目が覚めた。

「むう……」

 眠たそうに目を擦りながら後ろを振り向き、壁時計に視線を移す。時計の針は十二時半を指し示している。起きるのにはまだ早い時間だと理解し、二度寝の甘美を味わうことにした。

 昼休みになるまで、まだ時間がある。今がちょうど、英語の授業中だなんてことは関係ない。もう少しだけ寝かせて欲しい、と由良理は思った。昼休みには大事なイベントが待っているのだから、今のうちに少しでもいいから眠気を抑えておかなければならない。

 左の頬に頬杖をついた状態で、ゆっくりゆっくりと船を漕ぎ始める。気付けば、すでに夢の世界へと誘われている自分がそこにいた。

 御剣由良理は普通の日常を送っていた。
 学校での成績は中の下辺りを彷徨っているが、由良理が通っている神楽坂学園は中高一貫校なので受験勉強などをする必要がない。基本的に中等部の生徒はエスカレーター式に高等部へと進学することを希望するため、受験という概念が念頭に無い。

 神楽坂学園は市街地を避けるようにして作られ、学校の辺りを緑に囲まれ、小高い丘の上に建っている。丘の上に学校が建てられているため、毎日の登校はどうしても億劫な存在へと変わってしまう。もちろん、丘の上に学校が建てられているということはつまり、騒音などに頭を悩ませることなくのびのびとした学園生活を送ることができるので、生徒たちにとっては良い環境なのかも知れない。

 学園生活に不満などはなく、友達も多い。
 授業中は惰眠を貪ることが多々あるので、よく先生に怒られたりもするが、毎度のことなので由良理はへこんだりしない。

 スポーツは、得意ではない。身体を動かすこと自体は嫌いではないのだが、頑張ろうという気持ちに運動神経が追いつかないのでいつも空回りしている。

 容姿も極めて普通。特別可愛いというわけでもなければ、変な顔でもない。平均的なところに位置している。ただ、毎朝ギリギリに起床するので寝癖を直さずに学校に向かい、クラスの男子たちによくからかわれている。

 そんな由良理のささやかな趣味といえば、小説を読むことだった。

 中休み時間や昼休み、そして放課後などの空いた時間を見つけては、日課の如く図書館へと足を運んでいる。神楽坂学園内には中等部と高等部にそれぞれ一つずつ図書館が作られており、由良理が足を運ぶのは当然、中等部専用の図書館だ。

 今日もまた、午前の授業が終わると同時に図書館に向かう予定だ。

 チャイムが鳴り、英語の授業が途中で中断される。教壇に立っている年配の先生が、来週までに宿題を提出するように、とか話しているように聞こえた気がするが、そんなことは気にしない。

 委員長が起立の号令を掛けてクラスメイトが一斉に立ち上がる。由良理も、大きな欠伸をしながら立ち上がり、みんなに合わせて礼をした。

「さて、と……」

 教室内が一気に騒がしくなる。待ちに待った昼食の時間だ。由良理は机の横に掛けてある鞄から弁当箱を取り出すと、図書館に向かうべく席から立ち上がろうとした。

「由良理」

 瞬間、横から聞き覚えのある声がした。

「――なによ、雅也」

 振り向くと、隣の席に座っていた男子が眉根を寄せてこちらを見ていた。
 彼の名前は北条雅也。由良理とは幼なじみだった。家が隣近所ということもあり、小さい頃からいつも一緒に遊んでいた。終始マイペースな由良理とは異なり、雅也はとても活発で明るい男子である。

「どこ行くんだ?」

 雅也は、持ち前の強い口調で聞いてくる。

「ん、図書館だけど」

 それに対し、由良理は面倒くさそうに答えた。
 何の因果か、由良理と雅也は神楽坂中学校に入学してから三年間、ずっと同じクラスだった。現在二人がいる教室は三年三組。中等部校舎の三階だ。図書館は一階にあるので、着くまでに結構な時間が掛かる。広大な土地を利用して建てられている学校なので、その面積は通常とは比較にならないほど大きい。

「図書館? もしかして……また小説読みに行くのか?」

 目を細めて見つめてくる。

「お前ももつまらない趣味を持っちゃったよな」
「うるさいわね、ほっといてよ。本を読むのがわたしの娯楽なの」

 しみじみと呟く雅也に、由良理は唇と尖らせて主張した。
 とはいえ、そんなことを言っている自分自身が、一番年寄りくさい趣味を持っていると感じていたが、それは事実なので仕方がない。

 昼休みになると同級生たちは急いで昼食を済ませ、颯爽とグラウンドへと駆け出す。サッカーやら野球やらテニスやら、どうやらみんな汗を流すのが好きらしい。体育館を覗いて見れば、当然のようにバスケットやバドミントンで遊ぶ姿が目に入る。

「ああそうだ、図書館に行くなら――」

 雅也が何か言おうとして、由良理はビクッと肩を震わせた。
 何か、面倒なことを押し付けられそうな気がした。昔からの腐れ縁なので、由良理にはそれが分かるのだ。そして、その予想は見事に的中する。由良理は、雅也から面倒くさいことを押し付けられることになってしまった。

「図書館に十希がいると思うから、このノートを渡してきてくれ」

 喋りながら、雅也は自分の机の中に入っていた一冊のノートを取り出すと、それを由良理の机の上に置いた。

「えっ、十希? 十希って、あの……不知火くんのこと?」

 少し、動揺した感じで聞き返す。

「他に誰がいるんだよ」

 雅也は呆れたように答えた。
 不知火十希というのは、由良理がまだ一年生だった時、同じクラスにいた男子のことである。現在、彼は三年一組なので由良理とクラスは異なるのだが、その存在は前々から気に掛けていた。

 由良理は、十希に対し密かに好意を寄せていたのだ。

 男子と話すことが苦手な由良理は、十希を目の前にすると話すことができなくなるだけでなく、身体が硬直してしまい、まるで石化したのではないかと思ってしまうほど動かなくなってしまう。それが原因で、同じクラスだった時も十希とは一度も話すことなく一年間を終えてしまった。
 そのことを、由良理は一生の不覚だと感じている。

 雅也は幼なじみで昔から一緒にいたことも幸いして、普通に話すことができるのだが、そのことを雅也自身は快く思っていない。自分が男として見られていないのでは、という不満があるのだろう。

