玉響の花霞       あなたにもう一度恋を 弍

『気に入らなかったか?』


涙を流しながら首を何度も横に振る。


「前にこのペンダントを頂いた時も
 嬉しくて箱を開けたら泣いたことを
 思い出したんです‥‥。
 このネックレスに似合う素敵な
 大人の女性になりたいって‥‥。
 グス‥‥なのにまたこんなに
 素敵なものを見てしまったら
 もっと頑張らないといけませんね‥」


箱に入っていたリングを私の右手の
薬指にハメてくれると、そのままそこに
唇を落としてから笑った。


『頑張らなくてもいい‥‥。
 これからもお前が素直でありのまま
 でいられるようなお守りだから。』


サイズがピッタリ過ぎてそれにも
驚いてしまうけれど、光に当たると
綺麗なシャンパンゴールドのリングの
真ん中に小さく光る足を見つめた。



「光り方で石の色が変わってすごく
 綺麗です‥‥」


『クリソベルツキャッツアイ‥‥
 お前の産まれた日の誕生石だよ。』


初めて聞く石の名前が難しくて
もう一度教えてもらう。

クリソベルキャッツアイ‥‥
これが私の誕生石なんだ‥‥


「筒井さんありがとうございます‥
 大切にします。」


左手で右手を包むと胸の前でギュッと
抱き締める。



『フッ‥‥違う意味でもあるがな。』


えっ?


『もう一つ、キーケースを借りても
 いいか?』


「キーケースですか?」


小さく頷く筒井さんにカバンの中から
キーケースを取り出して渡してから
ハッとした。


「あ!筒井さんちょっと待って‥」


『‥‥TUTUI KOUICHI‥‥
 これあの時作ってたヤツだな。』



しまった‥‥‥
指輪を頂いた感動で何も考えずに
私てしまったのは、別荘に行った時に
筒井さんに渡す予定だったキーケース
だったのだ。


渡す機会も失って、大切に自分用に
使ってはいたんだけど、名前を
刻印したことを思い出した。


『フッ‥‥‥ちょうど良かった。
 これ貰ってもいいか?』


えっ?


筒井さんが袋からもう一つ取り出した
箱の中に入っていたのは私が作った
ものと同じくらいのサイズの
キーケースで、付いていた鍵を
それにうつしかえると最後に内ポケット
にカードキーを差し込んだ。


「筒井さん‥‥これって‥‥」



『ここの家の鍵だ‥‥。
 次帰ってくる時にはここでお前に
 こうして待っていて欲しい‥。』


トクン

筒井さんが優しく微笑んでから、
それを私に握らせてくれると、
そっと引き寄せて抱きしめてくれた。


半年前はいつ帰れるか分からないからと私を突き放そうとしたけど、
私が勝手に待っていたい‥忘れたくない
とわがままを言った‥‥


だけど‥‥これからはここで帰りを
待っていてもいいんだ‥‥



また、おかえりなさいと伝えれる
日が来る楽しみが出来たことに、
目から涙が溢れる



「‥‥グスッ‥‥筒井さん‥‥‥」


『また泣いて‥‥‥』


体を離されると、待っていたかのように
鼻を摘まれた後、唇に触れるだけの
キスをされた


『次もいつになるから分からない。
 だからお前がツラクなったら、
 その時は自分の気持ちに素直に
 なって俺にそう伝えてくれたら
 いい。』


指輪も鍵もくれたのに、
そんな言葉を伝えてから筒井さんに
ズルいなんて思ってしまう


こんなにも甘えさせてくれた1週間を
忘れることなんて出来ない‥‥



「次に会える時までにまた‥‥グス
 ‥もっと‥綺麗になれるように
 待ってます‥‥筒井さんにこうして
 出会えた人生で‥‥良かった」



泣きながらも笑顔を作ると、
頬を両手で包まれ、親指でその涙を
丁寧に殴った後、もう一度唇を
塞がれた。



今日が終わると帰国されてしまうけど、
前とは全く違う‥‥


何度も大切に触れてくる唇に、
寂しいと思う気持ちの他に、温かい
安心感がちゃんとある



『抱いていいか?』



2人で歯磨きをした後、
診察のサイドテーブルに指輪と
ネックレスを外すと、覆い被さる
筒井さんに真上から見下ろされ
私が頷いた後された深い口付けに
頭がとろけてしまいそうに
なりながらも答えた。



