翌日。
 確か、とても楽しい夢を見ていたような気がしたんだけど、気のせいかな?

 寝起きのためにまったく働くことのない思考を巡らせながら唸っていると、部屋のふすまが開く音がした。

「朝だよ」

 妹が立っていた。

「はいはい」

 手をぶらぶらと振って返事をすると、妹は頬を膨らませながらふすまをぴしゃりと閉めた。どんな夢を見ていたか思い出せないが、たぶん楽しい夢だったに違いない。できることならもう一度、その夢を見たかったのだがさすがに二度寝は危険すぎる。先週も目覚まし時計の不快な音が部屋に鳴り響くのと同時に息の根を止め、夢の世界へと落ちてしまった。そのせいで、学校には遅刻するし罰としてトイレ掃除までする羽目になっていた。

 由良理は眠気に負けないように頭を軽く振ると、一階に下りて洗面所へ向かうことにした。

 ドアを開いて鏡の中に映る自分の髪型を見つめる。

「いつもどおりね」

 鏡に映っている自分の髪型は、想像以上に奇抜なものになっていた。

「めんどいなぁ」

 寝癖を直すことはせず、とりあえず顔を洗う。タオル掛けにかけてあるバスタオルで顔を拭いて居間へ向かうと、食卓には妹と母が着いていた。父は現在単身赴任中で、南の島で配管工事をしている。だから、普段は由良理と母、そして妹の三人暮らしだった。

「おはよう、由良理」
「うん、おはよー」

 母の台詞に短く答えると、食卓に着いた。
 由良理は朝食を食べつつも昨日の出来事を思い返していた。

 今更ながら、機能の出来事はすべて夢だったのではないかと心配になってしまう。今まで、一度も話すことができなかったのに、機能の由良理は調子が良すぎた。だから、あれは夢だったのではないかと考える。

 けれど、脳裏に浮かんでくるのは十希がダンスタジオで華麗に舞っている姿が焼き付けられているのをたしかめると同時に、あれが夢ではなかった、現実なのだと由良理を安心させた。

 昨日一日だけで、十希との関係が急激に進展したような気がする。その仲をもっと深めるため、由良理はどうしても言わなければならないことがあった。

「お、お母さん――」

 言いよどむ。けれど言わなければならない。
 由良理は唾を呑み込むと、ゆっくりと口を開いた。

「お母さん、あのさ……ちょっとお願いがあるんだけど」
「お姉ちゃんのお願いほどくだらないものはないんじゃない?」

 すかさず妹が茶々を入れてくる。
 由良理の隣で味噌汁を啜っている妹の言葉を無視して、目の前に座る母の姿を見やる。

「どうしたの、言ってみなさい」

 母は優しく、答えた。

「えっと、実は……ジャズダンスを習いたいな……って」

 躊躇いながらも、由良理はそれを言葉にした。

「お姉ちゃんがジャズダンス? もしかして……頭パーになっちゃった?」

 惜しい。
 もうすこしで雅也とまったく同じ台詞になったであろう言葉を発したのは、由良理の隣で朝食を食べ続けている妹だった。

 一つ年下の御剣葵は、由良理と同じ神楽坂中学校に通っている。ダメな姉とは違い、成績優秀で容姿端麗。それに付け加えて、性格がひどくひん曲がっているのは余計なオプションだが、それはたぶん、雅也の影響だろう。