「わ、分かったわ」

 由良理はさり気なく、しかし面倒くさそうに答えた。
 変な受け答えをすれば、すぐさま雅也に気付かれてしまう。雅也は勘がいいから気を付けなければならない。自分の机の上に置かれた十希のノートを手に取ると席を立ち、雅也から逃げるようにして教室を飛び出した。

 廊下に出ると一息吐いて、そのまま図書館へと向かう。
 実際、由良理が図書館に行く理由は小説を読むためではなかった。
 そもそも、小説を読むのは一つの切っ掛けを作るために過ぎないのだ。
 中休み時間や昼休み、そして放課後になると、決まって図書館へ足を運んでいた。それにはもちろん、それ相応の理由があるわけなのだが。

 彼は、図書館で本を眺めていた。
 図書館に他の生徒の姿は見当たらない。これほど大きな学園なのに、図書館には閑古鳥が鳴いている。

 由良理のことに気付いていないのか、図書館の一角に完備されてある椅子に腰掛けて本に視線を落としている彼は、一人黙々と本を読み続けている。時折り、ページを繰るために指先を動かしている。

「あ、あの……」

 声を掛けた。
 彼は由良理の声に気付くと、顔を上げて上目遣いに由良理の方を確認する。

 ああ、格好いい。彼の視線を受け、由良理は心臓が飛び跳ねるのを感じた。

 自分の目の前にいる男子の名前は、不知火十希。彼こそが、由良理が毎日日課の如く図書館へ通うようになった原因だった。

 人形のように整った顔立ちに白く澄んだ肌が印象的で、目鼻立ちにはまだ幼い柔らかさが残っているが、その表情には凛々しさをも持ち合わせていた。この微妙なコントラストが、独特の雰囲気を醸し出している。
 黒縁眼鏡を掛けることで、格好良さを若干目立たなくしているが、逆に秀才っぽさが表に出ていて由良理的には問題なかった。

「……」
「……」

 沈黙が流れる。
 続く言葉を発せずにいる由良理を見やり、十希は首を傾げた。この時すでに、由良理の身体は硬直し、石化の術に掛かっていた。
 多分、顔は真っ赤になっているんだろう、鏡を見なくても分かるんだ。だって、胸の鼓動が高鳴るのを感じるんだ。何か、話さないと――。

 小さく深呼吸をする。

「――こ、これ……」

 いつまでも無言でいるわけにもいかない。話しかけたのは自分なのだ。
 由良理は胸に響く鼓動を必至になって抑え込むと、言葉に閊えながらも一言だけ呟いた。

「え……」

 由良理はろくな説明もすることなく、雅也から言付かれていたノートを半ば無理矢理、十希に押し付けた。十希は困惑した様子でノートを受け取ると、由良理の方を見て口を開こうとした。恐らくは、「なんで僕のノートを持っているの?」とか言うつもりだったのだろう。

 けれど、由良理は逃げた。
 まるで瞬間移動でもするかの如く、その場から逃げ去っていた。

「――疲れた」

 安堵のため息を吐いた。
 教室に戻ると、倒れ込むように自分の席に着いた。本日の昼休みイベント、之にて終了成り。そんな言葉が頭に浮かんでくる。本当ならば、今日もいつもと変わらず図書館で弁当箱を開いて、十希と同じ空間で昼食を取るはずだった。しかし、残念なことにそれは失敗に終わってしまった。

 十希に話しかける切っ掛けができたのは正直、とても嬉しく思っていた。今まで、一度も話したことがなかったので、チャンスを与えてくれた雅也に感謝したくらいである。しかし、結果が伴わないのは由良理の努力不足。石化するだけならまだしも、よもやその場から逃げ出すとは情けないにも程がある。

「あぁ……わたしはバカだ」

 自嘲した。

「へえ、よく分かってるじゃんか」

 隣りの席に座って昼食を取っていた雅也が、話に乗ってきた。

「なにがよ」
「お前がバカってことだよ。今、自分で言っただろ」
「あのねぇ……」

 抗議の声を上げようとしたが、バカらしくなったので止めた。由良理の態度を見て、雅也は口をへの字にしていたが、気にせず弁当箱を開いた。

「図書館で食べてくるんじゃなかったのか?」
「うるはい」

 卵焼きを口に頬張りながら答える。美味しい。だが、由良理の心は晴れない。十希の前で恥ずかしい行動を取ってしまったことを後悔しながら、ご飯を口に運び続ける。

「十希にノート渡したくれたか?」
「うん」

 言われて、由良理は力なく答える。すると雅也は、

「――何かあったのか?」

 と聞いてきた。さすが幼なじみなだけはある、ちょっとした表情の変化にもすぐ気付いてしまう。無論、今の由良理にとって、それはお節介以外の何物でもないのだが……。

「別に、何もないけどっ」

 さり気無さを装っていたが、声が上擦っているのでバレバレだ。

「ふ~ん」

 目を細め、観察するように由良理を見ていた雅也は、やがて

「パシリ、ご苦労さま」

 それだけ言い残し、弁当を食べるのを再開した。

 お昼休みも間もなく終了を迎える。
 午後の授業が始まる前の一時を、由良理は自分の席に着いて、腕を枕代わりにした状態で過ごしていた。この状態で目を閉じてしまえば、すぐにでも眠ってしまいそうである。

 だらだらするのは大得意だった。
 授業中もずっとだらだらと過ごすのが常なので、これは由良理にとって日課とも呼べるものだった。先ほどまでの高揚はとっくに消え去り、今は長閑な秋の日差しを窓越しに浴びながら、のんびりと日向ぼっこをしていた。

 昼休みの時間も残り僅か、午後の授業というものはどうしても眠たくなってしまうものである。今のうちに寝ておけば、授業中に船を漕ぐようなこともないだろう。
 神楽坂学園でも今の時期、受験に向けて勉学に励む者も少なからずいるので、授業中に昼寝している生徒など、先生にとっては見るに耐えない光景だ。

 しかし、由良理は例外だった。先生に怒られても何食わぬ顔をしている。本人曰く、反省しているらしいのだが、それが表情に出ていない。そんな態度がずっと続いたので、今では授業中に由良理が寝ていたとしても注意を受けることも少なくなった。それでもまだ一部の先生は、授業中に惰眠を貪る由良理の頭を叩いて起こそうと奮闘する。