「アッ‥‥‥ンンッ‥‥」


全身を丁寧に這う舌と手に体中が
熱く火照り恥ずかしさで体が大きく
ハネたり捩れたりしながらも、
受け入れると、背中に必死にしがみつく


『霞‥‥ちゃんと顔見せて‥』


涙目になっている私のおでこに
キスを落とし、ゆっくりと与えられる
律動にも、瞳を開けて見上げると
綺麗な顔をした筒井さんの甘い吐息を
感じながら愛しくて嬉しくて笑った。


「ハァ‥‥アアッ!‥‥アッ‥」


優しく深く与えられる痺れに
何度もキスを交わしながら繋がる中
時折呼ばれる名前にやっぱり涙が
溢れてしまうけど、筒井さんと朝まで
抱き合って眠った。
8時近くまで眠ってしまった私は、
激しい行為にベッドから立てず、
帰国する準備をする筒井さんを
横になりながら眺めていた。


空港まで見送りに行くのは話し合って
辞めたのだ。


ここから見送って、またここに帰って
来たいと言ってくれたから。



2人で最後に一緒にお風呂に入り
遅めのブランチを食べた後、
冷蔵庫の中身も片付けていると
ベランダで煙草を吸う筒井さんを
キッチンから眺めた。


明日からいないのに不安じゃない‥


普段からものすごく言葉が
多い筒井さんではないけど、
大事にしてもらえてることが
伝わり過ぎた1週間だったから
心がとても穏やかで満たされている



『‥‥そろそろ行くよ。』


スーツケースを転がしながら
玄関まで行く筒井さんと手を繋ぐと
もう一度その場で抱きしめられ
私もその胸にもたれて瞳を閉じた



「筒井さん‥‥
 お体に気をつけて過ごしてください。
 行ってらっしゃい‥‥。」



『お前も‥‥元気で。行ってくる。』


笑顔を向けると落とされたキスの
温もりと共に筒井さんはまた
旅立って行った。


良かった‥‥‥
泣かずにまた見送ることが出来たから。


次また会える日まで、
頑張らないといけないことがいっぱいだ



筒井さん‥‥
その日までどうかお元気で‥‥


雲一つない青空を眺めながら、
遠くへ旅立つ筒井さんに想いを届けた



「おはようございます。」


『井崎さんおはよう。』


GWも明けて、受付は相変わらず
2人体制のまま総務課には新しい
新入社員は入らないものの、
山崎さんが少しずつ復帰される
ことになったのだ。



「受付には戻られないんですか?」


『受付はね、年齢制限や色々な
 規定があるのよ?』



えっ?
私は筒井さんの推薦みたいなもので
あまりよく分からずここに配属に
なってしまったから案外分かってなかったのかもしれない。


『未婚者と既婚でもお子さんがいない
 場合は30歳を迎えるまで。
 20代でもお子さんがいる場合は
 ここには立てないのよ。
 お子さんの急な体調の変化や、
 子供行事などが多いことなどで、
 急な欠勤になると回らなくなる
 から仕方がないのよ‥‥。』


「そうなんですね‥‥」


24歳の私でもあと6年もしたら
受付には立てないんだと思うと
色々考えさせられた。

『霞!お疲れ様!』


菖蒲と久しぶりに予定を合わせて
仕事帰りに晩御飯に行けることになり、
2人で会社近くの個室居酒屋に入り
乾杯をしていた。


「菖蒲もお疲れ様。
 企画部は最近どう?忙しい?」


生中をこんな綺麗な顔をしながらも
男まさりな飲み方でグビグビと飲む
姿のギャップももう何度めかになると
見慣れてきたものだ


最初は驚いたけど、
菖蒲はオシャレなカフェよりこういった
居酒屋の方が好きらしい


話し方もサバサバしていて
裏表のない性格だから安心して
接することのできる友達の1人だ



『今年から有名なパティシエとの
 コラボ企画で、新商品を出す
 ことになって、今は必死に
 会議に参加しながら学んでるよ。
 あ、あと後輩も出来たんだ。
 これが美男子で目の保養になるの。』