 面倒見のいい雅也は小さい頃、毎日のように葵の遊び相手を務めてくれていた。お陰さまで由良理と京介は誰に気兼ねすることなく遊び呆けることが出来た。

 とにかく、雅也と性格が似ているということは、同時に由良理との相性が悪いことへと繋がり、暇を見つけてはいつも悪口を言ってくる。

 まあ、言われるがままのわたしも悪いんだろうけどさ。
 由良理は少し引きつった笑みを浮かべながら思った。

「なんで急に、ダンスをしたいと思ったの?」
「あの、それは、えっと……」

 母の質問は、言葉をつまらせた。
 由良理は別に、ダンスが踊りたいわけではない。ただ単に、十希との仲を深めたいだけだった。だからこそ返事に困ってしまう。

「運動とか、した方がいいかな――とか、思ったわけで……」
「だからなんでダンスなの、お姉ちゃん?」

 葵は黙ってて、と由良理は思った。

「別に構わないけど、勉強の方は大丈夫なの?」

 由良理のお願いに対し、母は学業のことを指摘してきた。
 痛いところを突かれた。そのことを言われてしまうと、由良理は返事を返せない。

「うう、それは……」
「今更お姉ちゃんの頭がよくなるなんてことは宝くじで一億円が当たる確率よりも低いんだから、別にいいんじゃない?」

 それは言いすぎなたとえだ、と思った由良理だったが、葵が助け舟を出したことに今は心より感謝した。

「そうねえ、まあ習い事の一つくらいなら――」
「勉強も、頑張るから、一応……だから、ダメかな?」

 頭を少し下げながら頼み込む。
 すると、母は一言「分かったわ」とだけ言った。

     ※

 由良理の住んでいるところから学校までの道のりは、徒歩で二十分くらいだった。葵と並んで歩き、坂を上っていくと近所にある寂れた公園が目に入ってきた。その公園内には、雅也と京介の姿がある。

「よお、遅いぞ由良理」
「葵ちゃんおはよう」
「おはよう雅也くん!」
「今日も寒いわね」

 四人の声がそれぞれ重なり合う。お互い近所に住んでいて通っている学校も同じである雅也と京介は、毎日学校へ登校する前、この公園で待ち合わせをしている。

「メンバーも揃ったことだし――今日もいざ、つまらない学校へ出陣だ由良理!」

 また変なアニメでも観たな、と思わせる口調に苦笑いしながらも、一行は学校に向けて歩き始めた。

 学校までの道のりを登校中、京介は由良理にアニメの話をして、由良理はそれを風のようにかわしながら歩を進めていく。この日常にはもう慣れていた。

「お姉ちゃんがダンス習うんだって。雅也くん、知ってた?」

 葵のバカでかい声が聞こえ、由良理は視線を葵の方に移した。アニメの話を熱弁していた京介も興味を注がれたのか、視線を向ける。

「ああ、知ってるぞ。由良理ってホントにバカだよな」

 わざと、由良理に聞こえるように話す。

「葵ちゃんは頭良いのにな」
「ねー」
「堂々と言わないでよね」

 眉をしかめながら愚痴った。
 すると、雅也と葵は楽しそうに笑った。

「ふむ、由良理がダンスか。ふむ……」

 京介は腕を組みながら、なにかを考えるような仕種を見せた。

「そういえばダンス系のアニメというのはまだ――」
「京介は少し黙ってて」

 由良理は、少し呆れた口調で言った。

 延々と続くように思えるほど長い坂道を登りきると、神楽坂学園の正門が見えてくる。正門を通り抜けると先ず目につくのが高等部の校舎だ。由良理たちの通っている中等部の校舎は、高等部よりもさらに先――つまり、もう少しだけ坂を登ったところに建てられていた。冬の匂いも漂う季節になっているというのに、毎朝学校に通うために汗を掻いているのは神楽坂学園に通っている生徒くらいのものだった。夏は、特に辛い。その分、今の時期はまだ幸せな方だった。

「またね、葵」
「ちゃんと勉強するんだよ、お姉ちゃん」
「一言余計なのよ」

 下駄箱で外履きを上履きに履き替えると、由良理たちは葵と別れた。現在二年生の葵は、二階まで上ると廊下の方へ歩いていった。

「これでまたひとり、仲間が減ったか……」

 なにかの役になりきっているような台詞を吐きながら京介がため息を漏らす。返事をするのも面倒なので、由良理と雅也は黙ったまま三階まで上ると、そのまま教室へ向かった。

「今日も遅刻せず、無事に到着だな」
「寝癖なおしてたら、たぶん遅刻してたけどね」

 笑いながら答える。
 由良理は自分の席に着くと、背伸びをした。窓から吹き込んでくる風は、少しだけ寒々しく感じられた。しかし、それが逆に由良理の眠気を消し去ってくれる。

 のんびりと窓の外を眺めながら、朝のホームルームが始まるのを待った。

「おい、由良理」

 そんな由良理の方を見ていた雅也が、呼びかける。

「ん、なに?」
「本当にダンス習うつもりなのか?」
「――ええ、返事しちゃったからね」

 まるで人事のような感じで答えた。

「不知火くんに格好いいところ見せたいし……」

 さらに続けて小声で言った。その台詞をしっかりと聞いていた雅也は、少しだけムッとした表情を見せた。

「――バカが」

 少し間を置いて、雅也が椅子を蹴ってきた。

「なによ」

 文句を言った。しかし、雅也はもう一度椅子を蹴ってくる。

「バカって言ったんだよ、バカ」

 バカと連呼しながら、雅也は何度も何度も由良理の座っている椅子を蹴った。由良理は椅子を壁側にずらして、雅也の足が届かない位置まで移動する。すると、雅也の足は見事に空を蹴った。