「雅也」

 ふいに声が聞こえた。
 ごろごろしている由良理にとってその声は、心地の良い安らぎを与えてくれると同時に、ついさっき感じていた胸の高鳴りを再始動させるものとしては十分だった。

 机に伏していた顔を少しだけずらし、隣の席に座っている雅也に視線を移す。
 誰かと話しているらしい。もう少し視線を上げれば顔が見える。

「――あ」

 小さく、ぽつりと声を漏らした。
 雅也と話していたのは、不知火十希だった。
 由良理はすぐに視線を逸らすと、再び腕を枕にして顔を伏した。つまり、寝た振りだ。

「由良理」

 雅也が話しかけてくるが、由良理は寝た振りを続ける。
 ここで由良理が顔を上げて十希の方を見たりでもすれば、たちまち石化が始まってしまう。図書館の二の舞だけは御免被りたいところである。耳は真っ赤になっているが、そんなことお構いなしである。

 雅也の呼びかけに応じず、由良理はひたすら寝た振りを続けることに決めた。

「おい、バカ由良理っ、起きろってば!」

 そんな態度にムカついたのだろう、雅也は由良理の後頭部をグーで軽く叩いた。

「――っ!?」

 顔を机に伏していたので、逃げ場のない由良理の頭は、雅也の一撃によって机に打ちつける形となった。

「な、なにすんのよ雅也!」

 思わず顔を上げる。強打した頭が痛い。
 由良理は思わず顔を上げてしまい、その直後、当然のように石化してしまった。

 不知火十希と、目が合った。
 何秒くらいだろう。ほんの一瞬かも知れないし、若しかしたら五秒くらいそのままだったかも知れない。由良理はただ、正面から見つめる十希の整った顔に目を奪われてしまった。

「あの――」

 十希が由良理に向かって何か話そうとしていたが、由良理は自分の心に反して、勢いよく席を立ち上がり小さくお辞儀をすると、そのまま教室を飛び出していた。

 逃げた。
 疾風の如く、由良理は教室から逃げ出した。

 自分はバカだ。不知火くんと話をすることが出来る絶好の機会を、自らの手で逃してしまったのだ。何をやってるんだわたしは!

 肩を落とし、がっくりとうな垂れる。
 足は自然と図書館へ向けられ、教室に戻るのも面倒なので司書の先生にばれないように身を屈めながら中に入った。

「はあ……」

 図書館の一番奥にある席に腰掛けると、由良理はため息を吐いた。
 今回のため息は、安堵のため息ではない。自分に対する失望のため息である。
 初めて、十希と話すことが出来たかも知れなかったのだ。だがそのチャンスは、一瞬にして潰えてしまった。

 情けない。
 自分自身がとてつもなく情けない。由良理は、己の愚かさを呪いたくなった。

「由良理……か?」

 どこからか声が聞こえる。
 先生が見回りに来たのかと思ってドキリとして振り向いたが、その予想は外れた。

「――その声、京介ね?」
「む、正解だ」

 ニヤリと笑い、由良理の目の前にいる男は答えた。
 彼の名は柊京介。雅也と同じように、由良理の幼なじみのうちの一人だった。

「サボりか?」

 いきなり核心を突いてくる。
 裏表がない性格なので、由良理は京介のことが気に入っていた。

「それ以外に何があるのよ」

 苦笑しながら答える。午後の授業開始のチャイムはとっくに鳴っている。今更教室に戻って授業を受けるのも面倒くさいので、由良理は授業が終わる時間になるまで図書館で寝ようと思っていた。

「そうか、それは都合がいい」
「何の都合がいいって?」
「俺もサボりだ。数は多い方が楽しいからな」

 そう言うと、京介は辺りをキョロキョロと見渡す。自分らの周りに誰もいないことを確かめると、そのまま床に腰を落ち着けた。

「さあ、アニメの話でもしようじゃないか」
「一人でやってなさい。わたしは寝るから」

 やれやれといった表情を見せると、由良理は本棚を背にして床に座り込み、授業が終わるまでの時間を寝て過ごそうと決めた。

「つまらん女だな」
「つまらなくて結構よ」

 今は話をする気分ではなかった。
 一人寂しく、自分の無能さを蔑もうと考えていたのだ。

「日本のアニメは偉大だぞ。歴代アニソン人気ベスト100を一つずつ教えてやろうと考えていたのに、俺の好意を無駄にするのか由良理?」

 真剣な眼差しで由良理を見据える。京介は冗談で言ってるわけではないので、対処の仕方に困った。

「気持ちだけ受け取っておくから……」

 京介は残念そうに肩を落としていたが、由良理は気にしないことにした。

     ※

「起きろ。起きろ。起きろ由良理」

 耳元で京介の声が聞こえる。うるさい。
 どうせなら、不知火くんの声で起こされたかった、などと内心では思った。

「なによ、もう授業終わったの?」
「阿呆、時計を見るがいい。時はすでに放課後だ」

 京介は肩を竦めながら答える。由良理は頬を掻きながら辺りを見回す。なるほど、周りにはすでに幾人かの生徒の姿を確認することが出来た。

「あちゃー、寝すぎたみたいね……」

 小さくため息を吐いた。

「そろそろ帰ろうかな」

 席を立ち上がり、教室に戻ることにした。

「待てぃ、俺も帰る!」

 京介も後に続く。
 図書館を出て、すぐ傍にある階段を三階まで上ると、そのまま廊下を突き進んだ。
 三組の教室には数えるほどしか生徒は残っておらず、その中の一人、雅也は自分の席に着いて腕を組んでいた。他のクラスメイトはみんな帰ったのか、もしくは部活に行ってしまったのだろう。

