私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

 約束の二日が経ち、奏澄とアントーニオはレオナルドの元へ向かっていた。勿論、メイズも共に。
 色々あったので、修理品を引き取るだけだし来なくて大丈夫だとやんわり伝えたのだが、当然のように却下された。
 気まずい時間を過ごしながらも、三人はルーナブルーへ到着した。

「こんにちは」

 中に人影が見えたので、奏澄は一声かけて、そのまま扉を開けて中へと入る。続いて、アントーニオとメイズが入り、メイズは前回と同じく入口近くで立ち止まった。

「ああ、いらっしゃい」

 答えたレオナルドは、店内の掃除をしていた。

「……あれ?」

 違和感を覚えて、奏澄は店内を見回した。陳列してあった商品が、一つも無い。

「頼まれてた品ならそこね。金貰ってないし、納品書無いけどいいよな」
「え、あ、はい。あの、お店どうしたんですか?」
「閉めるから、片付けた」
「え!?」

 奏澄は驚いて大きな声を上げた。アントーニオも目を丸くしている。

「どうして」

 このタイミングで閉店、と言われれば、奏澄が無関係だとは思えない。責任を感じてしまい、焦ったように奏澄が尋ねると、レオナルドは平然と答えた。

「あんたについて行こうかと思って」

 言われた言葉がすぐには飲み込めず、奏澄は目が点になった。

「荷物もまとめてある。工房の管理も職人仲間に頼んであるし、今日にでも出れるぜ」
「ちょ、ちょっと、待ってください。展開が早すぎて、何がなんだか」

 こめかみに指を当てる奏澄を、おかしそうに見るレオナルド。

「元の世界に帰るための旅なんだろ? あんたが帰るところを、見たいと思った」
「……それは」
「別に、俺が向こうに行けるとは思ってないよ。あわよくば、覗けないかなくらいには思ってるけど」

 冗談めかして笑うレオナルドに、奏澄は笑い返せなかった。
 母親の故郷を、一目見たい。それが理由だとしたら、奏澄には断れない。
 
 いや。断れない、のではない。断りたくない。叶えたい。

「わかりました。歓迎します、レオナルドさん」

 しっかりと言い切って、奏澄は手を差し出した。

 これが同情でないとは、言い切れない。それでも、流されて、受け入れるわけではない。
 彼の母親に対する想いを。あの時の、震えた声を。縋る手を。覚えている。
 独りの怖さを、知っている。ここに彼を独りでいさせたくない。
 一歩踏み出すきっかけを、手助けできるのなら。

 奏澄の表情に、どこか眩しそうにしながら、レオナルドは手を握り返した。

「おい」
「いいじゃない。手先の器用な人は重宝するでしょ。船の修理も頼めるかも」

 レオナルドと握手を交わしながら、口を挟んだメイズに答える奏澄。

「自分で言うのも何だけど、結構便利だと思うぜ俺」

 レオナルドの台詞に、メイズは顔を歪めた。心情的には断りたいが、正当な理由が見当たらない、といったところか。

「そんなに心配しなくても、人の女に手を出すほど野暮じゃないつもりだけど」

 びし、と何かに亀裂が入ったような音が聞こえた。気がする。

「……そういうのじゃない」
「ああ、違うんだ。どっちかなーとは思ってたんだ。露店に来た時から、恋人っぽくはなかったもんな。じゃ、何も気にすることないわけだ」

 唸るように低く答えたメイズに、レオナルドは挑発するような調子で返した。
 その台詞の中に不穏な言葉が聞こえた気がして、奏澄は首を傾げた。
 くるりと奏澄に顔を向け、レオナルドが問いかける。

「あんたの船、恋愛禁止?」
「え? いや、特には。常識の範囲内で」
「そ。良かった」

 ――何が良かった……?

 何故そんなことを確認したのか。疑問符だらけの奏澄に対して、メイズの方は明らかに苛立っている。可哀そうに間に挟まれているアントーニオは何も言えずに冷や汗をかいている。

「危害を加えるなら容赦しないと、警告はしてある」
「危害なんか加えないさ。ちょっかいは出すけど」

 びし、という音が、今度こそ聞こえた。

「カスミ、こいつやめとけ」
「まぁまぁ。ラコットさんと似たようなもんだって」

 宥めながらも、奏澄もほんの僅かに後悔していた。ラコットとは違う、ということは薄々わかっている。
 おそらくレオナルドの場合は、奏澄に母親を重ねているのだ。しかし、それは奏澄が同胞だと気づいたからで、初対面からそうだったわけではない。つまり、顔貌や空気がサクラと似ている、というわけではないのだ。
 ということは、すぐにわかるだろう。全く別の人間だということも、その気持ちが一過性でしかないことも。
 だから大した問題にはならない、と奏澄は結論づけた。
 この時は本当に、そう思っていた。



*~*~*



「新しい仲間のレオナルドさんです。皆さん、よろしくお願いします」

 出航前、コバルト号の上甲板にて。奏澄はレオナルドを乗組員たちへ紹介した。
 メイズは文句ありげだったが、船長の決定には逆らえないので、レオナルドは無事たんぽぽ海賊団の仲間入りを果たした。
 ほとんどの乗組員は奏澄とレオナルドの間にあったことを知らないので、奏澄の連れてきた新入りということで、何の疑念も無く歓迎した。
 ざわざわとした出航準備の音を聞きながら、奏澄はレオナルドに向き直った。
 
「夜に歓迎会をする予定なので、自己紹介とかはそこで改めて」
「ああ、どーも」

 返事をして、まじまじと奏澄を見るレオナルドに、奏澄は居心地悪そうにした。

「何か?」
「いや、あんた本当に船長だったんだなーと」
「何だと思ってたんですか」

 ふくれる奏澄に、レオナルドは手を伸ばして髪をくしゃりと撫でた。

「拗ねるなよ」

 その声色に、手の感触に、奏澄は一瞬動きを止めた。 

「そうだ。なぁ、あとで船の中案内してくんない?」
「それはオレが案内してやるよ!」

 突如割って入った声に、奏澄は驚いた顔でその人物の名を呼んだ。

「ライアー」
「男同士の方が都合がいいだろ。わざわざ()()がすることないし」

 圧を感じるライアーの態度は気になるが、正直助かったので奏澄はほっとした。

「うん。ありがとう、ライアー。お願いできる?」
「任せて。いろいろ、しっかり、教えておくから」

 やけに念を押すような言い方をするライアーに、レオナルドはさして興味もなさそうに「ふぅん」と漏らした。

「なんだ、船では普通に砕けて話してるんだ。なら俺もそうしてよ。名前もみんなレオって呼んでたし」
「船では、というか、相手によりけりで」
「俺がその方が嬉しいんだけど。だめ?」

 駄目か、と問われれば、駄目だと言う理由も無い。
 ずるい言い方だ、と思いながら奏澄は溜息を吐いた。

「わかった。わかったから、今はライアーの指示に従って。()()
「よーし、オレが船の仕事を教えてやるからなー!」

 自分よりも身長の高いレオナルドを引きずっていくライアーに、奏澄は苦笑しながら手を振った。

「またえらいクセの強そうな美形だね」
「マリ~……!」

 レオナルドがいなくなるのを見計らったかのように、マリーが現れた。

「なんかあったらしい、ということはエマとローズから聞いてるけど。詳しく聞いた方がいい?」
「夜に是非……!」
「オッケー」

 マリー自身も興味があるのだろう、楽しげに笑った彼女に、奏澄も自然と笑みを返した。
 大丈夫だ。今の自分には、頼れる仲間たちがいる。一人で不安を抱えることも、一人で立ち向かうこともない。
 自分の決断を、間違っていない、と思わせてくれる人たちがいる。
 
「よしっ!」

 顔を上げて、奏澄も自分の仕事に取りかかった。
 船は無事に出航し、レオナルドの歓迎会もつつがなく終了した。というのも、ライアーを中心に一部の男性陣ががっちりとレオナルドを捕まえていたため、奏澄の方に来ることが無かったのだ。来れなかった、という方が正しい。
 酔い潰されるのではないかと奏澄は遠目から心配していたが、レオナルドも我が強いので、自分の意志はしっかり通していた。朝まで飲みそうな面子に引きずられることもなく、日付も変わる頃には部屋に戻ったようだ。レオナルドの部屋は相部屋なので、そのままゆっくり眠れたかどうかはわからないが。
 奏澄はマリーに愚痴をこぼしたり、ヴェネリーアで仕入れた酒の味見に付き合ったりしながら、楽しい時間を過ごした。

 しかし当然それでレオナルドが諦めるはずもなく。

 レオナルドは事あるごとにカスミに話しかけてきた。そしてそれを有志の乗組員が時々邪魔をする。
 何かを察知したらしいライアーと、それを聞いた数名の乗組員は「レオナルドをカスミに近づけない方がいい」と判断したようだった。しかし大半は「いい大人同士なのだから、行き過ぎた行為さえなければ当人たちの問題」という意見でいる。
 奏澄はもちろん後者に賛成なので、レオナルドとは適度に仲間の距離をたもっている。近づき過ぎはしないが、過度に避けたりもしない。
 メイズはと言えば、たまに視線を感じることはあるが、奏澄の言葉を気にしているのか何も言ってくることはない。奏澄の裁量に任せているのだろう。多少の信用は得られたのだろうか、と奏澄は少し安心した。

