◆第二章【赤】理玄

 夏になるとお祓いの依頼が増える。
 凪砂に「なんで」と聞かれた際、理玄《りげん》は「一部の人間が暇になるから」と答えた。理玄のいう「一部の人間」とは主に学生、学校関係者を指している。
 しかし改めて考えると、そうでもないのかも知れない。
 気温が上がることによって、単純に生物が活動的になるせいかも知れない。

「最近この辺の人が、変な虫に刺されてるんですよ」
 理玄が棚経《たなぎょう》を終えると、夫人はスイカと麦茶を出してくれた。この時期はよく出される組み合わせである。
 八月に入ると棚経に出向いても、あらかじめお茶を断ることが多い。周らなければならない家が多く、檀家の方もそれを理解しているためである。
 しかし七月末のこの時期は、お茶を断るかは微妙な時期である。理玄の性格なのか、僧侶の性なのか、出されたものに手をつけないという選択肢はない。理玄は出された麦茶をありがたく口にした。
「変な虫とは、なんとも興味深いですね」
 理玄がいうと夫人は「ふふ」と楽しそうに笑った。
 子育てを終えた者はよく微笑んでくれる印象がある。それは目の前の夫人も例外ではなかった。
「刺された痕が、小指ほどの赤丸になるんです。腫れたり、かゆみが出たりすることもなくて……なにより妙なのが、噛まれた痕というか、針の痕がまったく見当たらないんです。本当に、ただの赤丸だけが残ってるんです」
 たしかに妙な虫である。
「痛みなどはあるんでしょうか」
「それはありませんでした。でもなぜか虫に刺されたという感覚は、しっかりあるんですよ」
 その口ぶりから、夫人も刺されたのだろう。
 理玄の意を察してか、夫人は「私も刺されたんです」と左腕を見せた。
「ここです」
 そこにはくっきりと赤丸が残されていた。虫刺されと聞かなければ、朱肉に触れたくらいにしか見えないものである。
「夫も、ふくらはぎの辺りを刺されていました」
「刺された感覚というのは、具体的にどんな感じなんでしょう」
「なんだかポンと触れられたような、つつかれたような、そんな感覚でした」
 夫人の腕に残る赤丸は、かぶれている様子もない。
「不便はないのだけど、なかなか消えてくれないんです」
「ご近所の方も、同じく刺されているんですか」
「ええ。お隣も、そのお友達もって聞きました。みんな形も大きさも、コレくらいみたいです」
 夫人はその虫に困っているというわけではなく、話題の一つとして提供してくれたようである。

 玄関先まで見送ってくれた夫人に頭を下げて、理玄は近くに停めてある原付きへと向かった。
 普段は車で移動しているが、棚経の時期は駐車に不便しない原付きで行動している。おそらく世の僧侶の大半がそうである。
 原付きにまたがりヘルメットをかぶる際に、スネの辺りをつつかれたように思った。
「なんだ?」
 切袴をめくると、スネには小さな赤丸がくっきりとあった。さきほど夫人の腕で見たそれと相違ないようである。
 理玄がその赤丸に触れてみると、パンッと破裂音がした。
 ただの虫ではないと、直感するには充分な異変であった。



「この痕に触ると変な音が鳴ったんだ。もう何日か前の話だけどな」
 理玄は狸丸《たぬきまる》に、スネに残る赤丸を見せた。
 狸丸は興味深そうに、ちょんちょんと前脚で理玄の赤丸に触れた。しかし狸丸が触れても、もう妙な音は聞こえなかった。
「なんだ? 微かにタヌキの臭いがするぞ」
 タヌキであるところの狸丸はそういって、赤丸にくんくんと鼻を近づけた。
「じゃあコレは、タヌキの仕業か」
 理玄は縁側にあぐらをかき、赤丸を見つめた。
「そうだとしても、変なことが起こるわけでもなさそうだけどな」
 理玄は伸びをして、卒塔婆を書く準備をした。時間があれば卒塔婆を書いているが、書いても書いても終わらないのがこの時期である。
「でも、こんなことをするタヌキなんて、聞いたことがないぞ」
 狸丸は首を傾げた。
「タヌキの匂いと、この赤丸は無関係ってことか。それは考えにくいだろ」
「そうだけども」
 理玄は狸丸と顔を見合わせたが、答えが出るでもなかった。
「朔馬たちを呼んで、協力してもらおう」
狸丸はそういって目を輝かせた。
自らと遊んでくれる朔馬と双子は、狸丸のお気に入りである。
「誰からも依頼されてないし、俺も困ってないし、来てもらうまでもないだろ」
 理玄がいうと狸丸は抗議するように、地面に寝転がり「朔馬たちと遊びたい!」と脚をバタバタさせた。おそらくこれが本音である。
「高校生も暇じゃないって、凪砂に釘刺されてんだよ」
 理玄はそういいながら、足の裏でもふもふと狸丸のお腹をなでた。
「でも今は暇かも知れない!」
 狸丸はさらに駄々をこねた。
 現在は午後五時半である。狸丸の腹に置いた自分の足を見つめると、見慣れない赤丸がくっきりとある。それが気にならないといえば嘘になる。
「暇かどうか、聞くだけなら聞いてみるか」
 理玄がいうと、狸丸は起き上がり「うんうんうん」と嬉しそうに首を振った。



