噂

社員旅行も終わり。また忙しい仕事が待っていたが、拓也のやっている部品の生産がやがて生産中止になるらしい。拓也達は、リストラでもあるのかなと噂していた。
「この、弁当屋の弁当はあまり、おいしくないな」
拓也は、昼休みの食事時間が唯一の楽しみである。そういう意味では、会社に食堂がある、社員食堂にはいろんな思い出があった。そんな、愚痴が言いたくなってから数週間が経過して、拓也は弁当の替わりに、パンをコンビニで牛乳と一緒に持ってくるようになり、ロッカー室に入れとくのは、腐るかもしれないので、エアコンの効いた食堂のテーブルに置いていた。
「これっ誰のパン」早苗は言った。
毎朝・食堂の清掃を仕事を始める前にやるようになった女性陣は、毎日、置かれているパンは誰のと。それも、毎日同じチョコレートパンは必ず買ってきてある。すぐさま、犯人は拓也だと、わかった。拓也は、久しぶりに事務所に用事があり入り口を開けた。そこには、美咲早苗が一人机に座って仕事していた。
「藤原さん、チョコレートパンばかり食べてると太るよ」「いや、会社の弁当よりいいよ」早苗と拓也は、入社してから、やがて一年。2人は、初めて会話らしい話を交わした。
「美咲さん、朝礼で二等級に給料の査定が上がったね」「俺は、学歴もないし、退職するまで一等級かな」「会社なんて、実力主義よ、がんばれ」
その日、拓也は珍しく‪2時‬間の残業をやっていた。もう、‪7時‬だと外は暗くなっていた。拓也は会社の玄関の前の駐車場へ向かっていた。その時。拓也の第六感、いや、テレバシーなのか。工場の横から誰かの足音が聞こえていた。突然、拓也の口から‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
「美咲さん、音楽好き」そう、聞こえてきた足音は早苗であった。
早苗も残業していたのだ、帰りが同じ時間になったのも偶然であった。拓也の口から、まったく、意識してない言葉を発した。
「これっ・リックマーティンの・アチチ・郷ひろみよりいいよ」
拓也は、車の中にある、音楽CDを探していた。早苗は、あっけにとられて、拓也の車のドアに立っていた。
「これ、あげるよ」「ありがとう」早苗は、この・CDはどうでもよかった。拓也の口から、郷ひろみの言葉を聞くとは、思ってもいなかった。早苗は、ひろみの大ファンなのである。もう、必ず・コンサートには行くし、ディナーショーだって足を運ぶ熱の入れ方であった。そうとも知らない、拓也であった。拓也は、すぐ、車のドアを閉め、帰って言った。思わぬ・拓也からの・プレゼントに早苗は、うれしいというか、少し・拓也の事が、気になりはじめたのであった。翌日、拓也が仕事をしていると、早苗が横を通ってきた。拓也は声をかけた。
「昨日の・CD、‪郷ひろみ‬より、よかったでしょう」‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
早苗は、「でも、私・ひろみの・ファン・でも、全部の曲がよかったよ」拓也は、カラオケで、ひろみの歌は得意としていた。レパートリーでもあった。「何が一番好き、俺は、マイレディ」「私は、バラード」しかし、拓也は、この後、何も行動を起こさなく、やがて、3ヶ月が経とうとしていた。
「おい拓也、品質の仕事をやらないか」
年配の長居さんが、声をかけてきた。拓也はこれまで、工員のような仕事しか経験がなかった。といっても、現場での製品の検査であった。しかし、一応・身分は品質管理部である。工場にとっては、命の部署である。拓也は朝から夜まで自分で、フォークリフトを使って製品を降ろし検査をやっていた。一日の仕事が終わると、その日の日報を事務所にいる早苗に提出する。拓也は毎日、早苗と顔を合わせ、会話するようになった。
「それじゃ、帰ります」
「えっ、もう帰るの」
拓也は、‪5時‬の時報と共に早苗に日報を渡し退社していた、‬‬‬これからは、閉店まで、パチンコである。今日は、朝から事務所に、早苗がひとりいた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
「拓ちゃん、焼肉行かない」
「じゃあ、今度、招待するよ」