「目の保養って‥‥‥
 素敵な彼氏がいるでしょ?」



『それはそれよ。会社内で疲れた時に
 見れるあの容姿は癒しとやる気を
 貰えるんだよね。』


そんな子いたかな‥‥‥。
手紙などを運んだ時も見かけてないから
今度企画部に行くことがあったら
辺りを見渡してみようかな。



『‥‥筒井さんとは楽しめた?
 まぁその指輪が物語ってはいるから
 聞かなくても分かるけどさ。』


ドクン


右手にはめられたままの細いリングを
菖蒲が指差すと、一気に顔が熱くなり
酎ハイをゴクっと飲んだ。



私が素直でありのままでいられる
お守りって言ってくれた。


さりげないアクセサリーなら規定で
付けていてもいいということで、
仕事中もずっと付けている。



「待っていていいんだって思ったら
 会えなくても頑張れる気がしてて、
 次会える日が楽しみ‥‥‥」



菖蒲に筒井さんの家の鍵を
貰ったことや、GW一緒に過ごした
ことを話すととても喜んでくれた。


沢山心配かけてると思ったから、
いい報告が出来たことが私も嬉しい‥‥



『で?連絡はしてるの?』


「えっ?‥‥ううん。時差があるから
 電話とかは迷惑かなって‥‥」


メールもなんて送ったらいいか
分からないし、電話なんてなおさら
緊張して通話料金が膨らみそうだ



本当は声だってもっと聞きたい‥‥
とても大切にしてくれているのは
分かっているけど、大人の筒井さんと
普通の会話をするのってものすごく
緊張するのだ



『霞。筒井さんに素直に気持ちを
 伝えないと分からないんじゃない?
 もっとわがまま言っても受け止めて
 くれると思うんだけどな?』


えっ?

運ばれてきた焼き鳥を食べた菖蒲は、
残りのビールを喉に流し込むと、
笑ってそう言ってくれた。


我儘か‥‥‥。
確かに自分からこうしたいとかは
言ってないけど、こんな私に
向き合って貰ってることが既に
迷惑かけてるからな‥‥



「‥‥うん、連絡してみようかな。」


『おう、頑張れ。』


菖蒲と駅で分かれてから、
電車に揺られながらも、なんて
送ろうかを家に着くまで
ずっと考えていた。


何も報告することがないといえば
ないし、やっぱりお元気ですか?とか?
私のことを話すよりも、
筒井さんの様子が知りたいな‥‥


写真で見せてもらったあの小さな
部屋で、どんなことを考えて
探してるんだろう‥‥


鞄から鍵を取り出すと、
筒井さんが使っていたキーケースを
手に取り、そこにそっと唇を寄せる


私のキーケース‥‥フランスでも
使ってくれてるといいな‥‥


そうだ!
これを写真に撮ってメッセージを
送ってみよう!!



右手でそれを手に持ちカメラ機能で
写真を撮ると、添え付けをして
メッセージを考えた。



「(筒井さんこんばんは。そちらは
 まだお昼なのでこんにちはですね。
 毎日家を出る時も帰ってくる時も
 筒井さんに頂いたキーケースを
 使って帰れることが嬉しいです。
 美味しいものを食べて無理せず
 お仕事されてくださいね‥‥と。)」



初めて送るメールだから、
あまり重たいメッセージにしたくなくて
今日忙しくて見れなくてもいつか
見てくれればいいと思い送った。



‥‥‥はぁ
こんなことでいちいち緊張するなんて。
お風呂の準備でもしてこよう‥‥。



お風呂のスイッチを入れてから、
クレンジングジェルで丁寧にメイクを
落としていると、スマホのバイブが
テーブルの上で音を鳴らした。


メールかな‥‥‥


「ツッ!!嘘!!‥‥筒井さんから?」



15分前に送ったばかりなのに、
まさかこんなにも早く返信が来るなんて
思っても見なかった‥‥


心臓が煩いくらいにドクドクと
音を鳴らし、手なんて震えてる


ふぅーっと深呼吸をした後
メールをクリックして開くと、
短い文章なのに、それを見ただけで
涙が一気に溢れてきた



「(俺も大事に使ってる。
 お前の手料理が早く食べたい。)』


私と同じように手に持ったキーケースの
写真を送ってくれ、その愛しい手にさえも触れたいと願ってしまう


ここは近所の公園かな‥‥
時間的に向こうは今、
お昼休憩なのかもしれない。

筒井さんもメールを受け取って
少しでも元気が出てくれるといいな‥


何度もそのメールと画像を眺め
癒されたわたしは、
スマホを抱き締めるとそのまま
ラグの上に転がり瞳を閉じた






「おはようございます。」


『おはよう。今日は大阪支社から、
 社長の御子息がお見えになるから、
 粗相のないようにお願いね。』


「はい、かしこまりました。」



社長の息子さんか‥‥


入社式の時にもいた気がするけど、
あの時は筒井さんと再会したことで
頭がいっぱいいっぱいだったから
正直あまり覚えていない‥‥


ロッカールームで身だしなみを
整えると、佐藤さんと受付周りの
掃除をしっかりと行い、1日の業務が
始まった。




「◯◯様でいらっしゃいますね。
 担当のものをお呼び致しますので、
 あちらにかけてお待ち下さいませ。」



金曜日なのか、アポをとられている
お客様も多くて佐藤さんと対応に
追われながら過ごしていると、
ポーチに黒塗りの車が一台停まった。


もしかしてもうそんな時間?


