第二章 【やきそば】 凪砂

 眠りの中で、朔馬と波浪がリビングからでていく気配がした。
 二人の足音が遠ざかっていく。
 おそらく茶室に向かったのだろう。
 妖怪たちの駆け込み寺となった我が家の茶室。最初の客に興味はある。しかしそれ以上に眠かった。
 この疲れは、先ほど抜刀したことが無関係ではないだろう。肢刀(しとう)を正しく使ったのは、今回が初めてである。鬼虚を斬った感触は微かにある。これで人の役に立てるなら、それもいい気がする。僕がネノシマの皇族の血を引いているとしても、自分にできることが急に増えるわけでもない。朔馬のように努力や経験を積み重ねた者でなければ、強さみたいなものは手に入らない。
 そんな当たり前のことを眠い頭で思い知る。
 意識がいつ途切れたのかわからない。二人がリビングに帰ってきたことで、僕は眠りから覚めた。
「茶室に、 誰かきたの?」
 僕は目を閉じたままいった。僕の声は想像よりもかすれていた。
「うん。でも、ついさっき帰ったよ」
 僕の問いに朔馬が答えた。
「いいな、俺も会いたかった」
 僕は上半身を起こした。
「そうなの? 起こせばよかったな」
「いや、ごめん。起こされるほどではないかも。どんな客がきたの?」
「キツネだった」
「野生のキツネ? 狸丸みたいな感じ?」
「そんな感じだったよ」
 キツネの相談は「見慣れぬ妖狐がいて困っている」というものだったらしい。
「なんで困ってるんだ?」
「神社のお供えを独り占めするんだって。このままだと周辺のキツネはみんな元気がなくなるから、困るって」
「神社のお供えって、そんなにあるの?」
「物質的なものじゃなくて、キツネたちは神社で英気を養ってるとか、そんな感じじゃないかな。とりあえず明日は、稲荷社の前で待ち合わせすることになったよ」
「放課後? ついていこうか?」
 自分が現場にいくことで、役に立てることがあるとは思っていない。だからといって、朔馬を一人にさせることを当たり前にはしたくなかった。
 それはおそらく波浪も同じ気持ちなのだろうと、僕は思い込んでいる。
「俺、明日も掃除当番だけどいい?」
 朔馬はいった。
「いいよ。待ってるよ」
「ハロは? どうする?」
 朔馬は波浪にいった。
「連絡くれたら、合流しようかな」



「返信こないなぁ」
 朔馬はぽつりといった。
「寝てるって。絶対、昼寝してるよ」
 波浪には僕たちが学校をでた時点で、最寄り駅の到着時刻を連絡した。しかし返信がないまま、僕たちは駅に降り立った。
「自己責任だし、いってるよって連絡だけして、置いていこう」
 駅から自宅までそう遠くないが、あまりに暑いので極力歩きたくなかった。朔馬は一瞬だけ悩んだようだったが「わかった」と、すぐに思考を切り替えた。
 僕たちは日陰の少ない道を歩き始めた。
 十分も歩かないうちに「たぶんここだ」と朔馬は足を止めた。
「坂を上りきる前の稲荷社っていってたけど、祠(ほこら)だな。でもここだと思う」
「こんなところに祠があったんだな」
 その祠は通り沿いに存在していた。祠の隣にある電柱と、祠を囲うように生い茂る榊(さかき)が、その存在を希薄にさせていた。
 朔馬はなにかに気づいたように視線を上げた。祠の背後には、キツネひょっこりと顔をだしていた。
「あ、こんにちは」
 僕がいうと、キツネも軽く頭を下げて「こんにちは」と返した。
「昨日の、人間と、ちがう?」
 キツネは首を傾げた。
「うん。昨日の人とはちがうよ。でもこの人も見鬼なんだ」
 朔馬は小さな子どもにいうようにいった。人語をあやつるのが、狸丸ほど得意ではないのだろう。キツネは朔馬を見つめてうなずいた。
 そして「こっちです」と祠の奥へ進んだ。僕たちは招かれるまま、森の中へ足を踏み入れた。
 森の奥へ進むにつれ、キツネの数は増えていった。
 しばらく歩いて辿り着いたのは、それなりに整備された神社の裏だった。
「すみません。今、正面から、入れないので、遠回りしました」
 案内役のキツネはこちらを向いた。
「いいよ。ここに妖狐が現れるんだな?」
「そうです」
 すると社殿の方から、顔を和紙で隠したキツネが現れた。
「はじめまして、ここの稲荷神です」
 稲荷神にならって、僕たちもそれぞれ挨拶をした。
「わざわざ、ありがとうございます」
 稲荷神は頭を下げた。
「夜に妖狐がでるってことだよな?」
 朔馬が妖怪や神様に敬語を使わないことは、なんとなくわかってきた。
「そうです。昼間はおそらく、正面の狛狐を依代にしています」
 キツネたちは一同に、神社正面にある狛狐を指した。
「あそこに妖狐がいるから、正面から入れないってことか」
 キツネたちは一同にうなずいた。
 僕たちが正面の様子を見にいくと、見逃せない異変があった。
「狛狐がくわえてる巻き物、光ってるよな?」
 僕は確かめるように朔馬にいった。
「光ってるね」
 朔馬はそういうと、ためらうことなく狛狐の台座にのぼった。
「いいの?」
 朔馬は「大丈夫、大丈夫」と軽い感じで答えた。毛虫を平気で触る、幼い日の毅を彷彿とさせる姿であった。朔馬は普段おとなしい印象があるせいか、こういうことをされると無駄に驚いてしまう。
「妖狐がいる気配がするけど、少し変だな」
「なんでキツネ本体じゃなく、巻き物なんだろう?」
「巻き物は知恵の象徴だったかな。なにか考えてるか、意味はないんじゃないかな」
「意味がない場合もあるのか」
「夜には起きるだろうし、今夜またここに来てみるよ」
 稲荷神たちの元へ戻ると、、朔馬は今夜再びここにくる旨を説明した。
「そういえばこの辺は、鬼虚はでる?」
 朔馬は思い出したように聞いた。
「夜はでます。しかし妖狐がうろつくようになって、ほとんど消えました。妖狐が食ったのかも知れません」