「うん・ありがとう」
「じゃ、来週の土曜日に」
「OK」
拓也は、長居さんからいろいろ仕事を同行して教えてもらっていた。毎日、残業の日々が続いていた。今日は、早苗さんとの約束の日である。朝から、事務の女性が休んでいた。お父さんが亡くなったそうである。
拓也は、‪4時頃‬、早苗に用事を作って事務所にやってきた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
「早苗さん、今日大丈夫」
「今日は、佐藤さんのお父さんがなくなってたいへん。私、凄く行きたいけども今日は駄目。キャンセル」
拓也は、葬式じゃ仕方がない。しかし、この時、ふたりの運命は、変わっていたかもしれない。
数日後
「拓ちゃん、最近、どうしたの」
早苗は拓也に尋ねた、
「最近、仕事が面白いんだ」
「がんばれ」
よく、会話をしたり、お互い、誘いもかけるのだが、一向に恋は進展しそうになかった。しかし、拓也は、生まれてはじめての、やりがいというものを見つけたようであった。
世間では、携帯電話なるものが、いろいろ姿を見せ始めていた。拓也も、仕事上で必要になっている。電話と、メール機能がついた機種を選んで買ってきた。早速、やり始めたのは出会いサイトであった。この頃は、現代に比べたら純粋に会話が成り立ってもいた。拓也には、彼女はいない。メールといっても、100文字数での会話のやりとりであった。拓也は、会社では、パソコンを使って、同僚の女性陣達との会話を楽しんでいて、メールの会話は慣れていた。そんな中で、ある日、携帯の電波を通して、大阪にいる、理佳という女性と知り合った。
なんでも、沖縄の海でのスキューバーダイビングが趣味という事で、拓也は苦労しながら文章を打ち込んでいた。最初の頃は、毎日のメールのやりとりがあったが、数ヶ月続いて、だんだん返事が来るのが遅くなってきてやがて、メール交際も終わった。そんな、矢先に会社の女性から、パソコンでの・ポストペットなる・メールでの楽しみを教えられて、ある日。なかなか、相手の異性から誘ってくるのは至難の技であったが、福岡に住んでいる、23歳の看護婦さんから、よかったら、メル友になって下さいとなったのだ。拓也は、毎日・原稿用紙・5枚程度に書いてくる文章の長さに圧倒されていた。
会社でも、拓也のメール病は有名であった。数日経って、拓也は会社の事務所にやってきた。そこには、早苗がいた。パソコンの画面を叩いている早苗の近くにやってきた。
「拓ちゃん」
「そのうち、パソコンから、彼女がやってくるかもね」
「うん」
拓也は、毎日、早苗を恋愛相手に想像した事はなかった。仕事の方は、順調で出世には縁がなかったが、会社の顔として外回りでの仕事が多かった。メル友相手とも、携帯アドレスを交換したり楽しんでいたが、拓也には、ただの、話相手という意識しかなかった。最近、会社で、早苗の姿をみなくなった。殆ど、社内にはいないので見当たらないのか、そこへ、同じ部署の藤森さんがやってきた。
「最近、美咲さん見ないですね」
「あ、風邪で3日ばかり休んでいるよ」
拓也は心配になってきた。
仕事で移動中に、早苗に電話してみた。
「早苗さん、風邪はこじらせると、やばいから気をつけて」
「うん」
と、一言電話した拓也であった。その後、早苗の風邪は悪化して、3ヶ月の入院となった。
しかし、拓也は、連日。出張が続いて、見舞いにいけないでいた。いそがしさから、やがて、看護婦さんとの、メールもやめていた。早苗が退院してきても、拓也は今度は、長期に渡る出張で会社には、殆ど姿をみせなかった。そんな折、藤森さん達と、飲み会に誘われた。いきなり、話は、早苗さんの事になった。
「なんでも、早苗さん、会社の人と結納をかわしたとか」
「そうなんですか」
「拓也も、がんばらないとな」
この時、拓也は、そうかと感じただけであった。翌日、早苗を見つけたが、声はかけなかった。数日後、拓也は事務所の外でバッタリ顔を合わせた。とっさに、拓也の口から、美咲さん
「携帯の番号を教えて」
「うん、いいよ、でも、変な電話しないでね」
「それは、わかってるよ」
二人は、番号を交換した。
拓也は、結納は、ただの、噂だったのかなあ」
早苗に、尋ねたりはしないでいた。