「どこ行ってたんだ?」

 席に着くと、雅也が話し掛けてくる。

「まだ帰ってなかったの?」

 チラッと横を確認して言うと、ムッとした表情で由良理を睨みつけてきた。

「お前が途中で消えたから、心配してやってたんじゃないか」
「へえ、それはどうも」

 素っ気なく答える。すると、雅也は座ったままの状態で軽く蹴ってきた。

「痛いってば。何かあるとすぐに手が出るのが雅也の悪い癖よ」
「手じゃなくて足だ、バカ由良理」

 怒ったのか呆れたのか、雅也は席を立つとそのまま教室から出て行った。

「雅也、また明日会おう」

 その光景を、微笑を浮かべながら見学していた京介が、雅也の後姿に声を掛ける。返事はもちろんなかった。

「さて……」

 机の中身を鞄に無理矢理詰め込んで席を立つと、由良理はパンパンに膨れ上がった鞄を手に持った。

「ふむ、帰宅部は家に帰るとするか」

 京介が畏まった感じで問いかける。

「了解」

 返事をする。由良理は京介と一緒に教室を出た。
 下駄箱で上履きから外履きに履き替えると、正門を通り抜けて坂を下って行く。

「ところで――」

 何がところでなのか分からなかったが、京介がいきなり話しかけてきた。

「由良理、今日暇か?」
「暇じゃないと言えば嘘になるわね」

 今日はこの後、特に予定はなかった。

「なるほど、ならば俺と一緒に駅前のアニメショップに行けるということだな」
「なんでそうなるのよ」

 すぐさま言葉を返す。暇だからとしても、アニメショップで時間を潰すくらいなら図書館で借りた本を読んでいた方がよっぽど有意義だと思った。

「新しくできたお店でな、新装開店イベントがあっているはずなんだ」

 嬉しそうに喋る京介の方を見て、由良理はため息を吐きそうになった。

「あっ、そういえば……」
「なんだ、由良理もアニメの素晴らしさに目覚めたか?」
「だからなんでそっちの話になるのよ」

 否定する。曖昧な返事をすれば、肯定したと見なされ、京介に引き連れられて毎日アニメショップを探索しなければならなくなる恐れがある。それだけは絶対に阻止しなければならない。

「用事を思い出したの。市立図書館に本を返すの忘れてたから」
「ほう、市立図書館ねえ……」

 京介は顎に手を添えると、何かを考えるような素振りを見せた。

「まあいいだろう。しかし明日こそは――」

 言い淀む。言葉を切ると、言い直した。

「ふふん、まあいい。明日を楽しみにしておけ由良理」
「何を楽しみにするのよ?」
「明日になってのお楽しみだ」

 微笑を浮かべながら京介は歩く。首を傾げると、その後ろを由良理はついて歩いた。
 京介の誘いも嬉しかったのだが、その内容があまりにもコアすぎるので、由良理としてもどんな反応をすれば良いのか困ってしまう。由良理は用事があると告げると、京介は結局、一人で寄り道することに決めた。

「ただいまー」

 玄関で靴を脱ぎ、居間で寛いでいた母に声を掛けると、そのまま二階へと続く階段を颯爽と上った。
 自分の部屋に入ると、鞄を床に無造作に投げ置き、そのまま布団に寝転がった。そして今日の自分が取ってしまった行動を恥じた。

 ああ、不知火くんはきっとわたしのことを変な奴だと思っただろうなあ。目が合うとすぐに逸らしてしまうし、顔は真っ赤になっていただろうし、耳もきっと赤くなっていたはずだ。それだけじゃない。石化だってしたし、挙句の果てにはその場から逃げ出すような女だ。絶対に幻滅されたよね。いや待って。不知火くんは優しいから、そんなこと気にしてなんかいないかな?

 暫く悶々と妄想をしていたが、ふと壁に掛かった時計に目をやる。時刻はすでに午後の六時を回っているではないか。布団から起き上がると、机の上に置きっぱなしになっていた小説を一冊手に取った。

「確か、今日が返却日だったっけ……」

 由良理は近所の市立図書館で本を借りていたのだが、返却期限が今日だということをすっかり忘れていた。慌てて私服に着替えると、コートを羽織る。そして本を片手に部屋を出て玄関に向かった。

「あれ? どっか行くの?」

 靴を履いていると後ろから妹の声がした。

「図書館まで、ちょっと用事」

 答えると、そのまま家を出た。

     ※

 十一月も下旬。季節は秋から冬に移り変わりつつある。
 当然、外は寒い。息を吐けば、それは白い輝きを放つ。肩を少しだけ震わせると、由良理は自転車に乗って図書館を目指した。
 坂の途中に建てられている由良理の家から、さらに高い位置へと自転車を扱ぎ続ける。

「ふう、到着……」

 あっという間に図書館に着いた。自転車を駐輪場に止めると、寒さに耐え切れなくなって早足で館内へと急いだ。

 図書館の中はとても暖かく、まるで天国だった。外の世界とは打って変わって和やかな雰囲気が漂う。由良理が住んでいる水面市でも一番の大きさを誇る水面図書館は、近所の人たちにとって憩いの場と化している。

 耳をすませば、所彼処から聞こえてくる喋り声。図書館ということもあって多少、お喋りのトーンは小さくなるものの、一階を見渡すだけでも百人くらいはいるのではないかと思うほど多くの人が集まっているので、どうしても声が木霊してしまう。学校の図書館に比べるとどうしようもなく五月蝿く、集中することなど到底出来るわけがないが、それでもここは、由良理にとって暇を潰すには打ってつけの場所だった。

「返却完了っと」

 借りていた本を返却。
 時間もあるので館内を見て回ることにした。何か面白い小説はないかな、と考えながら本棚を眺める。

「ふぁ……」

 午後の授業をサボって惰眠を貪っていたというのに、まだ欠伸が出てしまう。まだ寝足りないのだろうか。目を擦りながら本棚の角を曲り、一つ奥の列に移動する。すると、目の前に見慣れた制服を着込んだ男子の姿があった。その男子はその場に立ったまま小説に読み耽っていた。顔はよく見えない。

 それにしても熱心に読むな、と感心する。その男子が着ているのは、由良理が通っている神楽坂学園の制服だった。

 まあ、よくある光景だ、と思ったのもつかの間、その男子が読んでいた小説を本棚に直そうと顔を上げた。

「あっ――」

 つい、声を上げてしまう。
 それもそのはず、由良理の目の前にいた男子は、不知火十希本人だった。声を聞いて気づいたのか、十希は由良理の方を振り向くと、驚いたように目を丸くする。

「あ、こんにちは」

 と由良理は言いたかった。というか、幾らなんでもそれくらいの台詞なら自分にだって言うことが出来ると思っていた。しかし、由良理の身体は言うことを聞いちゃくれなかった。