 この日も、上甲板で一休憩していた奏澄に、いつものようにレオナルドが声をかけた。

「カスミ。ちょっといいか?」
「レオ。珍しいね、髪下ろしてるの?」
「髪紐が切れちまって」

 いつもは後ろで一つに括られている黒の長髪が、今は背中に広がっていた。

「髪紐あるよ。貸そうか?」
「それもいいんだけどさ、良かったら簪の挿し方教えてくんない?」
「いいけど……レオが挿すの?」
「男が挿したらだめなやつ?」
「あ、ううん! そうじゃなくて。レオ、髪さらっさらだから……できるかなぁ」

 簪は癖毛の方が挿しやすい。細い髪や直毛は、髪がまとまらないのだ。
 レオナルドの髪を眺めながら唸る奏澄だったが、レオナルドは別段気にした様子もなく。

「ま、だめならだめで。やるだけやってみてよ」
「いいよ。じゃ、その辺座ってて。道具取ってくる」
「部屋行こうか?」
「それは無し」

 ちぇ、と軽く笑うレオナルドに苦笑を返して、奏澄は自室に向かった。
 軽口を叩いただけで、レオナルドも本気ではないだろう。よく話しかけてはくるが、強引な素振りは一度も無いし、過度なスキンシップも無い。奏澄の方も、二人きりにはならないようにしている。
 メイズはまるで奏澄が異性に対して全くの無頓着であるかのように言ってくるが、その実そんなことはない。レオナルドの件に関わらず、奏澄は以前から最低限の注意は払っている。それをレオナルドにも適応しているだけで、特別厳しくしているわけでも、逆に甘やかしているわけでもない。
 その最低限の基準が、メイズにとっては低すぎるのか、或いは偶然甘い場面ばかりが目に入っているのかはわからないが。

 鏡や櫛などを持って上甲板に戻ると、レオナルドが適当な木箱を椅子代わりに座っていた。

「お待たせ」

 一声かけて、奏澄は後ろに立った。レオナルドに鏡を二枚渡して、結っている間はそれを見ているように告げる。見づらくはあるが、これで後ろの手元も見えるはずだ。

「簪は?」
「これ」

 渡された簪は、シンプルな木製のものだった。一瞬サクラの簪を渡されたらと身構えた奏澄はほっとした。さすがに形見を扱うには自信が無い。

「じゃぁちょっと失礼して」

 レオナルドの髪を手に取り、軽く梳きながら一つの束にまとめ、捻じっていく。

「痛かったら言ってね」

 自分で挿す時は全く気にしないが、簪はかなりきつめに捻じり上げるし、挿す時も頭皮に当たる。下手をすると刺さる。そうでないと、少しでも緩めると簡単に解けてしまうからだ。
 人の髪をいじることなどあまりないので、どきどきしながら仕上げていく。

「よし、これでいったん……」

 まとまった、と思ったそばから、するりとほつれてしまう。

「うーん、やっぱりさらさらすぎる」
「難しい?」
「香油とかつけたらいけるんじゃないかな……。クリーム系のが良さそうだけど、何か持ってる?」
「いや。あんま髪とか気にしないし」
「手入れしなくてこれなんだ……羨ましい」

 羨望の眼差しで、奏澄はレオナルドの髪をすくった。どうして無頓着な人ほど高級天然素材を有しているのか。神は無慈悲だ。
 さらさらと流れる髪を手にして考える。奏澄の香油を使ってもいいが、それでもあまりしっかりまとまるとは思えない。今後レオナルドが自分でやるのだとしたら、本人が持っていない物を使うのもどうだろうか。

「ちょっと、変則的なことしてもいい?」
「お好きにどうぞ」

 許可を得たので、奏澄はレオナルドの髪を編んでいく。そのままだとするすると解けてしまう髪を編み込むことでなるべく束にし、髪紐で留めてぐるりと巻いて団子状にする。その根元に、簪を挿した。

「お母さんのやり方とは違うだろうけど……こういう感じなら、挿せると思うよ」

 今回は奏澄がやったが、レオナルド自身がやるならサクラの簪を使うのも有りだろう。もし今後簪を身につけたいのなら、結い方に拘るより、使える方法を提示した方がいい。

「……ああ。ありがとな」

 鏡の中のそれを、レオナルドは目を細めて見つめた。
 ひとまず気に入ってはいそうだ、と奏澄は胸を撫で下ろした。しかし、余計だった気がしなくもない。
 そもそもレオナルドは簪を販売していた。それを櫛のように挿すとも。結い方に拘らず、とりあえず挿せれば良いのなら、別に奏澄がやる必要は無かったのではないか。

「なぁ、カスミの髪でやってみてもいい?」
「へ!? な、なんで!?」
「俺の髪でできないなら、人の髪でやってみようと思って。俺の店でも売ってたし、客に説明できた方がいいからさ」
「ああ、なるほど」

 奏澄はあっさりと納得した。簪屋の店員は大抵他人の髪が結える。そこまで考えているかはわからないが、もし簪を布教させるなら、結えた方がいいだろう。
 だが、髪を触るという行為は、果たして簡単に許していいのかどうか。
 今までならこのくらいすぐ了承していたと思われるが、メイズから受けた注意もある。奏澄の脳内ジャッジが始まった。

 感覚的には、異性に髪を触れさせるというのはそれなりに特別な行為だと思う。美容院では男性に担当してもらうことも珍しくないが、あれはそういう職業だからだ。それを言い出せば、医者は体のどこにでも触る、ということになってしまう。
 では仲間に触らせるのはどうか、と言えば。奏澄を子ども扱いして頭を撫でる乗組員は一定数いる。ぐしゃぐしゃ、という効果音が似合うやり方だが。
 そして奏澄はライアーに髪をいじってもらったことがある。これは大きい。ライアーが良くてレオナルドが駄目な理由は何か、と問われたら、答えられない。
 厳密には、奏澄に好意を持っている可能性があるから、という理由はあるものの、確定ではないし、拒む理由にはしづらい。
 脳内ジャッジは「まぁいっか」の方へ軍配が上がった。

「いいよ。じゃぁ交代しよっか」

 奏澄は木箱に腰かけ、レオナルドが奏澄の後ろに立った。

「一応鏡見ておくね」

 奏澄は鏡を手にして、後ろ頭が見えるようにした。

「んじゃ失礼して」

 レオナルドの大きな手が、奏澄の髪をすくい上げた。
 するすると髪をまとめていく指は細く長く、繊細な作業に向いていそうだ。

「ほい。こんな感じ?」
「はや! ああうん、合ってる。さすが、器用だね」

 さすがは職人だと奏澄は感嘆した。一度やって見せただけで覚えて実践できるとは。
 ライアーもなかなかに器用だし、二人は実は話が合うのではないか、などと余計なことを思っていると。

 ちり、とうなじのあたりに何かが走った。

「……?」
「ん? 何、どうかした?」
「……いや、何も」

 思わずレオナルドを振り返ったが、特に変わりない様子だった。
 もやついた気持ちのまま簪を外そうとすると、レオナルドが制止した。

「せっかくなんだし、そのままつけときなよ」
「だってこれ売り物でしょ? 返すよ」
「やるよ。そのつもりで使ったんだし」

 レオナルドは微笑んでいるが、奏澄は困ったように眉を下げ、簪を引き抜いた。

「あ」
「ごめんね。知らないとは思うんだけど、簪を贈るのって、特別な意味があるから。受け取れないよ」

 レオナルドの手に返した簪は、海の色をしたとんぼ玉が付いていた。
 波間に光が反射するように、ちらちらと輝きが見える。硝子の中に粉か何か入っているのだろう。
 奏澄は目を伏せてそれを見た。
 綺麗だ。これが友達からのプレゼントだったなら、喜んで受け取っただろう。
 簪が特別な意味を持っていたのは昔のことで、現代では必ずしもそうとは限らない。まして、この世界では誰も知るはずもない。それでも、レオナルドから受け取るわけにはいかないと思った。

「ちぇ。プレゼント作戦は失敗か」
「気持ちだけ受け取っておくね。ありがとう」

 寂しそうなレオナルドに、奏澄は胸が痛むのを感じた。
 人の厚意を無下にするような行為は、奏澄にとっては負担だ。それでも、ここの線引きはしっかりしておきたい。
 この簪をつけて、メイズには会えないと思うから。