 三人に連絡を入れると、暇だからとすぐに雲岩寺《うんがんじ》に来てくれた。
 それから三人は狸丸に誘われるままに、山へと消えていった。狸丸が三人とどんな遊びをしているのかは不明であるが、楽しそうなのでなによりである。
 ひとしきり遊び終えたのか、三十分もすると三人と一匹は「暑い暑い」と理玄のいる縁側に避難してきた。ところどころ汚れているが、前回のように泥だらけではないので理玄は内心ほっとした。
 理玄は卒塔婆を書く手を止めて、三人と一匹にスイカを出した。
 それから理玄は、自分の身に起きたことを三人に共有した。
「で、その直後、俺もその虫に刺された」
「赤丸も気になるけど。なんでこんなに足がきれいなんだ?」
 凪砂は理玄のスネを見つめていった。
「きれいだろ。脱毛済み」
「なんでだよ」
「原付きで転んだ時に、ない方がいいと判断した。思いのほか快適だな」
「サッカー部もそんなこといってたな」
「呪いでもなさそうだし、なんだろうな。音が鳴ったのは、最初だけ?」
 朔馬も理玄の足をじっと見つめた。
「そうだな、最初だけだった。そういえば狸丸いわく、タヌキの匂いがするってことだったな」
 理玄が「そうだよな」と、縁側の下にいる狸丸にいうと「匂いがしたぞ!」と返ってきた。
「危険はなさそうだけど、タヌキの匂いと、音か。狸囃子《たぬきばやし》と関係してる可能性はあるかな」
 朔馬がいうと、双子は「ああ」と納得したようにいった。
「そっちもなんかあったのか」
 伊咲家の茶室は現在、妖怪の駆け込み寺として開放している。
 理玄はその事実だけは把握しているが、それがどれほど稼働しているのかは何も分からない。
 朔馬たちは先日、茶室に狸囃子が訪れたのだと理玄に説明した。
「人語が得意な妖怪じゃなかったから、よくわからなかったけど。ヨスケを探してるから、一緒に探して欲しいってことだった。とにかく、おとしたって連呼してた」
 見鬼《けんき》といえど、みえる妖怪すべてと意思疎通が図れるわけではないらしい。
「ヨスケって、摺鉦《すりがね》のことか」
 理玄がいうと、三人はそれを知らなかったらしく「そうなの?」とピンとこない様子であった。
「ほら、これ。四助《よすけ》。お囃子には欠かせない楽器だろ」
 理玄は携帯端末の検索画面に現れた四助を見せた。
 三人は「へぇ」と感心したので、理玄はその反応に満足した。
「協力できることがあればするけど、して欲しいことあるか」
 三人を格安で雲岩寺のバイトとして雇っている自覚があるので、理玄は提案した。それに協力をして赤丸が消えるのであれば、一石二鳥でもあると考えていた。
「三人になら、狸丸も協力するよな」
 理玄がいうと、狸丸は縁側の下から「いいぞ!」と威勢よくいった。
 朔馬は意見を求めるように双子を見つめた。双子は「頼ってみてもいいのでは」という感じに朔馬を見つめ返した。
 三人に上下関係があるとは思っていないが、朔馬は自分の判断以上に双子の判断を優先させているように思う。そしてその朔馬の信頼は、双子も自然と教授しているようである。
 日本の生活に慣れていない朔馬にとっては、彼らから学ぶことも多いのだろう。

「理玄に赤丸がついた場所にいってみたい。もちろん狸丸も一緒に」
 それくらいならお安いご用である。



 理玄は目的地付近のひらけた場所に車を停めた。
「俺に赤丸がついたのは、あの家のすぐ近くだったな」
 理玄はそういって、車から見える民家を指した。
「外に出てみていい?」
 朔馬はいった。
「もちろん」
 日が傾いているとはいえ世界はまだ明るく、そして暑い。
「景色として見たことはあっても、この辺を歩くのは初めてだな」
 車を降りると凪砂はいった。
「この辺の庭、みんな百日紅があるね。白い百日紅がある」
 波浪はいった。
 この辺は一戸建てばかりで、どの家にも大なり小なり庭がある。
「白好きなんだっけ。俺はあの家の、桜くらい薄い色が好き」
 凪砂はいった。
「俺は真っ赤な百日紅が好きだな。朔馬は?」
 理玄はいった。
「俺は藤色かな」
 朔馬はいった。
「こっちだ。こっちに、いいものがあるぞ!」
 理玄たちが話していると、遠くで狸丸の声がした。知らぬ間に散策していたようである。
狸丸は「こっちだ!」と背の高い雑草の中から顔を出した。理玄らは、そちらに歩き始めた。
 雲は黄金色に輝き、空は薄紅や紫が入り混じった色をしている。
 一歩踏み出すごとに、土や青い植物の匂いがする。知っているはずの場所であるが、側に誰かがいるだけで、世界がちがう表情を見せるので不思議なものである。
 理玄は幼い頃から、人には見えないものを見たり感じたりしていた。それを分かち合えるものは、この三人に出会うまでいなかった。三人とは学年的には十二ほど離れているが、話しやすいと感じることも多い。
 しかし三人については、どう思っているのかは謎である。そもそも三人は理玄よりもかなりはっきりと、そういうものが見えているようである。そのため理玄は三人をバイトとして雇っているのである。
 同じ世界が見える者にもっと早く出会っていたら、今の自分とは少し違っていたのかも知れない。しかしそんな出会いはなかったのだから仕方がない。
 それでもこの三人を見ていると、人となにかを共有できるというのは理玄が思う以上に重要なことだったのかも知れないと思う。