 何故、口が開かない。一言、たった一言だけだろう。頑張ってよ由良理。
 自分に言い聞かせるように何度も頭の中で叫んだ。しかし――。
 今日の昼休み、学校の図書館と教室で仕出かしてしまったように、由良理はその場から逃げていた。
 一目散に逃げたのだ。

 情けなさを通り越して言葉すら出てこない行動である。
 自分は、とてつもなく恥ずかしがり屋なのかも知れない。別に好きでもない男子となら、話したりすることも出来る。でも、不知火くんだけは例外だ。彼の姿を視界に捉えると、胸の鼓動が高鳴るのを感じる。ほんの一瞬、目が合っただけなのに身体が雷鳴を受けて硬直し、石化してしまう。よもや話しかけられたりでもされた日には、気絶してしまうんではなかろうか。

 今、自分がいる場所が図書館だということすら忘れて、由良理は館内を全力疾走して出口へと向かった。
 家に辿り着いた時には、息を切らして大量の汗を流していた。

「あれ、走って帰ってきたの?」

 玄関に横たわる由良理の許に妹が駆け寄ってくる。

「悪い?」

 息も絶え絶えになりながら答える。

「どうでもいいけど、自転車は?」
「あ……」

 結局、由良理は夕食を食べた後、自転車を取りに再び図書館へと歩いていった。

     ※

 翌日、教室に着いて窓側に位置する自分の席に着くと、いつものようにのんびりとしていた。横を見れば、隣に座っている雅也が頬杖をついた状態でわたしのだらしない姿を眺めている。いくら相手が雅也だといっても、ずっと見られると恥ずかしくなってくる。

「――何か用?」
「別に何でもない」
「じゃあこっち見ないでよ」
「うるさいな」

 いつも、こんな感じである。
 由良理はため息を吐くと、顔の向きを反転した。すると雅也が椅子を蹴ってくる。雅也の攻撃に耐えながら、由良理はだらだらと過ごしていた。教室の真ん中辺りの席に座っている京介の方を見れば、こちらを羨ましそうに眺めているのが見える。

 なんでそんな目で見る?
 由良理には、わけが分からなかった。

 チャイムが鳴り、ざわついていた教室内も途端に静かになる。暫くすると担任の先生が教室に入って来て、朝のホームルームが始まった。

 午前の授業は、つまらなかった。英語や数学といった苦手な科目ばかりである。もっとも、得意な科目なんて一つもない。

 その日の三時間目は自習だった。教室内は賑わっている。先生がいないだけで、学校というものはこれほど騒がしくなるものなのだ。

「――昨日、市立図書館に行ったのか?」

 机の下で小説を読んでいたら、いきなり声を掛けられた。

「なんで雅也が知ってるのよ」

 反問する。

「十希が、お前の姿を見かけたって言ってたからさ」
「ああ……」

 曖昧に返事をした。

「なにか話とかしたのか」
「してないわ」

 赤面してその場から逃げ去った、なんて言えるわけがない。
 だから、由良理は嘘をついた。

「ふ~ん……」

 と疑うような瞳で見据えてくるが、由良理は視線を逸らして小説を読むのを再開した。

 放課後、京介に誘われて駅前のゲームショップまで足を運ぶことになった。
 本当は学校の図書館で小説を読むつもりだったのだが、昨日は断ったので、今日はいいだろう、と言われたので渋々だった。重い足取りで空虚な空を眺めつつ、由良理は京介について水面駅まで向かった。

 由良理の幼なじみ、柊京介はオタクである。
 スポーツ万能で二枚目、しかも成績は学年で常に上位に位置している万能人間。三拍子揃っている。しかし、女の子にもてない。その理由はただ一つ。彼がオタクだということだ。以前、学校に女の子のフィギアを持ってきたことがあるが、その何れもが下着姿や水着姿、挙句の果てには逸し纏わない姿のものもあった。

 しかも、その全てがあられもない格好でポーズを決めるものばかりだったのでたまらない。それをクラスの女の子に見せて、「俺の宝物」発言したのは今から遡ること二年以上前の話だったと由良理は記憶している。

 フィギア事件以来、京介は変態のレッテルを貼られてしまい、女生徒からは敬遠される存在となっていた。当初は可哀想だと思っていた由良理だったが、当の本人はそのことをまったく気にしていない様子なので、今では同情する気もゼロである。

「昨日の夜中、新しいアニメが始まったんだ。知っているか?」
「知らない」

 即答すると、京介はにやりと笑みを浮かべる。

「ふふん、ヒロインの子がめっちゃ可愛くてな、そのアニメに出てくるヒロインのな、フィギアが限定発売されることになったんだ。嬉しいか?」
「別に嬉しくはないわね」

 苦笑いしつつ答える。

「本当は嬉しいくせに、正直じゃないな」

 肩を竦めながら京介は言った。
 その瞳には、冗談で言っているようなものは映っていない。そう、京介は大真面目に話しているのだ。

「――好きにしてちょうだい」

 付き合っていられないといった表情で、歩く速度を速めた。
 やがて水面駅に着くと、京介に案内されて駅に隣接するようにして建てられているビルの中に入った。

「うっ……!?」

 思わず絶句する。店内は、想像以上だった。

「なによ、ここは……」

 まるで異世界にでも紛れ込んでしまったのかと思ってしまうほど、店内はおかしな空間だった。

「素晴らしい、まさに聖地だ!」

 由良理とは反対に、京介は目を爛々と輝かせながら叫んだ。

「京介の思考回路は、どうかしてるわ」

 由良理は力なく言った。
 京介のマニアックな買い物に一時間ほどつき合わされ、へとへとになった由良理は家に帰ることにした。途中、由良理は古本屋に寄るからと言って京介と別れた。駅から少し遠いところに大きな古本屋がある。そこまで足を運ぶと、小説を立ち読みし始めた。
 目ぼしいものが無いことを確認するとそのまま店の外に出る。すでに外は夕闇に覆われていた。

 寒い。早く帰ろう。
 近くの公園を横切り、自分の家へ続く道を歩く。

「――あれ?」

 途中、どこからともなく音楽が聴こえて来る。
 由良理はその場に立ち止まると、周囲を見回した。どこから流れているんだろうか。自分の耳に聞こえてくる微かなメロディだけを頼りに、音のありかを探した。やがて、入り組んだ路地を曲ったところにそれはあった。