 レオナルドが他の乗組員に呼ばれたので、奏澄は道具を片付けに部屋に戻った。
 一人になって、ふと思い出し、うなじのあたりをさする。

 あの感覚は、どこかで。

 しかしほんの一瞬だったこともあり、気のせいだったかもしれない、と奏澄はそのことをすぐに忘れた。
 第六感を馬鹿にしてはいけないと、常々思っていたはずなのに。
 次の島での買い出しリストを作るため、奏澄は倉庫にある備品の在庫をチェックしていた。基本的に備品に関しては商会の管轄だが、奏澄も簡単な手伝い程度ならしている。
 よく使う倉庫から順に確認して、最後の倉庫のドアの前に立った時、『使用中』の札がかけられているのを目にして、奏澄は少しだけ迷った。
 この札がかかっているということは、今中にレオナルドがいる。

 レオナルドの部屋は相部屋で、自身の作業スペースが無い。船内にはヴェネリーアにあったような立派な工房も無い。だが工具などを持ち込めば、必然的に場所を取る。そのため、レオナルドは使用頻度の低い倉庫の一角を改造して、そこを作業場にしていた。当人いわく、別に人の出入りがあっても気にはしないらしいが、一応中に人がいることを知らせるために札をかけるルールにしたのだった。

 集中しているかもしれないし、できれば後にした方がいいのだろうが、いつ終わるのかもわからない。ここだけ残しておくのも後から忘れる原因になる。そう考えた奏澄は、遠慮がちにドアをノックした。

「どーぞー」

 音は聞こえたらしい。返事を聞いてから奏澄はそっとドアを開けて、中にいるレオナルドに声をかけた。

「作業中にごめんね。ちょっとだけ備品の確認したいんだけど、今平気? あとの方がいい?」
「別に今でいいよ」
「ありがとう。なるべく早く済ませるね」

 了承を得られたので、さくさく済ませよう、と奏澄はドアを大きく開けたまま、中に足を踏み入れた。
 レオナルドの作業を邪魔しないように、できるだけ静かに自分の作業を進めていく。
 作業音だけが響く空間で、奏澄はちらりとレオナルドへ視線を向けた。
 黙々と手を動かすレオナルドは、寡黙な職人にしか見えない。実際愛想がいい方ではないのだが、奏澄といる時はよく話すので、ギャップを感じる。
 真顔の美形は人形のようだな、などと本人には言えないことをぼんやり思った。

 あらかたのチェックが終わり、よし、と小さく呟いて、奏澄は部屋を出ようと開けたままのドアへ向かった。

「終わったから行くね。お邪魔しました」
「あ、やば」
「えっなに!?」

 突然の不穏な言葉に、奏澄は肩を跳ねさせた。

「カスミ、ドア閉めて。部品そっち転がってった」
「えっえっ!?」

 言われるがままにドアを閉め、足元に視線を落とす。小さな物だろうか。もし外に転がっていってしまっていたら大変だ。

「どんなやつ?」

 ドアに向かったまま慌てて屈もうとする奏澄の後ろから手が伸びて、カチャン、と鍵の音がした。

「ごめん、嘘」

 耳元から聞こえた声に、ちり、とうなじのあたりに何かが走った。

「意識されてるなとは思ってたけどさ。やっぱあんた、詰めが甘いよな」

 普段と違う声のトーンに、奏澄は急に喉が渇くのを感じた。
 確かに、甘かった。何だかんだで、こういう手段には出ないと、高を括っていたのだ。

「……今ならまだ、冗談で許してあげる」

 硬い声で告げて、鍵に手を伸ばす奏澄。その手をぐっと引いて体の向きを変え、レオナルドは向かい合わせで奏澄の腰を抱き寄せた。

「どうかな。冗談だと思う?」
「放して」
「つれないな。ここにはあの番犬もいないんだぜ? それとも大声で呼んでみる?」

 からかうようなレオナルドの口調に、奏澄は眉を寄せて溜息を吐いた。

「しない。本当に来ちゃったら流血沙汰になるもの」
「あれ、この状況で俺の心配してくれるんだ」
「当然でしょ。大事な仲間なんだから」

 言われたレオナルドは、面食らったように目を瞬かせた。

「船長に手を出しても?」
「まだ、出してない」
「これから出すつもりなんだけど」

 するりと奏澄の頬に手をすべらせて、楽しげに目を細めたレオナルドと奏澄の視線が絡み合う。

「私は、仲間を信頼してる。レオのことも」

 ぴたりと、レオナルドの動きが止まる。

「この船の乗組員はみんな、特殊な事情にも関わらず、私のために力を貸してくれている。私のために、この船にいてくれるの。だから、私の嫌がることは絶対にしない」
「……すげー自信」
「そうだよ。この自信は、みんながくれたの」

 自分一人では、決してそんな考えは持てなかっただろう。
 最初は、見張られているのではというほどに怯えていた。寄りかかれるのはメイズだけだった。けれど、誰も奏澄を傷つけたりはしなかった。皆が奏澄を見守ってくれた。
 遊びの旅ではないから、叱られたこともある。呆れられたこともある。それでも、誰も奏澄を見捨てたりはしなかった。手取り足取り甘やかすお飾りの船長にもしなかった。うまくできなくても、それでもいいと笑って、奏澄が立ち上がるのを待った。
 自分にはできないことがたくさんある。でも、自分にもできることがある。与えて、与えられて。人に頼る勇気を、人に手を差し伸べる勇気をくれた。
 メイズは、奏澄の神様だった。けれど、奏澄の世界は、この船の仲間たちだ。

 朗らかに笑う奏澄に、レオナルドは言いたいことを幾つも飲み込んだような顔をした。

「あんたのその相手の良心をアテにしたやり方、どうかと思う」
「効かない?」
「……効くけどさぁ」

 大きく溜息を吐きながら、降参、というように両手を上げて、レオナルドは奏澄の肩に頭を預けた。

「レオ」
「これくらいは、許してよ。これで最後にするから」
「……うん。ごめんね」

 宥めるように、奏澄はレオナルドの頭を撫でた。

「俺がもうちょっと悪い男だったら、あんた今頃無事じゃ済まないからな」
「レオがそういう人だったら、仲間にしてないよ」

 軽く笑った奏澄に答えるように、レオナルドも肩口で笑った。

「な。一個聞いていい?」

 顔を上げたレオナルドの疑問に、奏澄は頷いた。

「カスミは、メイズのこと好きなの?」
「……好き、ではあるよ。人として」
「男としては?」
「考えた、ことがない、かな。私は……いつか、帰るから。恋愛とかは」

 終わりが最初から見えている恋など、辛いだけではないだろうか。そもそも、奏澄は今を生きるのに精一杯で、そこまでの心の余裕が無い。恋愛とは、相手を思いやる心だ。そのゆとりがなければできるものではない。

「それ関係ある?」

 すぱっと言い切ったレオナルドに、奏澄は動揺した。

「いや、だって……ずっと一緒にいれるわけじゃ、ないし。相手の将来に責任も持てないし」
「そんなの。俺たちだって、明日死ぬかもしれないんだし、同じだろ。いつ失うかわからないから、少しでも長く近くにいたいもんなんじゃないの」

 そういう考え方もあるのか、と奏澄は素直に感心した。

「や、でも、メイズはね。私のこと、子どもだと思ってるから」

 暗に向こうが対象外だろう、と言ってみせたのだが、レオナルドは理解できないという顔で。

「冗談だろ。あれが子どもを見る目かよ」
「……んん?」
「あんた、メイズの一番近くにいるのに、あいつのこと一番わかってないんじゃないの」

 言われた言葉に、奏澄は少なからずショックを受けた。ショックを受けるということは、心当たりがあるということだ。
 メイズの一番近くにいるのは自分だと思っている。自分が一番メイズの表情を知っているという自負もある。けれども。
 時折仲間が話す『黒弦のメイズ』のこと。メイズが奏澄に見せないようにしている、何か。メイズのためだと思い込んで、目を逸らしているそれらを。奏澄は、知るべきなのだろうか。

「あーあ、やっぱ諦めるのやめよっかな」
「ちょ、ちょっと」
「なんかまだ付け入る隙ありそうだし。加減はわかってきたし」
「ないないない、ないから。きっぱり諦めてもらって」
「それは俺が決める。とりあえず、今日のところは大人しく引き下がってあげるけど」

 レオナルドは奏澄の背を押して、ドアを開けた。

「次も逃がしてやるとは、限らないから」

 何かを言おうと口を開けた奏澄を外へ追い出して、レオナルドはドアを閉めた。

「~~~~っ」

 結局何も言えなかった奏澄は、込み上げた言葉を飲み下して、大きく息を吐いた。
 ああは言ったが、ひとまずレオナルドの件はこれで一段落したと見ていいだろう。
 歩きながら、少しだけ強張った体を解した。
 人の力を借りなくても、自分で問題が解決できた。そしてそれは、船の仲間が奏澄を成長させてくれた結果だ。そのことが嬉しく、誇らしかった。
 小さなことかもしれないが、メイズに甘えてばかりの自分ではないのだと。少しでも、そう思えたから。
 海も穏やか。空も穏やか。昼寝でもしたくなるような、そんな昼下がり。
 見張り台からの焦った声に、柔らかな空気は一変した。