「逃げたな」
「逃げるのは得意だもん」

 ニヤリと、不敵な笑みを浮かべてみせた。雅也は唇を尖らせてこちらを見ていた。

     ※

 中休みになると、由良理はいつも通り図書館へと向かった。
 市立図書館で借りていた本を読み終えたので、なにか新しい本を読みたい気分だった。本棚を眺めながら、図書館内をうろついていると、後ろから肩を叩かれた。

「あっ……」

 振り向くと、十希が立っていた。
 その瞬間、昨日あれほど近くにいたのに、翌日になるとすぐにそれは元通りになってしまったらしく、由良理は身体が固まるのを感じた。

「おはよう」
「お、おはようございます!」

 挨拶をすると、改めて十希の方を見た。
 今、自分の目の前に立っている男子は、黒縁眼鏡を掛けた不知火十希だった。この姿は見慣れているはずなのに、昨日の出来事を思い返すと、どうしても同一人物とは思えなかった。眼鏡を外して、コンタクトにするだけで、まったくの別人になってしまうなんて、信じられない。

「どんな本を読むの?」

 十希が本棚に視線を移して、問いかけてくる。

「――えっと、小説なら何でも……」

 由良理はそれに対し、俯きながら答えた。
 そんな様子を見て、十希は微笑を浮かべた。

「いつも図書館に来てるよね」
「気付いてたんですか……?」

 言われて、驚いた表情を見せた。

「だって、他に誰もいないもん。みんな本とか読まないのかなぁ」
「――学校の図書館って、あまり面白そうな本が置いてないとか思われてるんじゃないですか……」

 俯きながらも、十希に返事を返した。下を向いていたせいで、声が少し聞き取り辛かっただろう。

「ああ、そうかも!」

 すると、十希は笑いながら答えた。
 二人だけの空間というものは、とても居心地が良かった。恥ずかしくて顔も見れないはずなのに、それでも今この瞬間は、由良理にとって十分すぎるほどの満足感を与えていた。ここに自分がいることが、奇跡なのだと言わんばかりに感動した。

「お昼、一緒に食べない?」

 だから、十希の台詞に対応するのも少しばかり遅れた。

「――お昼……ですか?」
「うん」

 上目遣いに由良理の表情を窺う。
 黒縁眼鏡の奥に潜む綺麗な瞳は、とても真っ直ぐだった。

「は、はい」

 緊張しながらもなんとか答えると、十希は安心したのか表情に笑みを作った。

「それじゃあ、どこで食べようか」

 図書館でいいです、と言おうとして止めた。二人とも毎日図書館でお昼を食べているのだ。だから、今日くらいは違う場所で食べようと思ったのだ。

「屋上とか……」

 少し考えるような素振りを見せて、由良理は呟いてみた。

「うん、分かった。それじゃあお昼になったら屋上で待ち合わせだね」

 由良理の意見に賛成し、十希はにこやかに笑った。

「それじゃあ、またあとで」

 それだけ言うと、十希は本を片手に図書館から出て行った。その後姿を見つめ、由良理は緊張の糸が切れたような表情をして、すぐそばにあった椅子にもたれかかるようにして座った。

 教室に戻り、由良理は自分の席に着いた。三時間目の授業開始のチャイムが鳴ると、教室内で騒いでいた生徒たちが一斉に自分の席に戻っていく。

「何ぼうっとしてんだよ」

 頬杖をついた状態で黒板の方を眺めていると、雅也が話し掛けてきた。

「別にぼうっとしてない」
「してるだろ。またなにかあったのか」
「ん、ちょっとね」

 先ほどのことを思い出し、顔がにやけてしまう。しかし、それを見逃すほど雅也はバカじゃない。
 雅也との会話も程々に交わすと、国語の授業が始まった。由良理はお昼が待ち遠しくて、日課であるはずの惰眠を貪ることさえも忘れてしまっていた。