「これだ、これがある!」
 狸丸はどこにでもあるような鬼灯を指した。
「鬼灯《ほおずき》だな」
 凪砂はいった。
「鬼灯があれば、アレが作れる。タヌキを探すのに役立つやつだ」
 狸丸はいった。
 スネに残る赤丸をつけたのは、タヌキの可能性が大いにあると考えての提案なのだろう。三人は「そんなことできるんだ」「すごいな」「便利だね」とそれぞれいった。
 狸丸は得意げに「そうだろう」というと、鬼灯を一つちぎって器用に剥いた。
「タヌキ探しに役立つ、アレってなんのことだ?」
 理玄は聞いた。
「え? えっと、あか、赤太郎」
「今、思いついただろ」
 理玄がいうと、狸丸は「うん」と素直に認めた。
 狸丸は剥いた鬼灯を口の中に入れると、すぐにぺっとそれを吐き出した。
「豪快だな」
 凪砂はいった。
「苦いよね」
 波浪はいった。
「食べたことあるんだ?」
 朔馬はいった。
「食べたっけ?」
「口に入れただけだったと思う」
 波浪はいった。
 それがいつの出来事なのかは分からないが、女の子といえど波浪も年相応に変なことをするらしいと、理玄は学びつつあった。
「で、どうなったんだ。赤太郎は」
 理玄が聞くと、狸丸は「いい感じだ」といって地面をタシタシと叩いた。すると吐き捨てられた鬼灯は薄く発光して起き上がった。実の部分が頭で、裂いた萼の部分が四肢になっている。
「これ、赤太郎」
 狸丸が得意げにいうと、三人はそれぞれに狸丸を褒めた。
「便利そうだけど、なんで俺は今まで赤太郎を知らなかったんだ」
「タヌキ探しをすることなんて、今までなかったろ」
 それはその通りである。
「俺たちも人間の方が探しやすいし、タヌキはタヌキの方が探しやすいんだと思うよ」
 朔馬はいった。
 たしかに野生動物を探すよりも、人間を探す手段の方が多い。同族を探すには、同族が一番なのだろう。
「赤太郎に、赤丸を嗅がせてくれ」
 理玄が切袴をめくると赤太郎は四足歩行でそこに近づき、赤丸の辺りをくんくんと確認した。狸丸が赤太郎になんらかの指示を出すと、赤太郎はしっかりと頷いた。赤太郎はそわそわしながらも、何かに気づいたように歩みを進めた。

「タヌキが近そうだな」
 民家に近づくと赤太郎の動きは速くなっていった。その様子を見て狸丸はいった。
 それから少しすると、赤太郎は人間が入ることのできない壁の隙間に入っていった。
「さすがに入れないな。狸丸、頼んだ」
 狸丸は「今日は唐揚げだ!」といって、赤太郎を追っていった。狸丸は基本的にいつも唐揚げを所望する。
 赤太郎と狸丸が進んだ方向には、理玄の知る家があることにはすぐに気がついた。
「原さんちの方にいったな」
「知ってる家?」
 朔馬はいった。
「明日、棚経にいく予定の家だ。年配のご夫婦の家だよ」
「タヌキは基本的に人が好きなんだ。実害を出すことは、ほとんどないよ」
 理玄が不安そうな表情をしていたのか、朔馬はいった。
「そういってもらえると、心強いな」
「でも、実害がなくても、原因不明のことがあるだけで、人ってストレスを感じるんだよね。最近、やっとわかってきた」
 朔馬はぽつりといった。
 朔馬が伊咲家に住むに至るまで、どんな人生を歩んできたのか理玄には想像もつかない。
 しかしあまり人と関わらずに生きてきたのではないかと思う。
 日本の十五歳の多くは、学校という場に身を置いている。学校は近所に住んでいるというだけで、あるいは学力が同程度というだけで、狭い教室に押し込まれる。いやがおうでも人と関わらずに生きることは難しい。
 それらの日々を振り返ると、とても窮屈で、そして貴重な日々だった。
 しかし朔馬は今まで、そんな機会がなかったのではないか。
 そんな風に感じることがある。