「げ、玄武の旗だ!!」

 一斉にざわつく上甲板。全員に緊張が走る。

「船は!?」
「多分……ブルー・ノーツ号……!」
「本船か!?」
「お、おち、落ちつけよ。あんな大物がうちなんか相手にするわけないだろ」
「偶然通りかかったんだろ。大人しくしてれば素通りするって……きっと……」
「でもあれ、こっち向かってきてねぇか……!?」

 動揺が広がる乗組員たちを、ラコットが一喝する。

「騒ぐんじゃねぇお前ら! 玄武がなんだ! 喧嘩売られたら買うのが海賊の流儀だろ!」
「あんたこそ頭冷やしなラコット。いくらなんでもうちじゃ勝てないよ。規模が違いすぎる」

 マリーに後ろから叩かれて、ラコットが口を噤む。静かになったタイミングで、レオナルドが口を開いた。

「玄武の船長って、キッドだろ? 昔会った印象じゃ、気のいい兄ちゃんって感じだったけど」
「レオ、あんたキッドと面識あんの?」

 驚いたように尋ねるマリーに、レオナルドは頷いた。

「十年以上前だけどな。まだ親父が現役だった頃、工房に出入りしてたことがある」

 実際に会ったというレオナルドの証言で、乗組員たちに僅かに安堵の色が浮かぶ。

「あたしも、享楽主義ではあるけど人道的な方だって聞いてる。喧嘩しに来るわけじゃないんじゃないかい? 撃ってくる様子もないんだろ?」
「た、確かに、大砲を用意してる風には見えないが……」

 ブルー・ノーツ号の様子を窺いながら、見張りが答える。しかしそれだけでは、戦闘が無いとは言い切れない。四大海賊の一角が、新参の小さな海賊団に、いったい何の用があるというのか。

「とりあえず、こっちに交戦意志がないことは示しておきましょう。海賊旗下ろして、白旗上げて」
「は、はいっ!」

 船長である奏澄の指示に、乗組員がばたばたと動く。
 白い旗は降伏の証、というのは、この世界でも同じルールだった。白旗を揚げたからと言って必ずしも攻撃されないわけではないが、話の通じる相手であれば意志表示にはなる。
 奏澄は争い事を嫌っているが、白旗を使うのは初めてだ。戦う前から降伏するというのは、海賊にとって屈辱でしかない。そもそも威嚇のために海賊旗を掲げているのに、弱いと嘗められたら意味が無い。
 しかし今回に限っては、相手方の意図も読めなければ、戦闘になった場合想定される被害も大きすぎる。まずは目的をはっきりさせたい。

「いいよね、メイズ」

 ただの確認ではあるが、念のため奏澄が問いかけるも、メイズからの返答は無い。

「……メイズ?」

 玄武の旗が見えてから、厳しい顔で黙りこくっているメイズに、恐々と呼びかける奏澄。
 しかしその声は、メイズの耳には入っていないようだった。
 再度の問いかけにも答えず、メイズは副船長として、乗組員たちに指示を出した。

「商会の奴らは非戦闘員の護衛に回れ。万一の時は船長を小艇(ボート)で逃がせ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、逃がすって何!?」
「キッドが出てきたら俺が相手をする。戦闘員は戦闘準備」
「メイズ!!」

 こちらに交戦意志が無いとしても、呑気に待っているわけにはいかない。向こうの出方によっては、抗う必要もある。当然防衛のための準備は必要だが、メイズの言い方は最初から戦闘を予期しているようだ。
 食ってかかる奏澄を、メイズはライアーに押し付けた。

「頼む」
「いや、そりゃ、頼まれますけど。なんか説明くらいしてくださいよ、カスミだって納得できないでしょこんなん」
「敵襲があった時はいつもこうだろ」
「アンタの様子が変だからでしょうが!」

 怒鳴ったライアーを、メイズが冷たく一瞥した。一瞬怯むも、ライアーはメイズを睨み返した。

「アンタが玄武と何かあるなら、今回は全員に関係がある。だんまりってわけには」
「玄武とは黒弦にいた時に一戦交えている。俺はおそらく恨みを買ってる」

 問答している時間も惜しいとばかりに言葉を被せながら、しかし淡々と告げられたその内容に、全員が息を呑んだ。予想をしていた者もいただろうが、それでも本人の口から聞けば実感が増す。

「これ以上の詳しい話をしている時間は無い。不満があるなら、俺が一人で向こうの船に出向く」

 メイズらしい、仲間を当てにしない言葉だった。本当に一人で行ってしまいかねないその姿に、奏澄はメイズに飛びついた。

「……約束」
 
 それだけ言って、腰元にしがみついて離れない奏澄に、メイズは大きく溜息を吐いた。

「こうなるから黙ってたんだ」

 普段なら頭の一つも撫でただろうその手は、強い力で奏澄を引き剥がした。

「今回ばかりは大人しく俺の言うことを聞け」
「だって」
「お前は俺の弱味になる。いられると邪魔だ」

 言い切られて、奏澄は言葉を詰まらせた。メイズも、奏澄の扱いに随分と慣れたようだ。
 心配だから、と言われれば意地でもしがみついただろうが、邪魔だと言われてしまえば引かざるを得ない。それが事実なら、尚更。

「安心しろカスミ!」

 大声で割って入って、メイズの肩を抱いたのはラコットだった。

「なぁんも心配することねぇよ、俺たちがついてるからな!」
「……ラコット」

 珍しいことに、メイズも目を丸くして呆然と名を呼んだ。

「仲間を売ったりするようなことは絶対にしねぇ! 任せろ、な!」

 屈託無く笑うラコットに、奏澄はほっと力を抜いた。
 そうだ。自分たち二人だけではない。仲間が守ってくれるのは、奏澄だけではない。
 メイズだって、ちゃんと、仲間だ。



 不安が完全に払拭されたわけではないが、奏澄は他の非戦闘員たちと船室に隠れた。商会の男性陣は、今回は護衛に回されたので、武装した上で室内と室外の見張りに分かれている。
 じりじりとした緊張感に、誰もが口を開けずにいた。外の気配に耳を澄ます必要があるから、というのもある。
 奏澄は膝を抱えて、顔を埋めた。

 いつかはこんな日が来るかもしれないと、思ってはいた。
 海賊をやっていたということは、別の海賊と争った可能性は高い。誰かを傷つけたこともあるだろう。そういう相手が、復讐に来るかもしれない。その相手が、メイズより強い可能性も。
 その時、自分はどうしたら良いのか。何ができるのか。いや、おそらく、何もできはしない。だからこそ。
 ただ、傍に。

 ドアの外から聞こえた軽い足音に、空気が張り詰める。しかし、見張りの声が上がらないということは、敵ではないのだろう。
 間もなくして、レオナルドが顔を覗かせた。

「レオ!?」
「あれ、そういやいなかったなアイツ」

 ちょいちょい、と手招きをされて、奏澄はドアに寄った。

「レオ、どこにいたの!?」
「甲板で隠れて様子見てた。俺キッドと面識あるし、なんかあった時に口挟めるかなって思ったけど、全然そんな空気じゃなかったわ」
「それでこっちに来たの?」
「いや、そうじゃない」

 首を振って、レオナルドは奏澄を見据えた。

「今すぐメイズの所に行った方がいい。多分、あんたじゃないと収まらない」

 それを聞いた瞬間、奏澄は全速力で駆け出した。

「カスミ!」
「船長!」

 呼び止める仲間の声を無視して、奏澄はただひたすら走った。



「おいレオ、どういうことだよ!」

 残されたライアーが、レオナルドの胸倉を勢いよく掴み上げた。

「上でちょっと揉めてるんだよ。今行かないと、カスミは一生後悔する」
「だからって、船長を危険な場所に一人で行かせるヤツがあるか!」
「まだ戦闘にはなっちゃいない。出遅れたけど、俺も行く」

 レオナルドはライアーの手を乱暴に払った後、自嘲気味に笑った。

「ま、カスミはそういうのなんにも聞かない内に、飛び出していったけどな」
「オマエ……」
「じゃぁ俺も行ってくる。急に人数が増えると向こうを刺激するから、残りはまだここにいた方がいいと思うぜ」

 言い残して、レオナルドは奏澄を追って駆けて行った。

「――ッくっそ!」

 やり場のない怒りを吐き出すライアーに、マリーがそっと寄り添った。
 はやく。はやく。はやく。
 心に体が追いつかずに、足がもつれる。それでも、奏澄は止まることなく走った。
 レオナルドの言葉を聞くと同時に、反射的に体が動いていた。
 何の説明も聞かなかった。何が起こっているのかもわからない。ただレオナルドは『今すぐ』と言った。急がなければならない理由があるのだ。
 それだけで、充分だ。呼びに来てくれて良かった。