 お昼休みになると、由良理はいそいそと教室から抜け出した。
 その後ろを、ばれないようについて行く雅也。

「面白そうなことをやっているな、俺もまぜろ」

 後ろから京介の声がしてビクッとする。

「なんでお前が――」
「雅也?」

 言いかけて、自分の名前が呼ばれた。
 振り向くと、そこには十希が立っていた。

「何してるの?」
「ちょっとな」
「ちょっと?」

 首を傾げながら雅也を見る。

「ああそうだ、雅也。もしよかったら――」

     ※

 屋上に着いた由良理は、暖かな日差しを浴びながら大きく背伸びをした。気持ちのいい午後である。おまけに、これから最高の時間を経験するのだ。あの、不知火くんと一緒に昼食をするなんてまるで夢のようだ。ワクワクしながら十希の到着を待っていた。

 屋上の重いドアが開けられる音が響く。振り向くと、開いたドアの隙間から十希が顔をひょっこりと出してきた。こちらに気付いて、少し微笑む。そして屋上に出てきた。

 ――と思ったら、今度は京介がその後に続いて顔を出してきた。

「へっ?」

 さらに、雅也も姿を現す。

「――ええっ!?」
「由良理よ、隠れて何をしているのかと思えばこんな楽しげなイベントを開いていたとはなあ。感服するぞ」

 腕を組みながら偉そうに告げる。

「なんで二人がいるのよ」
「途中で十希に会ったんだ」
「不知火くんに?」

 慌てて十希の方を振り向く。

「うん。一緒にお昼食べないか誘ってみたんだ。ダメだったかな?」
「そ、そんなことないです!」

 由良理は勢いよく首を横に振るが、数秒後には残念そうに顔を俯けていた。

「さあ、みんな。お昼にしよう」

 そんなことはお構いなしと言わんばかりの表情で、十希は元気よく告げた。
 青空の下、由良理たちは昼食を取ることにした。由良理と十希と雅也は、家から持ってきた弁当箱を開く。京介は購買部で購入したミックスサンドをビニール袋から取り出した。

「またミックスサンド?」

 由良理が横から口を出すと、

「阿呆、神楽坂学園の購買部で一番美味なパンといえばミックスサンド以外にはありえないだろうが」

 すぐさま反論した。

「それにな、ミックスサンドはこれだけの量をもっていながら、たったの二百円なのだ。苦学生の俺にとってはなんとも豪華な食事だな」

 ひとりで頷き、納得する。

「どうせパン代を節約して、余ったお金でフィギアでも買ってんだろ」
「うぐっ! 雅也、どうしてそのことを――」

 雅也の指摘に京介が顔を歪めた。
 そんなやり取りを面白そうに見学しながら、十希は弁当箱の中身を食べつづける。

「楽しいね、二人はいつもこんな感じなの?」

 由良理に質問する。話しかけられて持っていた箸を落としそうになった由良理だったが、なんとか持ちこたえた。

「ええ、まあ、こんな感じです」

 当たり障りのない言い方で誤魔化す。

「なんかいいね、こういうのって」
「そ、そうですか……?」

 十希の言葉に感化されて、雅也と京介が言い争っているのを眺めてみた。普通の、日常とも思える光景である。こんなものは由良理にとって、大したことのないものだと感じられたが、それはすぐに思い改められた。

 そういえば、不知火くんはいつも図書館にひとりでいる。昼食の時だって、図書館でひとりで食べているし、少し前に一組の教室の前を通った時も、自分の席に着いてひとりで本を読んでいた気がする。

 由良理の心の中にいる不知火十希は、いつもひとりだった。ダンススクールではみんなを率いて楽しそうに踊っていたが、学校では別人だ。周りから見れば、性格の暗い人間で、友達がいない奴と思われても仕方のない雰囲気である。

「あの――」

 気になってしまい、由良理は言葉を漏らしていた。

「なに?」
「えっと、その……」

 雅也の方を見る。雅也は、まだ京介となにやら揉めている。今なら、盗み聞きされることもないだろう。

「なんで、学校ではコンタクトにしないんですか?」
「コンタクト?」

 キョトンとした表情で、十希はこちらを見る。
「はい」
「んー、眼鏡の方が楽だからかな」

 少しだけ考えると、十希はすぐに答えてくれた。

「コンタクトって、付けたり外したりするのが意外に面倒なんだよね」
「な、なるほど」

 話によると、十希はコンタクトを付けるのが苦手らしい。学校では極力眼鏡を掛けるようにしている。しかし、ダンスレッスンの時は眼鏡を掛けたまま踊るわけにもいかないので、仕方なしにコンタクトを付けているのだ。