 由良理は目の前に聳え立つ立派な建物を見上げた。どうやら、音楽はそこから流れているらしい。テンポのいい感じの音楽である。
 日本語ではないメロディは、たぶん洋楽だ。

「なんだろう……」

 首を傾げる。

「あ、見学の方ですか?」

 声が聞こえて振り向いてみると、ラフな格好をした男子が隣に立っていた。

 とてつもなく格好いい、そう思った。それと同時に、誰かに似ているような気がした。どこかで見たことがあるような感じがする。

「え、いや、あの――」
「あれ……もしかして御剣さん?」

 その言葉に、由良理は驚いた。
 なぜ、初めて会ったはずの彼が自分の名前を知っているのだろうか。

「なんでわたしの名前を」
「判らないかな? ほら……」

 そう言うと、彼は両手の指で丸を作り、目元に近づける。

「あっ」

 その姿を見て、やっと気づいた。
 自分の目の前に立っている男子が、不知火十希だということに――。

「め、眼鏡は……?」
「今はコンタクトをつけてるから」
「そ、そうなんですか……」

 自然と、口調が敬語になっている。
 眼鏡を掛けていない彼の素顔は、学校で見る彼女の表情とはまた違った印象を与えてくれた。眼鏡を掛けているときは物静かで本を読むのが好きな男子という雰囲気を持っていたが、素顔の彼は真逆だった。

 活発な美青年を連想させる雰囲気を醸し出している。どちらかといえば、クラスの中心にいそうな感じだ。十希の美貌に暫くの間思考が停止していた。思わず見とれてしまうほどに美しい、と思った。

 しかし何故、コンタクトをつける必要があるのだろうか。由良理は疑問に感じた。そしてすぐ、十希が言った言葉を思い出した。

「――あの、見学って?」
「ここ、ダンススクールなんだ」
「ダ、ダンススクール?」

 反問すると、十希は頷いた。

「うん。僕の家なんだけどね」

 テレながら答える。
 その表情がまた可愛くて、格好いいのに反則すぎると思ってしまった。

「えっ、それじゃあ……ダンスを習っているんですか?」
「うん、そうだよ」

 十希の返事に、由良理は驚きを隠せなかった。

「今から上級クラスのレッスンが始まるから、良かったら見学していかない?」
「えっ、は……はい」

 言われるがままに頷いた。
 正直、由良理は困惑していた。それもそのはず、彼のイメージが相反していたからだ。

 自分が知っている不知火十希は、黒縁の眼鏡を掛けていつも大人しそうに図書館で読書をしている。それが彼の姿だと思っていた。だが目の前にいる彼は、今までの印象を完璧に塗り替えてしまうほどの威力を持ち合わせていた。

 眼鏡を外して堂々としているその姿は、見るもの全てを魅了しようかというほどに尊大だった。おまけに笑顔が素敵すぎる。

 ひとりで惚けていると、

「御剣さん?」

 と顔を窺うように覗き込んできた。

「す、すみません。ぼうっとしてて……」

 慌てて謝った。
 赤面してしまい、顔を俯けながら答える姿はさぞかし情けなく見えたに違いない。

「こっちだよ」

 手で、おいでおいでをするように招くと、由良理は十希のお尻を追いかける形で建物の階段を上った。
 二階に上がり玄関で靴を脱ぎ、そのまま室内に入る。

「わあ……」

 嘆息する。
 部屋の中は壁一面鏡張りになっていた。部屋の広さは目を見張るものがある。ゆうに五十人程度が間隔を取ってゆっくりとすることができるであろう空間が、そこにはあった。

「ここがダンススタジオだよ」

 そこはまさに、ダンスを踊るためだけに作られたような部屋だった。

「もうすぐレッスンが始まるから、ここに座って見学しててね」

 笑顔で言われて、申し訳なさそうに首を縦に振った。自分なんかにそんな笑顔もったいない、と考えてしまう。

 スタジオ内には三階へと続く階段が存在し、由良理は階段を半ばほどまで上がった。
 由良理以外にも見学者がいるらしく、同じくらいの年頃の女の子が二人、階段に仲良く座っている。少し間隔を取って座ると、壁に背を付けた。スタジオ内には男女が数人、各々でストレッチをしている。みんながみんな、身体が異常なほどに柔らかい。

「凄い……」

 見とれていると玄関のドアが開き、見知った顔がやって来るのが視界に入った。

「へっ……雅也?」

 由良理の声に気づいたのか、雅也は振り向くと同時にその場に固まった。

「な、なんで由良理がここにいるんだよ!?」

 いきなり怒鳴られ、スタジオ内にいた人たちが一斉に振り向いた。

「いや、その……見学を……」
「お前がダンスの見学? もしかして頭おかしくなったのか?」
 言葉を遮り、言ってのける。そりゃひどい、と由良理は思った。
 言われっぱなしというのも釈然としないので抗議の声を上げようとしたら、それを遮るような形で十希が階段から下りてきた。

「やあ、雅也」
 陽気な声で挨拶をする。
 今更ながら、由良理は十希の態度が学校のそれとは大違いであることに目を丸くした。

「おい、十希! なんで由良理が見学してんだよ?」

 声を荒げて問いかける。まるで尋問するかのような気迫だ。しかし、十希はにこやかに微笑みながら、

「さっきそこで会ったから、見学してみないか誘ったんだ」

 と答えた。言われて、雅也は十希と由良理を交互に見やる。
 そして、ふう、と雅也はため息を漏らした。

「由良理、邪魔」

 言われて、由良理は階段の端に寄って道を譲った。雅也が三階に上って行ったのを確認すると、由良理は十希に話し掛けた。

「あの――雅也も、ダンスを……?」
「うん、そうだよ」

 初めて知った。まさか雅也が、ダンスを習っていたなんて。

「みんな、そろそろ時間だよ!」

 十希が元気よく声を上げる。すると今までストレッチをしていた人たちが一斉に立ち上がる。三階からも幾人か、ドタドタと下りてきた。その中にはもちろん、雅也の姿もあった。雅也は由良理の方を一瞥すると、すぐに視線を逸らした。
 由良理はため息を吐いた。