 ――レオナルドが、私を呼ぶことをためらわない人で、良かった。

 息を切らせて上甲板へ飛び出ると、真っ先に目に入ったのは眼前に剣を突きつけられたメイズの姿だった。

「メイズ!!」

 青い顔で叫ぶと、目を瞠ったメイズが声の方へ顔を向けようとした。
 しかし寸前に剣を突きつけている相手に何かを言われ、動きを止めた。

 メイズに釘付けになりそうな視線を何とか動かして、奏澄は甲板の様子を観察した。
 玄武海賊団の巨大な主船、ブルー・ノーツ号がコバルト号に横付けされており、玄武の乗組員がこちらの船に乗り込んできていた。
 当然全員ではないだろう、だが人数差は圧倒的で、ラコットたち戦闘員は玄武の乗組員に囲まれ身動きが取れないようだった。その内、ラコットだけは拘束されている。よほどうるさくしたのか、口まで塞がれていた。
 メイズの状況と合わせて考えると、おそらく戦闘はメイズが止めたのだろうと思われる。仲間がなるべく傷つかない方法をとってくれたのだ。
 ラコットはそれが納得いかずに暴れ、拘束されたのだろう。だが拘束に留まり、大きな負傷をしていないところを見ると、マリーの言った『人道的』という言葉はあながち外れてはいないのかもしれない。白旗は、最低限の役割だけは果たしたようだ。

 メイズと対峙している男は、鮮やかな水色の髪をしていた。四大海賊という言葉から連想される年齢よりは若く見えるが、貫禄がある。四十そこそこといったところか。背丈はメイズとそう変わらないが、体格はやや細身だ。しかし筋力はあるのだろう、彼の手にしている剣はカトラスではなく、ヴィーキング・ソードだ。重量のあるそれを、全く剣先をぶれさせることもなく片手でメイズに突きつけている。
 服装には飾りが多く、格好だけなら軟派な印象を受ける。しかし今は身が竦むほどの威圧感を発しており、一目で強者だとわかった。おそらく、彼が玄武の船長、キッドだ。
 彼の左横には、一回り大きな体格の男が並び立っていた。片目に眼帯をしたその男は、憎しみを込めた隻眼でメイズを睨みつけていた。

「嬢ちゃん」

 よく通る声で呼ばれて、心臓を跳ねさせた奏澄は、恐る恐る声の主を見た。

「アンタが、この船の船長だったよな」

 メイズから視線を外さずに問いかけるキッドに、奏澄は固唾を呑んだ。
 覚悟を決め、自分を鼓舞するように強く声を発する。

「そうです。私が、たんぽぽ海賊団船長の奏澄です」

 言いながら、慎重にキッドの元へ歩を進める。
 自分から団名を名乗ったのは初めてかもしれない。今奏澄は、海賊としてこの男と向き合わねばならない。

「カスミ、来るな」
「おっと、喋っていいとは言ってねぇぜ」

 奏澄を止めようとしたメイズは、キッドに黙らされた。
 止められても行くつもりだった奏澄は、歩調を緩めることもなく真っすぐ進み、メイズの右隣に並び立った。
 キッドを睨み上げるようにすると、瞳孔の開いた豹のような目と視線がかち合い、ぞくりと寒気が走る。

「アンタが、今の飼い主か」
「その言い方は不愉快です。メイズはこの船の副船長で、私の護衛です」

 明確な敵意を向けた言葉に、メイズは驚き、キッドは口笛を吹いた。
 温厚な性格の奏澄は、他人に敵意を向けられることも、向けることも苦手としている。
 しかし、自分の大切なものが危険に晒されているとなれば話は別だ。人道的かどうかは関係が無い。
 仲間への気持ちがあるからこそ。奏澄はこの世界に来て初めて、相手を『敵』と認識し、争う姿勢を見せている。

「へぇ、そんなナリでも海賊の女だな。気が強い」
「話をする気があるのなら、まずは武器を収めてもらえませんか」
「そいつは無理な相談だ。コイツの早撃ちを知ってるか? 抜かれたら困るんだよ」

 抜く気があるのなら、もっと早くにそうしているだろう。
 今こうしている時点で、メイズは戦意が無いことを示しているだろうに。
 そうは思ったが、奏澄が出てきたことで予定は狂っているのだろう。奏澄に危害が加えられる可能性がある今、メイズがどう動くかわからない。

 奏澄は剣先が触れないように気をつけつつ、メイズの右腕にしっかりと抱きついた。
 その行動に、キッドは虚をつかれたようだった。

「だったら、私はこのままメイズから離れません。利き腕が使えないガンマンなんて、玄武の船長にとっては恐れるに足りないでしょう」

 キッドは睨みつける奏澄を面白そうに眺めて、

「ソイツ両利きだから利き腕あんま関係無いけどな」
「!」

 言われて、奏澄は咄嗟に顔が赤くなった。そうだった、メイズは二丁使いだった。でも普段の生活では右利きのようにしていたから、てっきり右利きなのだと思い込んでいた。

「か、片腕封じただけでもハンデでしょう!」
「ま、絵面が面白いから良しとするかぁ」

 顔だけは笑いながら、キッドは剣を下ろした。しかし、鞘に収めることはせず、いつでも振れるようにしている。依然として厳しい目に、奏澄は抱きつく力を強めた。

「それで、あなたは何の用でうちの船に来たんですか」
「黒弦のメイズが移籍したって聞いてな。新しい海賊団がどんなか様子見と、ついでにメイズに落とし前つけてもらおうかと」
「落とし前?」
「コイツの目の、な」

 そう言ってキッドが指し示したのは、隣に立つ隻眼の男だった。

「……彼の目を、メイズが?」
「そうだ。殺されてるヤツもいるから、目だけで済ますか、命を取るかを審議中ってところだ」

 奏澄は息を呑んだ。
 殺した。メイズが。この人の、仲間を。

 薄々、わかってはいた。人の命を奪える人だということは。
 それでもこうして、被害者がいざ目の前に出てきてしまうと、足が竦む。
 恨まれて当然だ。正当な理由も無いかもしれない。正義は向こうにあるかもしれない。
 それでも。

「メイズは、この船の要です。彼が死ねば、私も死にます。容認できません」

 わかってしまった。自分が、存外善良な人間ではなかった、ということが。

 殺された人は気の毒に思う。でも、海賊同士の戦闘だ。命のやりとりがあることは織り込み済みだろう。
 無暗に乗組員に危害を加えていないこの状況を見れば、玄武の側は道理を弁えている。わざわざ報復行為に来たということは、黒弦の側に非があったことは想像に難くない。単なる戦闘以上のことがあったのかもしれない。奪わなくて済む命も、あったかもしれない。
 だがそれらは過去のことだ。今更、取り戻すことはできない。黒弦という集団に問題があったのなら、メイズ一人が責を負うことでもない。玄武もそれがわかっているからこその『審議中』なのだろうが。
 できる範囲の行動で謝罪を示せるなら協力もするが、メイズの命を捧げても、被害者の気が済む、以上の償いにはならない。

 ()()()()()()()()()、メイズは渡さない。

 奏澄の優先順位は、はっきりしていた。
 世界中を敵に回しても。どんな理由があっても。誰から非難されたとしても。
 奏澄にとっては、自分の世界を守ることが、何よりも優先される。
 誰もが納得できる結末が用意できないのなら、他者を傷つけてでも、自分の主張を押し通すしかないのだ。

 奏澄は自分自身の熱に驚いていた。かつて自分が傷つけられて、ここまで怒りを感じたことはなかった。やむなく誰かと争えば、敗者となるのは仕方のないことだと諦めていた。
 だが大切な人を失うかもしれないとなった時。自分が間違っていたとしても手段を選ばないものだと、初めて知った。
 絶対に退()けない。負けられない。この命をかけてでも。
 強い敵意を示す奏澄に、キッドは目を眇めた。

「なら、目をくれるってか?」
「メイズの目は渡せません。代わりに、私の目をあげます」

 双方が、目を見開いた。

「船長の目で、手打ちにしろって?」
「そうです。責任者が責任を取る、と言っているんです。なんらおかしいことはないでしょう」
「こっちとしちゃ、当人に何の罰も無しじゃ収まりがつかねぇな」
「私の目がなくなれば、充分メイズへの罰になりますよ」
「どうだかなぁ」

 メイズの体に力が入ったのを、奏澄は感じていた。我慢しているのは、ここで反応してしまうと、奏澄の言葉を肯定することになるからだ。メイズの目を奪うより、奏澄の目を奪った方がメイズにダメージを与えられると判断されることを恐れている。

「しかし解せねぇな。コイツは嬢ちゃんが身代わりになるほどの男か?」

 当たり前だ、と言おうとして、別の言葉を紡ぐ。これは身代わりではない。

「彼の罪は私の罪です。償いの必要があるなら、それは私も同じです。命は渡せませんが、私の目で退()いてくれると言うのなら、どうぞ差し上げます」

 奏澄はメイズの共犯者だ。少なくとも、奏澄はそう思っている。
 メイズが何者であっても。例え極悪人であったとしても、それでも良いと。そう決めて、傍に置いた。彼の罪に目を閉じた。いつか目を開いた時。そこに何が見えたとしても、全てを共に背負うと決めた。これはその内の、ほんの一部に過ぎない。

