盲目のピアニスト

 熊大法学部4年生。川口学。彼は少し知的な障害があった。幼い頃から母の教えでピアノを習ったが。高校3年の時に。福岡での長渕剛のライブを見て感動した。自分の思いを歌で表現する彼に魅力を感じ。彼はフォークギターでの演奏も得意である。
 由美は、隣に隣接する熊大にいる川口先輩に少しばかり恋をしていた。飲み会が終わり実家にタクシーで帰り着いたのはもう深夜を過ぎている。今日も川口先輩の夢を見ながら就寝するのであった。
 二日目の朝を迎えた。いよいよ今日は実習先の精神科病院での実習が待っている。由美は午前6時に起床した。まだいつもより1時間早い。実習先までは父親の車での送迎。由美は車の運転免許は習得したばかりで、交通事故を心配した父は会社の出勤前に送っていく事に。実家はミカン農家であるが、祖母たちがまだ元気でやっている。
 1時間早く着いた。病院は最近立て直ししたらしく。近代的な作りの外観にびっくりした。「えっ」これが精神病院かと。
 どこからか奇声が聞こえてくる。精神病院には身体拘束する隔離室と言う所がある。現在でもインドネシアに行くと。まるで檻の中の動物園の様な部屋が実在すると言う。出勤の時間になり女性3人の実習生が揃った。3人は事務所に寄り手続きをすると、デイケア室と言う部屋での2週間の研修計画を渡され部屋に向かった。すると患者さんたちが集まって来て色々と質問をして来る。9時になると精神科医がやって来ての軽い診察が始まる。
 相馬龍太郎は順番を待ち椅子に座っている。その横に田中由美がやって来た。龍太郎はその顔立ちを拝見して。若い頃に結婚の約束をした康子に似ている。思わず思い出して、ひとり笑みをこぼした。すると由美がニコッと笑みを返した。龍太郎は軽く挨拶をしたが、それ以上の言葉を発する事はなかった。
 相馬龍太郎はやがて還暦を迎える。40年に渡る長期精神病院内の敷地で生活していた。しかし、そんな風貌を感じさせない雰囲気に満ちた身体をしている。由美の目にはそう感じたのである。
 由美達は午前中のプログラム。書道に参加した。みんな筆が達者なのには驚いた様子である。そこへひとりの利用者さんが駆け寄ってきた。
 「今日は午後から体育館でシンガーソングライターのミニライブがあるよ」とチラシを見せてくれた。それを見た由美は思わず「えっ」と叫んでしまった。
 「川口学のミニコンサートであった」由美の身体が震えた。今までに味わった事のないような衝撃である。「実習生さんどうかしました」声を掛けたのは相馬龍太郎である。龍太郎は書道には参加せずに周りにあるソファに横になっている。由美は「すみません」と言って隣に座り横になった。龍太郎は重たい口を開いた。
「実習生さん名前は」
「田中由美です。大学3年生です」
「私はもう40年間。この病院にお世話になっています」
「あなたの顔に見覚えがあるんです」
龍太郎の脳裏には淡い過去の想い出が浮かんでくる。
「奥さんですか」
「結婚するはずだった」由美は思わず。川口先輩の事を浮かべて、年甲斐のない妄想にかられ。思わず「私も、どこか町で逢った気がしました」二人はお互い瞳を見つめて苦笑いをした。
「書道やらないんですか」
「字を書くのが苦手で。音楽を聴くのは好きです」
「何を聴くんですか」
「最近は、三代目なんて聴いてます」すると由美が「私も好きです。結構。ノリノリじゃないですか」龍太郎は照れたように苦笑いをして見せるのである。龍太郎は珍しく言葉がポンポンと弾んでくる。すると由美が「誰が好きですか」龍太郎は「今市の看板野郎が好きだ」と答えた。時計を見るとお昼近くになっている。由美は午後のプログラム。川口学のミニライブに同行出来るらしい。

     ミニライブ

 「一緒に行きませんか」声を龍太郎に掛けてきたのは由美であった。由美は質問した。「相馬さんはどんな人なんですか」龍太郎はボソボソと語りだした。「初めて精神病院と出逢ったのは18歳の頃だった。九州から東京へ上京してきて病気になって入院になり。両親も兄弟もなく親戚にも見放されて。とうとう退院することが出来なくなった。退院してグループホームでの生活になり2年目かな。全く人との会話は拒んだ。ひとりで毎日。読書にあけくれたよ」龍太郎は口が精神薬の副作用で乾くとちょっとろれつが回らくなるがなんとか言葉を続けた。
「由美ちゃんはどんな感じの女性」
「私。古風なんですよ」
 川口学のミニライブ会場は病院の隅っこに位置している体育館である。龍太郎と由美は次第に打ち解けていった。
「やあ」声を掛けてきたのは入院歴50年の森山さんである。毎日将棋ばかりやっている。手には駒を打つ手に大きな豆の跡が付いていて固くなっている。
「森山さん。退院しないのか」
「もう死ぬまでここでご臨終だよ」と笑顔で答える二人に安堵感を覚えた由美である。
森山さんが「ところで、学生さん。彼氏は」
「いませんよ」
「そうか」
由美は顔を赤らめて「私。川口学のミニライブと聞いてビックリしました。私、ファンのひとりなんです」その会話を聞いた。入院歴5年の今田君25歳が「今から、楽屋に連れて行くよ」今田君は幻聴がひどくたまに大きな声で幻聴さんとお話をする病院内では有名人である。彼は今日は、ミニライブの前座でカラオケを披露する。そこで、川口学と打ち合わせが待っていた。由美はこれも勉強だと遠慮せずに楽屋に連れて行ってもらった。
 楽屋には数人の職員がいた。奥の方からやって来たのは川口学であった。福山雅治似のイケメンである。由美は「おはようございます」と声を掛けた。学はかすかに顔が見えるらしい。由美の顔を見て「おはよう」と返した。隣には母親らしき人がいる。
「学。よく、ライブに来てくれてるお嬢さんよ」
母親は、由美の顔を知っている。由美は感動に酔いしれた。これが。由美が川口学と初めて交わした言葉である。
 ライブは始まり。今田君のカラオケ。年齢に似合わずに披露した歌はアリスの冬の稲妻である。彼は熱唱した。入院中に鍛えた喉を歌い終え。観客の中に消えていった。
 ライブが終わり。椅子から腰を起こそうとした時に由美の側に学のお母さんがやって来た。「これ、次のライブのチケットです」と前売り券を渡した。その光景を見ていた龍太郎は。そっと声を掛けた。
「よかったね」