「あ、そうだ。御剣さん――」

 何かを思い出したかのように由良理の方を見て話し出す。

「はい?」
「今週の日曜日って、空いてるかな?」

 上目遣いに、由良理の方を見つめる。気づけば、雅也も京介も言い合うのを止めてこちらを見ている。

「え? あ、えと、日曜日……ですか?」
「うん」
「――あ、空いてますけど」
「それじゃあさ、一緒にダンスシューズを買いに行こうよ」
「ダンスシューズですか?」

 由良理が反問すると、十希は頷いてみせた。

「うん。ダンスを踊る時に必要だからね」
「靴を買うよりもアリスのフィギアを買った方がお金も嬉しいと思うのだが――」
「お前は黙っとけ」

 京介の台詞を遮るようにして雅也が言い放つ。すると再び、雅也と京介は言い合いを再開した。

「あ、行きます」
「ほんとに?」
「は、はい!」

 十希の誘いを断れるわけもなく、由良理は当然のように頷いた。

「約束だよ?」

 すると、十希は悪戯な笑みを浮かべながら言った。

     ※

 その日の午後の授業中、由良理は抜け殻と化していた。
 窓の外に広がる蒼い空を見上げている。

「由良理、帰るぞ」
「んー」

 授業はとっくに終わりを向かえ、放課後の時間帯になっていた。

「雅也も一緒に帰るか?」

 京介が誘う。

「……そうだな」

 雅也は小声で答えた。

「ほう、珍しいな」

 雅也の返事に驚く京介。いつもの雅也なら、一人で帰ってしまうので、珍しいものでも見たような表情をした。

 帰宅途中、京介は何やら雅也に話しかけていたが、雅也は由良理の方をずっと見ていた。そんな由良理はというと、終始ぼうっとしていた。
 何を考えてんだかね、と雅也は思った。

     ※

 その夜、由良理はそわそわして眠れなかった。
 布団に寝転がると、特になにも考えることなく、天井を見つめていた。

「まだ起きてんの」

 葵がノックもせずにふすまを勢いよく開く。

「ノックくらいしなさい、葵」
「お姉ちゃんのプライバシーほど無意味なものはないけどね」
「あんたねぁ……」

 葵の台詞に対し、由良理はため息を吐くのだった。

     ※

 日曜日、水面駅付近の噴水の前で待ち合わせだった。しかし、そこに立っていた人物を見て唖然とした。

「なんで二人がここにいるのよ……!?」

 由良理の目の前にいるのは、雅也と京介だった。

「隠し事というものは、いつか必ずばれるものなのだよ由良理。お前の場合、それがすぐに表情に出てしまう。俺に見抜けないとでも思ったか?」

 日曜日にダンスシューズを買いに行くということはふたりとも聞いていたが、集合場所までは知られていないはずだ。由良理が言葉を漏らすわけはない。ということは、なぜふたりがここにいるのか予想がついてくる。

「何を得意気に力説してんのよ」
「まあ気にするな。せっかくの休日なのだ。もっと楽しそうな顔をするがいい」
「二人がいなかったらしてたけどね」

 愚痴を呟く。

「御剣さん!」

 振り向くと、十希が駆け足でこちらに向かってきた。

「ごめんね、待ったかな?」
「いえ、全然大丈夫です!」
「何が大丈夫なんだかな」

 京介が付け加える。

「みんな揃ったことだし、行こうか?」
「――みんな?」

 予想どおりになるのは目に見えているが、一応反問する。

「うん。僕が雅也たちを呼んだんだ」

 悪気もない満面の笑顔で、そう答えた。

「は、はあ……」

 がっくりとうな垂れる。また、期待外れに終わってしまった。デートをしている気分を味わえると思っていたが、それも叶わぬ夢だったらしい。

「……」

 雅也は黙って、そんな光景を見守っていた。

「さあ、行こう」

 十希の声の許、一行は水面駅から数駅離れた、都心の方へ出向いた。

     ※

 実際、ダンスシューズはめちゃくちゃ高かった。

「に、二万円……?」

 目を疑った。
 なんだ、この値段は?
 桁が一つおかしくない?