「……いい度胸だ。そこまで覚悟を決めてるなら、恥かかすわけにもいかねぇな」

 キッドが、奏澄の目前に剣を突きつけた。
 焦点が定まらないほどの位置にある切っ先に、目を閉じたくなる。駄目だ。怯えたら、メイズに伝わる。

「目を潰したら、メイズを含めた仲間には決して手を出さないと約束してください」
「ああ。玄武の名に誓って、約束しよう」

 きり、と剣を持つ手に力が入った瞬間。奏澄の体は、強い力で吹っ飛ばされた。

「――!?」

 痛みに息が詰まる。飛ばされながら視界の端に捉えたのは、リボルバーを抜いたメイズだった。
 視界が回り、どさ、と誰かの腕の中に勢いよく落ちる。

「い……ッ、ごほっ」
「ッぶね、セーフ……!」
「レオ!?」

 宙を舞った奏澄が甲板に叩きつけられる前に、辛うじて受け止めたのはレオナルドだった。
 新たに現れたたんぽぽ海賊団の乗組員に、玄武の乗組員が警戒を見せる。
 奏澄は受け止めたレオナルドに礼を告げることも忘れて、暴れるようにして腕から飛び出そうとしたが、レオナルドが奏澄を抱え込んだ。互いに武器を抜いてしまった今、あの場に近づけるわけにはいかないと判断したのだろう。腕の中でもがきながら、奏澄が叫ぶ。

「メイズ!!」

 目にしたメイズは、隻眼の男にうつ伏せに取り押さえられていた。銃を抜いたのだろう左腕は拘束されており、投げ出された右手をキッドの剣が貫き、甲板に縫い留めている。
 奏澄を振り払った動作の分、相手よりも出遅れたのだろう。そんなことは、普段のメイズならわかりそうなものなのに。
 縫い留められた手を無理やり引きちぎりそうな動きを見せたメイズに、咄嗟にレオナルドが声を上げる。

「なぁ、キッド! 俺を覚えてるか!?」

 時間を稼ごうとしたのか、キッドの意識を逸らせようとしたのか、メイズの意識を引き戻そうとしたのか。
 はたまた、ひどく動揺した奏澄を落ちつかせようとしたのかもしれない。
 緊張感を孕みながらも、明るくすら聞こえる声でキッドに呼びかけた。
 
 レオナルドの姿を視認したキッドは、首を傾げる。

「ヴェネリーアの工房で、昔会ったろ。ダビデの息子、レオナルドだ」
「――ああ! レオか! でかくなったなぁ」

 どうやら相手もレオナルドを記憶していたらしい。まずはそのことに息を吐き、レオナルドは続けた。

「あんた親父には随分世話になっただろ。俺に免じて、いったん退()いちゃくれないか」

 キッドはレオナルドの顔を興味深そうに見て、口の端を上げた。

「悪いが聞けないな。ソレとコレとは別問題だ」
「ちぇ、やっぱだめか」

 軽い口調で零したが、レオナルドの額には汗が伝っている。
 必死で考えを巡らせているのだろう。彼もまた、メイズを守るために。

 キッドはメイズに視線を戻すと、溜息を吐くように零した。

「あーあー、無茶しやがって。嬢ちゃんに怪我させたらどうすんだよ、危ねぇな」
「……ッ」

 拘束から逃れようとして、メイズは呻いた。それを見下ろして、キッドは嘲るように続ける。

「オレを撃てたとして、その後どうするつもりだったんだ? 吹っ飛ばしたあの子が人質にされるとは思わなかったのか? らしくねぇな、いつも冷静なオマエが」

 しゃがみこんでメイズを見たキッドは、その眼光の鋭さに、ふっと落ちついた表情をした。

「そんなに、あの子が大事か」

 答えないメイズに、キッドは何かを考えているようだった。

「頭に血が上って、冷静な判断ができなくなるほど、人のために怒ったのか。オマエが」
「……そんなわけないだろ。邪魔だったから退()けただけだ。俺が逃げるために」

 その言葉に、奏澄の目に涙が滲みだす。メイズが、奏澄を守ろうとしている。

「この船は、俺が利用しただけだ。どいつもこいつもお人好しで、騙しやすかったしな。だが、結局役には立たなかったようだ。今更逃げられそうにもないし、殺したきゃ殺せ、面倒くさい」

 船の仲間は関係無いと、そう言っているのだろう。皆に被害が及ばないように、できる限りのことをしようとしている。だが、このままではメイズが殺されてしまう。相手を殺す気で歯向かったとなれば、もう目だけでは済まないだろう。
「メイズ!!」

 悲鳴にも似た声で、奏澄が叫んだ。駆け寄ろうとする体を、レオナルドが押さえる。
 零れ落ちた涙を拭うこともせず、奏澄は泣き喚いた。

「メイズを殺したら、絶対許さないから! 絶対絶対、許さないから!!」

 先に仲間を殺されたのは向こうだ。今の奏澄と、同じ思いをしたのかもしれない。だからこの言葉は、全くの筋違いだとも言える。けれど、そんなことは関係無かった。ただひたすらに、憎悪した。

 強い憎しみを込めながらも幼稚なその言葉に、キッドは苦笑して、メイズの手から剣を引き抜いた。

「レオ、嬢ちゃん放してやれ」

 レオナルドは怪訝な顔でキッドを見た。それにキッドがひとつ頷いたので、迷いながらも腕を解く。もつれるようにして走り出し、奏澄はメイズに駆け寄った。その勢いに、キッドが一歩引く。

「メイズ!!」
「……この、馬鹿……」
「馬鹿はどっち! ばか! ばかぁ!」

 ろくな言葉が出てこない。どうやら感情が昂ると、言動が子ども返りするようだ。自分のことなのに知らなかった。元の世界では、これほどまでに激しい感情を抱くことが無かったからだろうか。

「ロバート、ソイツも放してやれ」
「……キッド」
「わかってる。銃は回収しとけよ」

 メイズからリボルバーを二丁とも奪うと、ロバートと呼ばれた隻眼の男は、渋々拘束を解いた。
 ロバートがメイズから離れると、奏澄は思い切り飛びついた。立ち上がろうとして、まだ体勢が整っていなかったメイズが、勢いに押されて仰向けに倒れ込む。

「……おい」

 覆い被さるようにしてわんわん泣く奏澄に、メイズは弱り切ったように溜息を吐いた。
 拘束は解けたが、武器は奪われ、敵に囲まれたまま。まだ危機は何も去っていない。こんな間の抜けたことをしている場合ではないのだろうが、予想に反して、メイズは怪我をしていない方の手で奏澄の頭を撫でた。
 それが、まるで最期を覚悟しているかのように思えて、奏澄は余計に泣いた。

「だっはっはっは! 随分丸くなったなぁオマエ!」

 豪快に笑うキッドに、メイズは苛立ったように眉を寄せた。
 しかし、息を吐いて、落ちついた声で返す。

「見ての通りの、まだガキだ。こんなのに何も背負わせることないだろ。俺だけで充分だ」
「ダメ! っぶ」
「黙ってろ」

 口を挟んだ奏澄の頭をメイズが押さえこんだので、奏澄はメイズの胸元に鼻をぶつけた。
 メイズの切実な願いに、キッドはあっけらかんと答えた。

「ま、もともとその嬢ちゃんに何かする気は無いんだけどな」

 唖然とする二人を見つつ、キッドは剣の血を拭い鞘に収めた。
 収めた、ということは、これ以上争いの意志は無いのだろう。
 意図を問うように、メイズは身を起こしつつキッドを睨んだ。

「試すような真似をして悪かったな。オレたちは、オマエがどうしているのか、この海賊団がどういう集団なのか、知っておきたかったんだ」
「……どういうことだ」
「オレたちは、黒弦を潰したいのさ。だが、お前が別の海賊団にいると知ってな。そこを第二の黒弦にされたら、意味が無い。黒弦と決別したとは聞いちゃいるが、オマエは黒弦の象徴のような男だったし、求心力がある。オマエを中心に立て直されたら困るんだよ」

 その言葉に、メイズは顔を顰めた。古巣を思い出しているのだろう。
 奏澄は、メイズが黒弦だったとは聞いていたが、それほど重要な立ち位置だったとは知らなかった。その動向を、四大海賊が気にかけるほどの存在だったのか。

「だが、どうやら杞憂だったようだ。その嬢ちゃんがいる限り、昔のような振る舞いをするこたねぇだろ。仲間にも恵まれたようだしな」

 言って、キッドはラコットたちの方に視線を向けた。玄武の乗組員に囲まれ身動きは取れなかったものの、仲間たちはずっと隙を窺っていた。どうにかして、力になれるようにと。
 メイズのことで頭がいっぱいだったが、改めてその存在を視認して、奏澄はほっとした。皆が、メイズを守ろうとしてくれた。そのことが、嬉しかった。

