◆第三章【夕食後】波浪

 今宵も、我が家の茶室が鳴く。
 困りごとを抱えた妖怪がやってくる。

 そわそわする。
 なんだかそわそわする。
 夕食後、ソファーに寝転がりうとうとしていると微かに祭り囃子が聴こえてきた。
「茶室に客人だ。なんだろう、狸囃子《たぬきばやし》かな」
 朔馬は茶室の方を向いていった。
「狸囃子って、なんか聞いたことあるな。うっすら祭り囃子が聞こえるのは、気のせいじゃないってことか」
 凪砂はいった。
「狸囃子は有名な妖怪というか、よくいる妖怪だよ。祭り囃子は鳴ってるね」
 朔馬はそういいながら立ち上がった。
「実害がある妖怪?」
「それほどはないかな。祭り囃子で人間を誘い出して、見たことのない場所につれていくんだ」
「なにが目的なんだ、それ」
「そうやって誘い出した人間が正気になった時に、困った様子をみて楽しんでる」
 なにを楽しいとするかは千差万別である。
 凪砂が立ち上がったので、私もゆらりと立ち上がった。
 妖怪に関しては、朔馬だけで対応できることが多い。しかし私たちは可能な限り、そういう場面に同席するようにしている。朔馬一人でそれらに対応した場合、おそらくそれは彼一人の物語として完結してしまう。それをくり返したとて、私たちの関係は大きく変化をしないかも知れない。しかし私も凪砂も、当事者としてその場にいるべきだと、そう思っている。

 私たちは茶室にいき、にじり口を少しだけ開けた。
 するとそこは勢いよく開かれ、するすると黒い小さな獣たちが入ってきた。その獣らは、四匹の黒いタヌキのようであった。
「こんばんは」
 朔馬がいうと、タヌキたちは「こん、ばんは」とそれぞれにいった。
 そのタヌキたちは朔馬が予想した通り、狸囃子であった。
 狸囃子は人語が得意ではないらしく、事情を聞くのに時間を要した。それは根気のいる作業であったが、私たちは辛抱強くタヌキたちの話を聞いた。
 要約すると、狸囃子は「ヨスケ」を探しているとのことであった。
「おと、した。おとした」
 狸囃子はそれぞれにいった。
「いまいち分からないけど、ヨスケを探すしかないな」
 一緒にヨスケを探そうと朔馬が提案すると、狸囃子は満足そうに茶室を後にした。



 理玄から「狸丸と遊んで欲しい」と連絡があったのは、その翌日のことだった。

「赤丸と関係してるか分からないが、民家の離れに妖怪のタヌキがいたぞ」
 赤太郎を追いかけていった狸丸は、そういって戻ってきた。
「どんな様子だった?」
 理玄はいった。
「寝てたから、刺激しないようになにもせずに帰ってきた。しばらくはそこにいると思う」
 狸丸に正確な場所を聞くと、そこは理玄が予想した通り原さん宅のようだった。
「赤太郎は?」
 凪砂はいった。
「用が済んだから食べた」
 狸丸は当然のようにいった。
「食べれるのか」
「仕事をした鬼灯は美味いぞ」
「どうする? タヌキを起こして、話を聞いてみるか。この赤丸の件と、狸囃子の件、どちらかが解決する可能性はあるだろ」
 理玄は朔馬に聞いた。
「でも寝ているタヌキを起こしてもいいことはないから、どうしようかな」
 タヌキの寝起きがよくないらしいことは学びである。
「日本って、勝手に人の家に入ったら犯罪になるんだっけ」
 朔馬は私たちを見た。
「それについては、だいたいの国が犯罪になるぞ。でも妖怪が住みついてる場合、話は変わってくるかもな」
 理玄が答えると朔馬は再び「どうしようかな」と、思考を巡らせた。
「明日、理玄の棚経についていってもいいかな。もちろん朧面《おぼろめん》で、姿は隠すよ」
「それは構わないけど。でも夏休みとはいえ、君らは学校があるんだろ」
「そうだけど、こっちを優先するよ。茶室の依頼だから」
 朔馬はきっぱりといった。
 しかし私は、朔馬に学校をサボらせることには抵抗があった。それは皆も同様らしく「それでいいのだろうか」という表情を浮かべた。
「私が代わりにいこうか。様子をみることしかできないけど」
 私はいった。
「お姉ちゃんは学校ないんだっけ」
「うん、女子部は普通に夏休み」
 理玄は「どうする?」と、凪砂と朔馬をみた。
「ハロに任せようよ。狸囃子とは無関係な可能性もあるし、学校はサボらない方がいいと思う」
 凪砂がいうと、朔馬は「わかった」と即答した。



 その日の夕食後、私たちは定位置のソファーで海外ドラマを観賞していた。

「わからない言葉あった?」
 朔馬が携帯端末を手にすると、凪砂はいった。朔馬はわからない言葉が出てくると、私たちに聞くより先に自分でそれを調べるためである。彼のそういう姿勢は見習いたいものである。
「プロムって、なんだろうと思って」
「あー俺もよくわかんないけど、なんかダンスパーティって感じだったと思う。日本にはない文化だけど」
「日本にはないんだ?」
「ないよ。日本だとなんだろう、盆踊り?」
 凪砂は私を見た。
「盆踊りと、宴会の間くらいじゃない?」
 私はそういってみたものの「なにかちがうな」と、凪砂と首を傾げた。
「間というより、盆踊りと宴会の上位互換みたいな感じかなぁ」
 凪砂はいった。
 ネノシマで生まれ育った朔馬は、日本の文化に慣れていない。そのため、こうして海外ドラマを観る機会もなかったのだろう。私たちがなんとなく通り過ぎている言葉にも、朔馬は純粋に疑問を持つ。
 朔馬がうちに住むようになってから、凪砂はリビングにいる時間が増えた。私は眠る以外のほとんどをリビングで過ごしているが、凪砂はいつの頃からか自室で過ごすことが多くなっていた。必然的に会話は少なくなり、私はそれをなんとなくさみしく思っていた。
 しかし朔馬の存在によって、凪砂と私のわかりにくい反抗期のような何かは唐突に終わりを告げた。
 妖怪と少しだけ親しくなったことより、雲岩寺でバイトを始めたことより、家族や学校の変化の方が私にとってはよほど大きい出来事である。