こんな時に佐藤さんは外部からの
電話応対をされてしまってるから、
仕方ない‥‥1人で対応するか‥‥



後部座席のドアが開かれると、
そこから降りてきた人物に目が
奪われそうになりつつもお辞儀をとる
姿勢を保ち、エントランスのドアが
空いた瞬間に丁寧にお辞儀をした。



「お疲れ様でございます。
 受付担当の井崎と申します。」


長身で濃いグレーのスーツを着た
男性は、私の目の前まで来ると
ジッと見つめた後ニヤッと笑った



『君は初めての顔だな?
 えらいべっぴんさんがいると
 思ったけど‥‥社長室まで
 案内してくれる?』


「えっ?‥‥あ、あの、ご案内は
 秘書課の方が見えますので、
 私はここを離れるわけには‥‥」



何なの‥‥この人‥‥
容姿は整っていて素敵だなと思ったのに
ビックリするくらい馴れ馴れしくて
初めてなのに少し嫌悪感が出てしまう


社長の息子なら正直1人でも
上まで行けるのにどうして私に?



『井崎さん、ここは大丈夫だから。』


電話応対の途中で小声でそう
佐藤さんに言われたので、秘書課に
連絡をしてからお辞儀をしてジュニアを
案内することにした。


エレベーターを待つ間も
隣から感じる視線にもニコリと
微笑み返し、到着した後ボタンとドアを
押さえたまま頭を下げた。


「お待たせ致しました‥どうぞ」


グイッ


えっ!?
『ほら‥‥
 あんたも一緒に乗るんだろ?』


ボタンを押さえていた手が離れると
引き寄せられたと同時にジュニアに
思い切りぶつかってしまい足まで
踏んでしまった


「申し訳ありません!
 お怪我がないといいのですが‥‥」


手首を掴まれたまま見上げると、
何も言わずにじっと見下ろす顔に
視線を逸らしてしまう


よりにもよって社長のご子息の朝を
ヒールで踏むなんて顔が青ざめていく


あれだけ佐藤さんに粗相のないようにって言われたのにどうしよう‥‥


7階でエレベーターが到着すると、
ドアの向こうに見えた人物に
助けを求めるように視線を送る


(は、蓮見さん!!助けて!!)


エレベーター内で男性に手首を
掴まれている状態の私を見たあと
助けてくれるかと思いきや、
男性の方を向いてニヤッと笑った


『翔吾(しょうご)!久しぶりだな。』


えっ!!?


これから会議なのかノートパソコンと
資料を片手に持った蓮見さんは、
私の横に立つジュニアに手を上げると
2人はハイタッチしはじめた。


『霞ちゃん俺10階ね。』


「えっ?あ、はい!10階ですね。」


慌ててボタンを押すと、私を真ん中に
して立った蓮見さんとジュニアを交互に
キョロキョロ見てしまう


隙を見て掴まれていた手をパッと
離すと視線を感じたものの、
絶対目は合わせないようにしようと
俯いてみる


『久しぶりだな拓巳。亮や滉一も
 元気にしてるか?
 あ、滉一はいないんだっけ?』


えっ?


まさかの筒井さんの名前に、
勢いよく顔を上げたら、ジュニアと
思いっきり目が合ってしまい慌てて
また下を向いた


不自然だったかな‥‥‥


でもこの3人とも仲が良いのかな?
って思うと気になってしまったのだ


『みんな元気だよ。翔吾はいつまで
 いるんだよ?』


『俺?あまり決めてないけど、
 とりあえず呼ばれたから来ただけ。
 久しぶりに飲もうぜ?』


『お、いいね?亮にも声かけとくわ。
 霞ちゃんまたね。』


「あ、はい。お疲れ様です。」



10階に到着したエレベーターから
蓮見さんが降りてしまうと、また
静かな空間に2人きりきなってしまう


もう‥‥何回も来てるなら
案内なんていらないんじゃないの?