「きょうはこの曲を使おうかなー」

 十希がリモコンらしきものを操作すると、部屋の四方天井にそれぞれ設置されているスピーカーから音楽が流れ始めた。クラシックな感じの曲調で、それに合わせてストレッチを始める。

 一列目に十希、二列目に雅也と他数人、三列目に男の人が並んでいる。
 それにしても……、十希が一番前で、みんなに教えるようにしてストレッチをしているのが奇妙な光景に見えた。どちらかといえば、学校ではあまり目立つ方ではないはずの十希が、雅也たちを指導するようにしてストレッチを行なっているのだ。

「やっぱり、雰囲気が違うなあ……」

 改めて、そう思った。
 ふと、階段に掛けてあった掲示板に目を移す。そこにはダンスのクラスについてや、レッスンの時間帯、他にもダンスチケットの料金表やお知らせなどについて所狭しと書かれてあった。

 一レッスン二時間制と書かれてあるのを見て、由良理は顔をしかめた。

「二時間もこのまま……」

 動いている分には構わないだろうが、階段に座り込んでただ黙って見学している由良理にとってはたまらない。長時間座りっぱなしで尻が痛くならないように体勢を変えながら、見学を続けることにした。

 十希たちがストレッチを三十分ほどこなし、五分の休憩を挟む。その休憩時間の間に十希や雅也たちは、靴を履き始めた。

「ねえ雅也、スタジオ内で靴を履いてもいいの?」

 小声で尋ねる。
 すると雅也は眉根を寄せてこちらを見た。

「これはダンスシューズだからいいんだよ。踊るんだから靴履くのが当然だろ」
「あ、そう言えばそうね」

 納得する。

「バカはこれだから……」

 雅也は呆れたような表情を見せた。靴を履き終わると、持参した水筒のコップにお茶を注ぎ、それを口に含む。

「さあ、休憩終わり! みんな、ステップから始めるよ!」

 再び、十希が声を掛ける。
 手に持っているリモコンを操作してクラシックな音楽を止めたかと思うと、今度はスピーカーから流れてくる音楽がロック系の曲調に変わった。さきほどの曲とはまったく異なるテンポである。十希に従うようにして雅也たちはスタジオ内の端に一列に並んだ。

 先ず、十希がお手本を見せるように上手から下手に向かってステップを踏んでいく。由良理はその光景を目で追ったが、早すぎてついていけない。動かしているのは足だけでなく、両手を伸ばしたり天井に向けて突き出したりして、華麗にターンを刻んでいる。

「か、格好いい……」

 あれが、不知火くん?
 いつもひとりで、図書館の片隅で、小説を読んでいる不知火くんなの?

 由良理は、十希が軽やかにスタジオ内を端から端へと移動する光景を眺めていた。

「バカ面だな」

 由良理の近くにいた雅也が罵ってきたが、そんなことお構いなしである。
 十希がステップを踏み終えると、列に並んでいた人たちがひとりずつ、十希が踏んだステップと同じものを繰り返した。

「うわ、みんな凄いのね」
「当たり前だ、今お前が見学してるのは上級クラスだぞ。初見くらい出来て当然なんだよ」
「初見?」

 意味が分からずに反問した。
 すると雅也は面倒そうな表情を見せた。

「初見っていうのは、一度見たことをその場ですぐにやってのけることだ」
「へえ」

 感心するように頷く。
 並んでいた列も進み、やがて雅也の順番が回ってきた。
 雅也は少し緊張しているのか、表情が赤くなっているように見えた。それでも、さすが上級クラスに通っているだけのことはある。即座にステップをこなし、スタジオ内を端から端へ、見事なステップを踏んでみせた。

 一時間も過ぎた頃、ダンスのレッスンは中盤へと差し掛かっていた。

「ごめんごめん」

 階段をゆっくりと下りてきたのは、とても綺麗な大人の女性だった。

「お母さん、遅いよ」

 十希が声を掛ける。

「若い……」

 驚いてしまった。それもそのはず、見た目二十代にしか見えない。これが不知火くんのお母さんなのか、と。
 十希とバトンタッチするや否や、今度は十希の母が一番前に立った。十希はというと、なんと由良理の隣に腰掛けてきた。

「あ、うぅぅぅ……」

 変なうめき声を上げてしまう。由良理は緊張して、一瞬のうちに身体が固まってしまい、顔を真っ赤に染め上げた。

 恥ずかしい。まさか十希が、自分の隣に座ってくるなんて思ってもみなかった。十希は由良理の方を見やると、

「顔、赤いけど大丈夫?」

 と首を傾げながら心配そうに聞いてきた。由良理は黙りこくり、言葉を発することが出来ないながらも必至に頷き続けた。

 ここでやっと、ダンスの振り付けが始まった。ステップの練習やストレッチといった基本的なことは十希でも教えることができるようだったが、さすがに振り付けまでは許容の範囲外らしい。

「く、不知火くんは……踊らないんですか?」

 勇気を振り絞り、尋ねる。すると

「もちろん踊るよ。でも、今日は御剣さんが来てくれてるから、ちょこっとだけダンスについて教えておきたくって」

 言い終わると、十希は花のようにニコリと微笑んだ。
 わたしなんかにそんな笑顔もったいないです、と言ってしまいそうになるのは悲観的な自分の性格が災いしたのだろうか。視線など合わせることができず、由良理は終始俯いた状態を維持することになった。

「ここはジャズダンススクールでね、僕のお母さんが講師をしてるんだ」

 十希のお母さんの名前は、若葉と言うらしい。スクールは七つのクラスに分かれており、上から上級クラス、中上級クラス、中級クラス、初中級クラス、初級クラス、ストレッチクラス、そしてキッズクラスに分かれている。

「ジャズダンスで使用する音楽は、ロックやポップス、ヒップホップ等のダンスミュージックを、ジャンルを問わずに使用する踊りのことを総称するね。ジャズダンスを学ぶ際に一番大事なことは、最初の段階では基本のリズムとダンスステップを一つ一つ身に付けてレパートリーを増やすように練習することかな。ちゃんと練習をしていけば、気付いた時には自然に色々な身体の使い方や、捌き方が身に付いて着実にステップアップできるんだよ」
「は、はあ」

 よく分からなかったが、十希が瞳を輝かせながら力説するので、分かった振りをして、その場を誤魔化した。

 とりあえず理解することができたのは、十希や雅也が習っているジャズダンスというものは、どんな曲調にも合わせて踊ることができるということだった。先ほど雅也に説明されたダンスシューズについても、十希は詳しく説明した。