 奏澄がメイズの手に応急処置でハンカチを巻いていると、キッドが一つ手を叩いた。

「さて。詫びと言っちゃナンだが、これからオレたちの船で宴を開こうと思う。良かったら、そっちの乗組員も全員参加してくれ」
「……は?」

 奏澄は、思い切り顔を歪めて聞き返した。

「この状況から宴って、どういう神経してるんですか」
「睨むな睨むな。もうちょっと嬢ちゃんらの人となりを知りたいんだよ。付き合ってくれ」
「信用できません。毒でも仕込むんじゃないですか」
「そんな面倒なことするかよ。戦力差は見せただろ? 殺す気があるなら、このまま殲滅した方が早い」

 さらっと言われた言葉に、奏澄は口を噤んだ。この人は、圧倒的に優位な立場から喋っている。

「……でも、許したわけでは、ないんでしょう」
「そりゃ当然だ。恨んでるし、この先も許すことは無い」

 キッドの言い分は至極当たり前だ。やったことは消えない。傷は一生残る。先ほど奏澄が感じた痛みを、それ以上を、玄武の乗組員たちは受けている。
 それを堪えてでも、相手を理解しようとする度量があるのか。

「……敵いませんね」

 奏澄が零した言葉に、キッドは得意げに笑った。そうすると少年のような幼さが垣間見える。獰猛な獣のようだった目も、細められれば豹も猫科であったと思わせた。なるほど、船長に相応しい、魅力的な人物だ。

「イイ男だろ。惚れるなよ?」
「それは絶対にありえないので安心してください!」

 奏澄は笑顔で言い切った。
 目とは違い、手の傷はいずれ直る。想定された被害からすれば、随分と軽い()()()だ。
 それでも、奏澄にとっては許しがたい。和解はするが、好意は持てない。奏澄の精神は、まだキッドほど成熟してはいないのだ。暫くは態度が悪くても仕方がない。
 そういったことを何もかも見透かしたように笑うキッドに、奏澄はますますむくれるのだった。
「乾杯!」

 キッドの音頭で、異様な緊張感の中、宴は開催された。

 あの後奏澄は船室にいた乗組員たちにも事情を説明し、たんぽぽ海賊団は全員でブルー・ノーツ号での宴に参加することになった。
 罠ではないか、とする声もあったが、それは奏澄とメイズが否定した。罠を張るタイプではない。そもそも、罠を張らずとも勝てる。

 参加するにあたり、提示された条件は四つ。
 一つ、双方武器は持たないこと。
 二つ、メイズの銃は宴が終わってから返却すること。
 三つ、宴の間、奏澄はメイズの()()()を封じていること。

 強制されたわけではないが、銃の返却がある以上、実質和解のための条件だと見ていいだろう。各々思うところはあるものの、最終的に全員承服した。

 ブルー・ノーツ号の上甲板ではそれぞれの乗組員が混ざりあい、各所で小さな輪を作っていた。奏澄は約束通りメイズの利き手を封じた状態で――つまり、メイズの右腕に抱きついたまま、玄武の船長と同席していた。

 この条件は嫌がらせ以外の何ものでもないだろう。メイズは右手を負傷していて銃を扱える状態ではない。そもそも銃は玄武の手にある。なのにわざわざ奏澄の口にした『利き手』という言葉を使って条件を指定してきたのは、『面白いから』以外の理由は無いに違いない。
 右手はしっかり手当てしてあるが、それでも傷口に触れれば痛むだろう。腕を絡めている奏澄の方も、相当に気をつかっている。

 キッドの横にはロバートがいた。おそらく、彼がキッドの右腕なのだろう。
 キッドはジョッキを早々に飲み干すと、奏澄に酌を頼んだ。

「嬢ちゃん嬢ちゃん、注いでくれ!」
「嫌です。誰かさんの条件のせいで片手しか使えないので。自分でやってください」
「可愛くねぇなぁ。せっかく見た目は可愛いのに」
「それ。なんなんですか最後の条件!」

 そう。提示された条件は四つ。
 四つ、女性は着飾って列席すること。

 奏澄は、あの日ライアーに選んでもらった服を着て、メイクも施していた。この場にはいないが、他の女性陣も同じようにめかし込んでいる。

「いいじゃねぇか。ウチの船には女がいねぇんだよ。楽しく酒飲んでる時くらい、目の保養が欲しいだろ」
「女性は飾り物でも給仕係でもありません。言っておきますが、私の仲間に手を出したら潰しますよ」
「何を……って聞かない方が良さそうだ。意外に血の気多いのな、嬢ちゃん」

 仕方なしに手酌して、キッドは半目で奏澄を見た。

「しかしそうしてると大人に見えるな。やっぱすげぇな女は」
「大人ですけど」
「大人ぶりたい年頃かぁ。わかるぜ。けど、今日はジュースで我慢しとけよ」
「二十代ですのでお酒は飲めます」

 奏澄の発言に、キッドはジョッキを取り落とした。寡黙なロバートも、僅かに目を見開いている。

「詐欺だろ!!」
「私は一度も年齢の話はしてませんよ。そっちが勝手に勘違いしたんじゃないですか」
「だってメイズもガキだって……あーでも、言われてみりゃ確かに、結構胸ある」

 ガン!!

 ジョッキを甲板に叩きつける音に、一瞬周囲が静まり返る。
 音の発生源の一番近くにいた奏澄は体を硬直させた。

「……キレるなよ。嬢ちゃんまでびびってるじゃねぇか」

 キッドは慣れたものなのか、全く臆することなく呆れ顔でメイズに忠告した。
 メイズはじろりとキッドを睨んだだけで返事はせず、代わりに奏澄が答えた。

「メイズは今ぶちギレモードなので、あまり刺激しない方がいいですよ」

 その言葉に反応したのは、ロバートの方だった。

「妙だな。こちらが怒りを抑えることはあっても、そちらが怒る道理は無いと思うが」

 玄武の報復行為には正当性があり、譲歩しているのは自分たちの方だと言いたいのだろう。それはそれでカチンとくるが、誤解で争うのは本意ではないので奏澄は説明を加える。

「あなた方にじゃないです、私に怒ってるんです」
「嬢ちゃんに?」

 首を傾げるキッドに、奏澄は言いづらそうに答えた。

「私が、メイズの代わりに目を差し出すと言ったことを、怒ってるんですよ」
「……なんだ、わかってるじゃねぇか」

 地を這うような声で不機嫌に呟くメイズに、奏澄は僅かに身震いした。玄武の船で説教をかますわけにはいかないから、ずっと黙っているのだろう。しかしこの怒気にあてられながら腕を絡めているのは精神的にきついものがある。本当に余計な条件を出してくれた。

「女に守ってもらったくせに、器の小せぇヤツだな」

 びり、と怒気が増して、奏澄は内心悲鳴を上げた。

「嬢ちゃんに怒ってるんじゃなくて、自分に怒ってるんだろ」

 挑発するようなキッドの言葉に、メイズは反応を示した。

「嬢ちゃんがそうした原因は、オマエにあるんだもんな。守り切れなかった自分が不甲斐ないか」

 当たっているのか、ぐっとメイズが拳を握りしめた。傷が開いてしまう、と奏澄は慌ててその手を開かせようとした。
 自分を削るなと。言われていたのに、飛び出したのは奏澄だ。いてもたってもいられなかった。
 奏澄は絡めた腕の側に寄りかかり、体を預けた。

「今回は、お互い様です。私も、メイズにちょっと怒っているので」

 視線を向けたメイズに、奏澄は小さく零した。

「約束、破りそうになったから」

 傍にいる、という約束を。命よりも優先されるそれを、破りかけた。
 レオナルドが呼んでくれなければ、最悪の事態になっていたかもしれない。
 それに関しては、奏澄も怒っている。

