イレーネの古びた屋敷に美味しそうなクッキーの香りが漂い始めた頃……

「イレーネ、頼まれていた家具を全てリビングに移動しておいたよ」

作業を終えたルノーが台所にいるイレーネの元へやってきた。

「まぁ、ありがとう。ルノー。お仕事もあったのに、力仕事までさせてしまって。でも丁度良かったわ。今クッキーが焼けた頃なのよ。」

「うん、美味しそうな匂いだな……荷運びはそれほど大変なことじゃ無かったさ。何しろ、この屋敷には家財道具はもう殆どなかったからな。昔は……もっと色々な物があったのに」

しんみりした表情を浮かべるルノー。

「ルノー。あなたがそんな顔すること無いわ。確かにこの屋敷にはかつて、色々な物に溢れていたけど……。でもかえって思い出の品を残してここを去る方が寂しさを感じるじゃない?」

「そうか、やっぱり寂しさを感じるんだな? だったら『デリア』に行くのは考え直せよ。俺の実家で暮らそう。それで……モゴッ!」

途中でルノーの言葉は塞がれる。何故ならイレーネが焼き上がったクッキーをルノーの口の中に押し込んだからだ。驚いて目を見開くルノーにイレーネは笑う。

「はいはい、話はそこまでよ。どう? クッキーは美味しい?」

口の中にクッキーが詰まったルノーは返事をすることが出来ずに、コクコクと頷く。

「フフフ……それなら良かった。それでさっきの話だけど、答えは『いいえ』よ。私はマイスター伯爵様と結婚するの。これはもう決定事項よ。第一婚約者がいる幼馴染の家で暮らせるはずはないでしょう?」

「だから、まだ彼女は婚約者じゃないって! 上司が勝手に自分の娘を俺の婚約者にしようとしているだけなんだよ!」

クッキーをゴクンと飲んだルノーが反論する。

「そう? でも少なくとも彼女はそんな風には思っていないようだし、何より2人はお似合いに見えるわ」

「お、お似合い……」

その言葉にショックを受けるルノー。

「とにかく、私がマイスター伯爵と結婚することは決定事項なの。この屋敷を売って借金を返すこともね。だから信頼するルノーにお願いしているのよ」

イレーネはじっとルノーを見つめる。

「う……わ、分かったよ! 分かったから、そんな目で見るなって。全く……仕方ないな。俺の知り合いの不動産屋を当たって、できるだけ高く売却してもらえるように頼んでやるよ」

髪をかきあげながらため息をつく、ルノー。

「本当? ありがとう! 流石はルノーね。頼りになるわ。はい、それじゃこのクッキーお土産として持っていって」

イレーネは紙袋にクッキーを入れると、ルノーに押し付けた。

「……ありがとう、それで……いつ『デリア』に戻るんだ?」

「ええ、明日には戻るつもりよ。思ったよりも片付けが早く終わったから。それにあなたが屋敷の売却手続きを引き受けてくれたのですもの」

「な、何だって!? あ、明日戻るだって!!」

「ええ、ルノーには本当に感謝しているわ。あ、勿論タダでとは言わないから。無事に売却が終わったら、依頼料はきちんとお支払するわ」

イレーネはにっこり微笑んだ。

「あ、あははははは……」

もはや、ルノーは笑うことしか出来なかった。

(何てことだ! 俺が売却処分に手を貸さなければ……イレーネはもっと長くこの屋敷にとどまってくれていたかもしれないっていうのに……!)

ルノーは売却処分を引き受けたことを早くも後悔するのだった――