 ダンスを踊る際に履くシューズのことをダンスシューズと言い表され、それは必ずしもダンス専用に作られたシューズを指すわけではない。ジャズダンスにはジャズシューズ、バレエにはバレエシューズというようにジャンルによって専用の靴がある。因みに、ストリートダンスなどの場合は、スニーカーが使用されることが多いらしい。スニーカーには様々なタイプのものがあるのだが、どれを用いても良い。ただしダンスのジャンルによっては靴の種類の向き不向きがあるため、靴選びの際はデザインよりも、むしろ履き心地や踊りやすさを優先する傾向にある。

「それでね、僕のお母さんが今みんなの前でゆっくりと振りを確認するように踊ってるよね? あれが振り付けなんだよ。ダンスミュージックのリズムやメロディに合わせながら、ダンスのステップや技なんかを組み立てて一連の流れを作っていくんだ。動きを際立ったビートや効果音に合わせて踊ったり、他にも歌詞の内容に合わせた動きを振り付けに取り入れることもあるんだよ」

 言われて、十希の母――若葉の方に視線を移す。
 若葉が振り付けを見せると、それを真似するように雅也たちが動きを確認していく。由良理には、その一つ一つの振りがひどく難しく思えた。そして暫くすると、今度は音楽に合わせて振りを確認する作業へと入った。

「見ててね、みんなー」

 若葉はリモコンを操作すると、振り付けを行なった部分の音楽を流し始める。
 先ずは若葉がお手本を見せ、続いて雅也たちがそれを繰り返す。すると驚くことに、つい先ほどまで一つ一つ単体であったはずの動作が、まるで線を結んだかのように一つにまとまり、滑らかな動きを演出する。

「わあぁ……」

 嘆息していた。
 気付けば、時間はあっという間に過ぎており、由良理がここに着てからすでに二時間が経過していた。そして、上級クラスのダンスレッスンは終了を迎えた。

「雅也」

 由良理の横を通り抜け、階段を上ろうとする雅也に声をかける。

「なんだよ」
「雅也ってダンス上手いのね」

 すると、雅也は少しだけ頬を朱に染めて「うるさい」と答え、階段をのしのしと上がっていった。

 ダンスのレッスンが終了したあとも、スタジオ内には残って練習する人たちの姿があった。振り付けの確認はもちろん、少しでも技術を向上させようと努力しているのだろう。

「こんばんは」

 横から声が聞こえて振り向くと、そこには十希と若葉が立っていた。

「こ、こんばんは!」

 お辞儀する。

「十希のお友達らしいわね、名前は何ていうの?」

 友達、という言葉に少し嬉しく思いながらも、由良理は自己紹介をした。

「えっと、神楽坂中学三年の、御剣由良理と言います……」

 畏まった言い方に若葉は微笑を浮かべた。

「由良理ちゃんね、十希がいつも学校でお世話になってます」
「えっ、いや、そんなことは――」

 まったくないです、と続けようとして、言葉を止めた。十希が由良理の方を笑顔で見ているからである。
 なんで笑顔なんですか、と問いかけたくなる。

「これからも十希と仲良くしてあげてね」
「は、はあ……」

 視線を若葉に戻し、曖昧に返事をした。
 仲良くしたいのは山々だが、それには先ず、十希の前で石化してしまう体質を改善しなければならない。といっても、昨日の今日でそれ自体、かなり改善されたような気がする。今だって、すぐそばには妖精のような笑顔を自分に向ける十希が立っている。昨日の自分であれば、たぶん気絶していてもおかしくない状況だ。

 しかし、今は違う。今現在自分の目の前に佇む彼の姿は、学校にいる時のそれとはまた異なる雰囲気を持っている。
 それはとても魅力的だ。
 ただ恐らくは、その変化に自分自身がまだついていけていないのだろう、と思う。明日の朝には、きっと気絶したまま寝坊するに違いない。うん、きっとそうだ。
 由良理は苦々しく笑った。

「感想聞かせて欲しいな」
「か、感想……ですか?」

 十希の問いに、由良理は聞き返した。

「うん。どうだった?」
 少し間を置いて、由良理は口を開いた。

「とても――楽しそうでした」

 これは、素直な感想だった。実際、十希や雅也が楽しそうに踊っている姿を見ていると、自分自身もいつの間にか楽しくなっているのを肌で感じていた。身体は自然と音楽に合わせてリズムを取り、みんなが踊る動作を目で追っていたのだ。

「よかった~」

 十希が安堵のため息を吐いた。

「よかったって、何が……」
「無理矢理見学させちゃったから、もしつまらなかったらどうしようかと思って……」

 言われて、由良理は胸が弾んだ。
 十希が自分のことを心配してくれていたのが、とても嬉しかったのだ。今日だけで、何度胸がドキドキしただろう。胸の高鳴りは終始止むことを知らず、ひたすら波打っている。その鼓動は、十希にさえもわかってしまうのでないだろうか。

 恥ずかしくなり黙って俯いていると、三階から雅也が下りてきた。

「お前、まだいたの?」
 余計なお世話だ、と思う。
 横目に雅也の姿を確認し、眉を寄せた。

「そうだ!」

 十希の声が木霊する。

「御剣さん、もしよかったらダンス習ってみない?」
「――へっ?」

 呆気に取られた。まさか、十希の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。それは雅也も同じだったらしく、大口を開けて由良理と十希を交互に見やった。

「わ、わたしが、ダンス……?」
「うん! どうかな?」

 屈託のない笑顔で近寄られ、ドギマギ状態に陥っていた由良理に、冷静な判断など出来なかった。だからその時、由良理は頷いてしまった。十希に見つめられると、嫌だなんて答えることはできなかったのだ。

 こうして、由良理はジャズダンスを習うことになってしまった。もっとも、その心はひどく不純で、ただ単に十希とお近づきになれるということがその大半を占めていたのは隠されざる事実であった。

 その夜、由良理はベッドに仰向けになり、一人でほくそ笑んでいた。他人が見たら気色悪いことこの上ないであろうそのにやけ面を、部屋をノックせずに入ってきた妹に見られてしまったのは言うまでもない。