」
 先輩はまた黙り込む。
「せん――」
「四歳の時に」
 わたしの鼓動が少し、早まる。
 先輩は続ける。「四歳の時に祖母ちゃんが死んで、うちの祖父ちゃん、再婚したんよ」
「もしかして、そのお祖父さんって音楽家ですか」
「そう。その祖父ちゃんがおれの亡くなった祖母ちゃんに最後にプレゼントしたのがオルゴール。世界で一つだけって聞いてる」
 
 先輩は夜具から抜け出し、クリスタルガイザーをごくごくと飲む。
「わたし、お祖母ちゃんに貰ったんです、オルゴール。亡くなったお祖父ちゃんの遺作——世界で唯一の、って」
「そっ、かあ――そう来たかあ——」先輩は全裸で仁王立ちし、腕を組む。うなだれる。

「最終確認。せーのでいおうぜ」「え?」「自分の祖父ちゃんの名前」「これで違ってたらどうするんですか」「さあ」「さあ、って、そんな」「現状変わりはないから大丈夫や思うよ。おれ、ユキのこと好きやけん」
 先輩はまたしゅるりとベッドに戻りこむ。暗がりに見つめあって、わたしたちは呼吸を合わせる。
「せーの!」

 ――睦巳(むつみ)

 一呼間置いてわたしははっと気づく。
「じゃっ、わたしたちって血が繋がっ――」どもりながらいうわたしに先輩は、
「いや、たぶん――傍系姻族(ぼうけいいんぞく)やな」と顎の髭をさすりながら答える。わたしは先輩の胸に身を寄せ、自分の鼓動の早さを紛らわせる。「傍系——姻族? そんなん、なんですぐ分かるんです?」と訊く。
「まあ、あれよ。音楽が無理っぽくなってた時期、法律でも食えるようにひと通りは勉強したから」
 胸に抱かれたまま先輩の顔を見上げる。「それで、傍系姻族って、結婚できないとかいう類の?」
「それはない。結婚できるし子どもも嫡出子(ちゃくしゅつし)になる。っていうか、こんなおれと結婚したがるやつ見たことないけどな」先輩はふふ、と笑って見せる。それがどうにも寂しそうで、先輩の胸に深く深く顔をうずめた。
「先輩は『こんなおれ』じゃないです」