「なので、あなたに口を出される謂れはありません。ちゃんと二人で解決しますから、黙っててください」
「嬢ちゃん本当オレに当たり強いよな」

 乾いた笑いを零して、キッドは酒を口に運んだ。

「まぁ馬に蹴られたくねぇし、これ以上はやめとくか。ほら、嬢ちゃんも飲め飲め。大人なら構わんだろ」

 酒の入ったジョッキを押しつけるキッドに、奏澄は思わずそれを受け取った。と思ったら、横からメイズの手が伸びて、ジョッキをさらった。

「お前は飲むな」

 敵船で飲むのはどうだろう、と奏澄も思っていたので、そのまま任せようとしたのだが。

「はあ!? 過保護! ガキのお守りか!」

 馬鹿にされたようで、奏澄はついムキになってしまい、メイズからジョッキを取り返した。

「このくらい平気!」

 メイズが何か言う間もなく、そのまま一気に呷る。

「お! いい飲みっぷり」

 笑いながら、キッドが二杯目を注ぐ。メイズはそれを見て、何かを諦めたように息を吐いた。
「お? 嬢ちゃんオチたか?」

 メイズに凭れかかる奏澄を見て、キッドはそう零した。
 その言葉に、メイズが呆れたように返す。

「あんたが飲ませるからだろう」
「もうちょい話聞きたかったんだがなぁ」
「話を聞くつもりの相手に酒を飲ませるな」
「悪い悪い、ムキになる嬢ちゃんが面白くてつい」

 悪気無く笑うキッドを、メイズは睨んだ。

「嬢ちゃんずっとツンツンしてたなぁ。普段からあんなか?」
「いや。俺はこいつが人に敵意を向けるのを初めて見た」
「マジか。嫌われたもんだな」

 言いながらも、大してダメージは受けていなさそうだ。

「それに比べて、オマエの信頼されてること。見ろこの安心しきった顔」
「見るな」
「なんだよ随分入れ込んでるじゃねぇか。惚れてんのか?」
「違う」

 からかうキッドとメイズのやり取りに、ロバートが重い口を開いた。

「どうやって誑かした」

 キッドとは違う、悪意すら感じるその言葉に、メイズは隻眼と視線を合わせる。

「そんな純朴そうな女がお前に懐くなんてな。いったい何をした」
「……俺は、何もしていない」

 視線をずらして、メイズは奏澄を見た。穏やかな寝顔に、自然と目が細くなる。

「こいつが、俺を救った」

 奏澄の顔にかかった髪を、羽毛に触れるような手つきで払う。

「残りの命はこいつのために使うと決めた。俺には、こいつを救うことなんてできやしないが……それでも、せめて一人にしないと。ずっと傍にいると、誓った」

 言って、メイズは決意を秘めた目で、二人を見た。

「だからお前らに殺されてやるわけにはいかない」

 それを受けて、キッドは肩をすくめ、ロバートは重く息を吐いた。その溜め息に言葉を乗せるようにして続ける。

「……彼女に、血生臭いものを見せるなよ」
「わかってる。こいつが嫌がることはしない」
「ちゃんと配慮しているのか。お前の基準は狂っているぞ」
「日々、教えてもらっている。普通の人間が、どういうことを怖がるのか。嫌がるのか。何をされたら嬉しいのか。喜ぶのか。ガキからやり直してる気分だ」

 メイズは思い返すように目を伏せた。
 一つ一つを、試している。本で読んだこと。街で見たこと。女に言われたこと。流すだけだったそれらを、初めて、実感として。その一つ一つを、受け止めてくれる。
 彼女の慈愛は、いつか鼻で笑ってあしらった聖母の御伽噺のようだ。自らが触れるまではそんなものは存在しないと思っていたのに、在ると知ってしまえば、欲しくて欲しくてたまらない。
 純粋で、穢れなく。柔らかで、温かい。その腕の中にだけ、安寧がある。生涯縁の無いものだと、諦めていたものが、そこにある。
 それでいて、潰されそうなほどの信頼を。ひたむきに、ぶつけてくる。眩しくて目を逸らしそうになるのに、彼女がそれを許さない。
 曇り硝子の向こう側の景色に放り込まれて。手探りで頼りなく歩く自分を導く、ただ一つの光。

「……メイズ。一個、忠告しとくぞ」

 メイズの様子を見て何を思ったのか、真剣な声色でキッドが告げる。

「嬢ちゃんは、ただの女だからな。多くを求めるなよ」

 それを聞いて、メイズは眉を寄せた。奏澄は海賊でもなんでもない、ただの女だ。そんなことは誰よりわかっている。だから、自分がついている。何者にも傷つけられないように。放っておけばすぐに壊れてしまう小さくて弱い生き物を、外敵から守るのが自分の役目だ。

「俺はこいつに何かを求めるつもりは無い」

 メイズは奏澄のものだが、奏澄はメイズのものではない。
 何も求めることなど。そもそも、求めずとも充分に与えられている。

「それはそれでどうかと思うが……まぁ、あんま神聖視すんなよってことだ」

 意味がわからず、メイズは更に眉間の皺を深くした。

「一つに執着しすぎると、人は盲目になる。忘れんなよ。今日、オマエを守ろうとしたのは、嬢ちゃんだけじゃなかったはずだ」
「……ああ」

 それには、メイズ自身も驚いていた。
 仲間は()()()に過ぎなかった。彼女と海を渡るための。彼女が大事にしろと言うから、壊さないようにはした。そのくらいだ。それが、いつの間にか。
 何かをした覚えはない。人に好かれる性質(たち)ではない。それなのに、何故。

「人間一年目、みたいな顔すんじゃねぇよ。やりにくいな」

 舌打ちしかねない顔でキッドが吐き出す。
 自分の表情に自覚の無いメイズは口をへの字に曲げた。

 凭れかかった奏澄が、少しだけずり落ちた。絡めた腕は起こさないようにそのままにしているので、肩を抱いて支えることはできない。一応条件でもあったわけだが、重しが役目を果たしていないので、もうそれは無視していいだろう。

「嬢ちゃん暫く起きそうにねぇし、オレはちょっとレオと話してくるかな」
「待て、その前に一つ聞いておきたいことがある」

 席を立とうとしたキッドを呼び止め、メイズは少しだけ間を置いて問いを口にした。

「無の海域への行き方を知っているか」
「あん? 無の海域ぃ? オマエでもそんなオカルトを気にすんのか」

 聞かれたキッドは、片眉を上げた。四大海賊であれば或いは、と考えたが、当ては外れたようだ。
 
「俺たちは無の海域にある『はぐれものの島』を目指している」
「はぁ? なんでまた」
「込み入った事情がある」

 情報を得ようとする以上、船団の目的は話すが、奏澄個人のことまで詳細に伝える必要は無いだろう。下手に興味を持たれても困る、とメイズは濁した。

「ふぅん……。何にせよ、オレは知らねぇな。そういうのに詳しいとしたら、エドアルドだろ」
「……白虎か」
「あのオッサン古株だしな。セントラルのきな臭い話にも敏感だし、実在するなら行き方くらい知ってそうなもんだが」

 自分で口にした言葉に、キッドは一瞬考え込んだ。

「……いや待て。セントラル?」

 それにキッドは訝しんで、急にはっと思い出したように声を上げた。

「あっもしかして、嬢ちゃんが指名手配されてるのって、それでか!?」

 勘のいい男だ、とメイズは舌打ちした。余計な情報を与えてしまったようだ。

「オカルトっつったらセントラルの十八番(おはこ)だもんな。セントラルの禁忌に触れたんだな!?」

 楽しそうなキッドに、メイズは答えなかった。しかし、キッドはその様子を肯定と捉えたようだ。
 
「オマエはともかく、なんで嬢ちゃんが指名手配されてんのかは不思議だったんだ。だから船長を引っ張り出したかったんだが……いやー、その甲斐あったわ。やっぱ嬢ちゃん面白ぇな!」

 キッドの興味を惹いてしまったことは、メイズにとっては面白くないが、奏澄の立場を思えば良い方へ働くだろう。四大海賊の一角が好意的ということは、この先協力を得られる可能性があるということだ。

「ま、オレの方でもなんかわかったら教えてやるよ」

 そう言い残して、キッドはロバートを伴い、レオナルドの方へ向かった。

 残されたメイズは、ずり落ちてくる奏澄を支えて、少し考えてから膝に寝かせた。
 肩に凭れさせたままではバランスが悪く、またずり落ちてくるだろう。
 コバルト号に寝かせに戻ってもいいが、他の仲間が全員ブルー・ノーツ号にいる状況で自分が姿を消すのは、余計な誤解を与えかねない。
 膝に乗せた奏澄の寝顔を見て、メイズは手持無沙汰に髪を弄んだ。

 ――いつかと逆だな。

 メイズと奏澄が初めて出会った日。彼女は、熱にうなされるメイズを膝に乗せ、ずっと汗を拭っていた。あの手の温もりを、忘れたことは無い。
 あの時の恩義に、報いるために。
 それだけの、ために。



 離れた場所から二人の姿を見ていたキッドとロバートは、何とも言えない顔で会話を交わした。

「でろっでろじゃねぇか」
「あれに目を潰されたと思うと、かなり腹が立つ」
「同感だ。やっぱ殺しとけば良かったかな」
「キッドは女に甘い」
「あんだけ泣かれちゃなぁ」

 奏澄の剣幕を思い返して、キッドは頭をかいた。
 奏澄に危害を加えるつもりはなかった。しかし、メイズのことは本当に殺しても構わないと思っていた。それを思い止まったのは、彼女の存在があったからだ。
 
「しかし、ありゃちょっと危ねぇな」
「あの女船長に何かあったら、多分黒弦時代に逆戻りだろう」
「うーん……。嬢ちゃんの手腕に期待するしかねぇなぁ」

 知らぬところで勝手に期待をかけられているなど、知る由も無く。
 彼女は穏やかに寝息を立てる。そこが、世界で一番安全な場所だというかのように。