「由良理、いくら持ってきてるんだ?」

 雅也が聞く。

「一万円持ってきたんだけど……」

 貯金箱に入っていた小銭を親に両替してもらい、千円札が五枚と五千円札が一枚、財布には入っていた。余裕をもって持ってきたはずだった。しかし、予想は外れた。まさか、ダンスシューズがこれほどまでに高価な品だとは思ってもみなかったのだ。

「こっちに安いのがあるよ」

 言われて、十希の後についていく。

「七千円かぁ……」

 これでもまだ高い。

「それじゃあ、これで……」

 しかし、これよりも安い靴はなかったので由良理はこれを買うことに決めた。何より、十希が選んでくれたことが嬉しかったから。

 由良理はレジで七千円を払い、財布の中が乏しくなったのと同時に京介が「腹が減った」と呟いた。
 少し休憩をすることにした四人は、近くの喫茶店に入った。

「由良理がジャズダンスを始めるか、ふむふむ。奇想天外……いや、晴天の霹靂とはまさにこのことだな」
「勝手に言ってなさい……」

 財布の中身が乏しくなって元気がない。
 お小遣いを前借りしなければ、と考えた。

「明日、初のレッスンだね」
「はい」

 正直、不安だった。
 ジャズダンスの経験ゼロの自分が、ちゃんとダンスを踊ることが出来るのだろうか。少なくとも、十希の前で格好悪いところだけは見せたくないという気持ちがあった。

「先ずはストレッチから始めることだな。どうせ身体硬いだろうし」

 雅也が言う。ムッときたが、言い返せない。この前上級のレッスンを見たとき、レッスンに出ていた人たちはみんな身体が柔らかかった。バレエ選手のようにしなやかな伸びを見せていたのだ。自分にはそんな芸当不可能だ。身体は硬い。

「すぐに柔らかくなるよ」

 十希は言ったが、由良理には苦々しく笑うことしか出来なかった。

「そろそろ出るとしよう」
「え、もう?」

 雅也が聞く。

「うむ、午後五時からアニメ観賞せねばならんのでな」
「あっそう……」

 ため息を吐く。

「あ、わたしが支払いますよ!」

 由良理が十希に言う。

「え、そんなの悪いよ」
「いや、いいですから。気にしないでください。今日はその、ダンスシューズを買うのに付き合ってもらいましたし!」

 由良理にしてはスムーズに言葉が出た。しかし、それに便乗してくるものが約一名。

「そうか由良理、それではお言葉に甘えることにしよう」
「京介も一緒に払うのよ!」
「なぬっ、なぜ俺が?」

 怪訝そうな顔で由良理を見る。

「俺の財布の中身は、フィギュアを買うためにあるのだ。それを使えと言うのか?」

 文句を垂れ続ける京介を宥め、由良理はレジで精算を済ませる。その様子を後ろから雅也は眉根を寄せて見ていた。
 三人で食事をするとき、いまだかつてこんなことはなかった。だからこそ、雅也は頬を膨らませていた。

 喫茶店を出て、水面駅まで戻る。
 帰る途中十希と別れると三人で歩き始めた。京介はアニメの話をしていたが、由良理と雅也は無言だった。由良理は今日の出来事を振り返り、誇らしげな顔をしている。一方の雅也は、ふてくされた表情をしている。

「じゃ、またな」

 由良理は二人に手を振り、そのまま帰路へ歩いた。
 雅也は、その後姿を暫く眺めていたが、京介に「どうした?」と聞かれ、「何でもない」と答え、歩くのを再開した。

 由良理は自分の部屋で今日買ったダンスシューズを履いてみることにした。サイズがピッタリなので、しっくりとくる。シューズを履いただけなのに、この前十希が踊っていたように格好よく踊ることができるような気がした。もちろん、そんなことは絶対に有り得ないことだと分かっている。

 雰囲気だけだ。しかし、その雰囲気だけでも一流のダンサーになった気がした。十希と一緒にダンスシューズを買いに行って、そして選んでもらったのだ。この靴は、一生大事に扱わなければ、と思った。

「ダンス、頑張らなきゃね」

 部屋の窓を開けると、外は夕闇に包まれていた。秋はとっくに過ぎ去ってしまったらしく、いつの間にか冬の寒い空気が、肌をピリピリさせた。
 ちゃんと踊れるかな?
 不知火くんに格好いいところを見せたいんだけどなあ。そんなことを考えながら、由良理は日曜日を終えた。