早く受付に戻りたいのに‥‥


『拓巳達と仲がいいんだな?
 霞ちゃんは何歳?』 


えっ?
少しだけ日に焼けた肌色のジュニアは、
3人とはまた違った格好良さで、
4人が揃ったら危険なくらいの容姿に、
目を合わすのも躊躇いそうだ


「業務とは関係ございませんので、
 答えることは控えさせて
 いただきます。」


エレベーターが秘書課と社長室がある
最上階に着いたので、またボタンを押したままドアに手を添えた。


もうここまでで十分だよね?
ジュニアが降りたら頭を下げてそのまま下に向かおう。



『あんた面白いな‥‥
 俺の周りにはいないタイプで
 気に入った。滞在中はよろしくな?
 霞ちゃん?』


「ワッ!な、何するんですか!?」


いきなり近づいてきたかと思えば、
腰を抱かれて耳元で囁かれたので
思いっきり突き飛ばした。



『ククッ‥‥ほんと‥益々いいわ。
 案内ありがとな。』


筒井さん意外にこんなにも密着されて
嫌悪感でいっぱいな私は、勢いよく
エレベーターを閉めるとお辞儀も
することなく背を向けた。


初対面で変な距離感を向けられて、
掴まれていた手首すら洗いたくなる


あんな人がジュニアだなんて‥‥


筒井さんも仲がいいのかな‥‥


今後そんなに関わることも
ないと思うし、大阪に帰られると
思うから少しの間だけの我慢かな。



「佐藤さん、お忙しい中すみません。
 ありがとうございました。」



『大丈夫よ、一段落したから。
 寧ろ大丈夫だった?』



「えっ?あ‥はい。大丈夫です。」


何もなかったわけじゃないけど、
思い出すことすら嫌で、筒井さんから
頂いた指輪を何度もさすってしまう



『伊野尾 翔吾(いのお しょうご)
 29歳。大阪支社重役。
 本社社長のご子息で次男。
 3年前まで本社で企画経営に
 いたみたいよ?』


お昼を食堂で菖蒲と食べながらも、
さっき来たばかりのジュニアの情報を
淡々と話すことに感心すらする


思い出したくもないのに、
今日の社内は何処に行ってもジュニアの
話でもちきりだ。


佐藤さんですら素敵!なんて
言ってたくらいだからな‥‥‥


「ふーん‥‥」


『わっ!出た‥‥。』


「何が出たの?」


『多分社内でかすみだけだと思うよ?
 興味ないのなんてさ。
 まぁ‥‥仕方ないよね‥‥
 あんなジェントルマンがバックに
 いたらさ‥‥』


『へぇ‥‥それって誰?』


ドクン
食堂内がザワザワとする中、
私がお弁当を食べているテーブルに
片手をついて覗き込むような姿勢を
取るジュニアに持っていた箸を落とした


どうして私のところに来るの!?



いや‥そんなことより、ジュニアって
食堂でご飯って食べるものなの?
社長ですら見たことないのに。


『おーい、聞いてる?』


『か、霞?ちょっとどういうこと?
 大丈夫?』


思考回路が停止したみたいに
真っ白になるのは久しぶりだ‥‥
なんでこんなに絡まれるのかすら
もう分からないのだから。


「えっ?‥痛っ!!」


鼻の頭に痛みを感じると、
ジュニアが思いっきり私の鼻を
摘んでいて、それだけのことなんだけど
気付いたら目から涙が出ていた


『霞!?』


お弁当箱を勢いよく片付けてカバンに
押し込むと、席を立ち上がりその場から
走り去る


ヤダ‥‥‥なんであんなこと‥‥


筒井さんしか触れてほしくないのに、
どうして同じ事をするんだろう‥‥


非常階段の扉を開けると、
その場に座り込んで息を殺して泣いた。


筒井さん‥‥‥今ここにいたら
迷わず抱き締めてもらえるのかな‥‥


仕事中だからそんなことはしないか‥


それでも泣くなって叱って鼻を摘んで
欲しい‥‥今すぐに。


午後からも仕事なのに化粧直さないと
いけない‥‥


こんな顔でエレベーターで降りるのは
目立つから、ヒールを脱ぐと階段を
ゆっくり下りながら、一階の休憩室に
見られないように走った



菖蒲からメールも着信も来てる‥‥
ビックリしただろうな。あとで
ちゃんと謝らないと‥‥


ロッカールームで、急いで化粧を
直してから佐藤さんと休憩交代をした。


泣いてたのがバレてないのか、
何も言わないでくれたのか分からないけど、ここに立つ以上は変な顔で
立てないからなんとかバレずに
いられてホッとする


気持ち切り替えないと‥‥。


その日はなんとか佐藤さんに
バレなかったものの、受付に立つ立場
としては本来なら許されない



会社でしかもあんな場所で
泣いてしまうなんて、心が弱ってるの
だろうか‥‥


週末はゆっくり休んでまた
来週から頑張ろう‥‥


『お疲れ様。また来週もよろしくね。』


「お疲れ様でした。」


華金の今日はノー残業DAYのため、
17時を過ぎれば足早に帰宅する
社員が多い。


筒井さん達ですら忙しいのに、
金曜日だけは早めに上がっていたから、
こういったモチベーションアップに
繋がる企業の方針は素敵だと思う