その日の夕食のこと――

「え? 今、何と言ったのだ?」

イレーネと2人で向かい合わせに食事をしていたルシアンのフォークを持つ手が止まった。

「はい、ルシアン様。どうか私には専属のメイドの方を付けないで下さいと言いました」

そしてイレーネは切り分けた肉を口に運び、ニコリと笑みを浮かべる。

「いや、しかしそれでは色々と不便だろう? 君を手伝うメイドは必要だと思うが?」

現にルシアンのもとには、自分をイレーネの専属メイドにして欲しいと訴え出てきたメイドたちが後を絶たなかった。けれどもルシアンはイレーネ自身に選ばせようと考えていたのだ。

「いいえ、私のことなら大丈夫です。今まで自分のことは何でも1人でしてきましたので。第一私は祖父の介護に、メイドとして2年働いていた経験もあります。逆に私に使えるメイドの方たちに気を使ってしまいますわ」

「だが、君は俺の……」

「はい、1年間という期間限定の雇われ契約妻です。そんな私に専属メイドは分不相応です。それにあまりにも密接だと、この結婚の秘密がバレてしまう可能性もあるかもしれません」

「う……た、確かにその可能性はあるが……だが、それでも……」

すると、今までに見せたことのないしんみりとした表情を浮かべるイレーネ。

「私は1年でこの屋敷を去る身です。あまり親密な関係になると……別れ難くなりますから」

「え……?」

その言葉にドキリとするルシアン。

(まさか……今の言葉は俺に向けて言ってるのか?)

しかし、イレーネの口から出てきた言葉は予想外の物だった。

「やはり、専属メイドの方がつけば親密な関係になりますよね? お別れする時寂しくなるではありませんか?」

「は? ……もしかして、別れ難いとは……自分の専属メイドがついた場合のことを言ってるのか?」

「え? ええ、そうですけど?」

頷くイレーネ。

「あ、ああ……そうか、なるほどね……」

思わずルシアンの声が上ずる。

(俺は一体何をバカなことを考えていたんだ?)

ルシアンは動揺を隠すために、ワイングラスに手を伸ばして一気飲みした。

「分かった。イレーネ嬢の言う通りにしよう。君に専属メイドはつけない。それでいいな?」

いくら給金を支払うとは言え、この離婚前提の契約結婚でイレーネの人生を狂わせてしまうかもしれない……そう考えると、ルシアンは言うことを聞かざるを得なかった。

「ご理解、頂きありがとうございます。それと、もう一つお願いがあります」

「お願い?」

「はい、どうぞこれからは私のことをイレーネ嬢ではなく、イレーネとお呼び下さい。一応私たちは書類上結婚することになるわけですよね?」

「そうか……確かにいつまでもイレーネ嬢と呼ぶのはまずいかもしれないな。既に使用人たち全員に君は俺の婚約者ということは知れ渡ったのだからな」

「では、練習してみましょうか?」

「何?」

思いがけない言葉にルシアンは固まる。

「練習です。今から不自然の無いように私の名前を呼んでみて下さい。何事も予行練習は必要ですから。さ、どうぞ」

「……イ、イレーネ……」

「う〜ん……まだ表情も言葉もぎこちないですね?」

「そ、そうだろうか? ぎこちないか?」

生真面目なルシアンはまともに悩む。

「ええ。まだ不自然さが残ります。 もう一度お願い致します」

「イレーネ……」

「さっきよりは良くなりましたが……笑顔で言ってみましょう」

「何? まだやるのか!」

「ええ、私を婚約者としてお祖父様に紹介されるのですよね?」

「う! た、確かにそうだな……イレーネ……これでどうだ?」

「もう少し口角を上げてみて下さい。こんなふうに」

こうしてルシアンはイレーネに名前を呼ぶ練習を繰り返しさせられた。

この様子を使用人たちに、微笑ましい表情で見られていたことにも気づかず……。