 玄関の方から微かに音がしたかと思うと、ガチャリとリビングのドアが開かれた。
 私たち三人の視線を確認した後で、毅は「ただいま」といった。なぜ今ここに毅がいるのか理解できないまま、私たちは反射的に「おかえり」と口にした。
「明日、朝練ない日か。毅、プロムってなにか分かりやすく朔馬に教えて」
 凪砂はいった。
「人工知能に話しかける感じでくるな。俺がなんでも知ってると思ってるな」
「それは思ってないけど、知ってるだろ。プロム」
「プロム、プロムか」
 毅はそういってテレビのリモコンを持った。
 テレビ画面は唐突に暗くなり、入力切り替えの選択肢が現れた。私たちの見ていた海外ドラマはなんの断りもなく中断されたわけである。
 毅は私たちが何を観ていたのかは興味の範疇にないらしく、さっさとゲームを起動させた。
「高校の卒業の時期に開かれる、男女ペアのフォーマルなダンスパーティだな。ちょっと上品な集まりって感じか」
 毅は簡潔にいった。私たちの要領を得ない解答が恥ずかしくなるほどには、わかりやすい説明であった。
「今の時代、男女ペア限定ってこともないかも知れないけどな。とにかくペアで参加する必要があるから、海外ドラマだと地獄みたいな描かれ方することが多い」
「地獄か、なんでそんなことやるんだろうな」
「学校行事なんて、なんでそんなことやるんだってことばっかりだろ。体育祭のPTAリレーってなんなんだろうな。あの種目でアキレス腱切った保護者って、結構いると思うぞ」
「たしかに毎年いる気がするな」
「なんでプロムの話になったんだ」
「毅がいってた海外ドラマみてたんだよ」
「へぇ。プロムのあたりってことは……エダが怪我したあたりか。あいつが同級生だったら、たぶん仲良くなれてたと思うわ」
「誰も怪我してなかったぞ。ネタバレしたな。いや待て、エダってどの人だ」
「たぶんまだ出てきてないよ」
 朔馬はいった。
「なんだ。これから出てくるのか」
「いや、俺が作り出した架空の人物だから、絶対出てこない。出てきたら教えて」
「出てきたら絶対教えるわ。俺ゲームの前に、ちょっと風呂入ってくる」
 凪砂はそういってソファーから立ち上がった。
 私も海外ドラマの件は一旦忘れて、編み物の続きをしようと思考を切り替えた。
「風呂って、二十分くらい?」
「十分くらい。先やってて」
「わかった。朔馬、このステージで対戦な。やったことある?」
 毅はそういって、朔馬にコントローラーを渡した。
「そこは初めて」
 朔馬はコントローラーを受け取って、毅の隣に座った。
 私は壊滅的にゲームのセンスがなく、幼い頃に何度毅に罵倒されたかわからない。そのせいか私はまったくゲームに触れない子どもになった。
 朔馬はゲームに触れて二ヶ月程度であるが、おそらく毅に強くなにかを言われたことはない。毅が穏やかにゲームを教えている姿をみると、幼い頃の自分が少しだけ報われたような気持ちになる。

「帰ってくる時、武藤ちゃんと同じ電車だったんだけどさ、補講の後も自習してるらしい。知ってた?」
 朔馬は「知らなかった」と首を振った。
 武藤ちゃん。おそらく武藤歌衣のことである。
「進学部の女子って、俺たちが思う以上に勉強してる感じするわ。ハロも勉強はしておいた方がいいぞ」
 毅は私に背を向けたままいった。
「武藤さんって、同じクラスなんだっけ?」
 私は毅の軽口を無視していった。
「そうだよ」
 つまり、うちの中学から進学部へ進んだ者は全員同じクラスらしい。

「そういえば、ハロってさ」
「うん?」
「あー、待って」
 その後、毅は長く沈黙した。沈黙というより、ゲームに集中しているといった方が正しい。ゲーム中に話しかけてもいいことはない。よくあることなので、私は気にすることなく編み物を続けた。
「なんだっけ、なんか話してたよな」
 しばらく経ってから毅はいった。
 私が思考を巡らせるうちに「あっつい」といいながら、凪砂がリビングに戻ってきた。
「あ、走るの忘れて風呂入っちゃった」
 凪砂はそういいながら、冷蔵庫に向かった。凪砂は最近、日が暮れてから浜辺を走ることを日課にしている。
「走ってからまた風呂入ればいいだろ。朝走るのは、やめたのか」
「俺は起きれないからやめた。朔馬とハロは毎朝走ってるよ」
「明日は俺も走るわ」
 私と朔馬は毎朝走る習慣があるが、一緒に走っているわけではない。しかし毅が「五時半集合な」といったので、私たちは了承した。
 そうするうちに、私も毅も先程までなんの話をしていたのかは忘れてしまった。