 僕たちはキツネたちと手を振り合い、神社を正面からでていった。
「鬼虚って食べられるの? なんか、よくないものとかなんだろ?」
「鬼虚を食い物とする害妖(がいよう)は多くいるよ」
「理玄のとこで斬った鬼虚も、放っておけば妖怪が食べた?」
「どうかな。あれだけ集まってもそのままだったから、近くにそういう妖怪はいなかったんだと思う」
 それもそうである。
「鬼虚を食べる妖怪は、人間にとってはありがたいよな? 害獣と益獣みたいに、妖怪にも益妖(えきよう)っていないの?」
「いるよ」
「いるんだ? どうやって見分けるの?」
「見分け方はないよ。害獣判断と同じで、人間側のさじ加減だよ」
「改めて罪深いな、人間」
「大きくいえば、狸丸も益妖かな。いや、益獣かな?」
「日本ではタヌキ自体は害獣だったかな。捕獲したり、殺したりするのは禁止されてるけど」
「飼うのはいいの? 理玄みたいに」
「どうだっただろう?」
 不確かなことを朔馬に教えたくなかったので、正確な情報を得るためにポケットを探った。すると画面には、連絡を知らせる通知がきていた。
「理玄から連絡がきてる。勝手に四人のグループ作ってるな」
「バイトの依頼?」
「うん。しかし本当に、理玄のところに依頼がくるんだな」
「俺たちが知らないだけで、困っている人はいるんだろうね」
「茶室にもこうして依頼がきたわけだしな。そういえば体力つけたいから、今夜から走ろうかなと思ってるんだ」
「朝じゃないんだ?」
「朝は起きれないから、あきらめた」
「どこ走るの? 浜辺?」
「うん、浜辺。理玄のことなんだけど、明日の夕方は空いてるか? って。今夜と連日になるけど大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 朔馬は即答した。彼にとって妖怪を相手にするのは日常なのだろう。
「バイト代は、やっぱり半分しよう」
「それはいいよ。俺は俺で、ちゃんとお給料もらってるから」
 朔馬はおそらく僕が想像する以上には、お金を持っているのだろう。それでも何の見返りもなく、彼の力を使っていいものなのかと考えてしまう。
 きっと僕が一番、朔馬の力を頼りにしている。だからこそ、そんなことを考える。



「なんか、背中も痛いんだけど」
「どんだけ走ったんだよ?」
 毅は呆れた声でいった。
「覚えてないけど。結構走ったと思う」
「家にいなかったのは、三十分くらいだったと思うよ」
 朔馬はいった。
「ネギの足だと、四キロくらいか? 最近走ってなかったわけ?」
「高校入ってからは、全然走ってなかった。朝は起きれないし」
「三ヶ月近く走ってなかったんじゃ、そうなるだろうよ」
 毅は真っ当なことをいった。そして「そんな暇なネギにクイズを出してやろう」と、単語帳に目を落としたままいった。
「どう見たら、俺が暇に見えるんだよ」
 僕も朔馬も小テストにそなえて、単語帳を見つめている。
「サクが日本で好きになった食べ物を当てるゲームな。チャンスは三回」
 僕を無視して、毅はゲームを開始した。
「朔馬の好きな食べ物? そういえば、聞いたことないな」
「あ、このゲームが終わるまでサクは話すの禁止な」
 朔馬は毅をみてうなずいた。
「好きな食べ物か」
 僕は真剣に思考しはじめた。
「ちなみに俺は、さっきの体育の時間きいた」
 毅と朔馬は出席番号の都合で、常に同じグループである。審判役をやる間は二人で楽しげに話しているが、毅から余計なことを吹きこまれていないか地味に心配している。
「食パンとか?」
「ちがう。日本で好きになったものっていってんだろ。なんでパンなんだよ」
 学校では朔馬は帰国子女という設定なので毅の反応は当然である。そもそも僕はネノシマにはパンがないと思い込んでいるが、実際はどうなのかもわからない。
「いや、よく食べてる気がしたから」
「伊咲家で食パン出される機会が多いだけだろ」
 その通りである。
「あと二回な」
「つまりパン系ではないんだな? 料理名?」
「料理名だな」
「毅もソレ好き?」
「嫌いではないな。すごい好きでもないけど」
「月見うどんではないわけだ」
「ヒントをもらわずに、ヒントを奪い取っていくスタンスだな」
「一応当てたいからな。たぶん、うちの食卓にでたものだろ」
「大した自信だな。おばさんはそれほど、料理は得意じゃないだろ」
「その言葉、絶対お母さんに伝えるからな!」
「おい、やめろ」
「じゃあ、カレー?」
「失敗しない料理名あげてきたな。ハズレ」
「あと一回か」
「でも案外あたりそうだな」
「あたりそう? じゃあカレーに近い、失敗しない料理って感じか」
「それも大概失礼だな。おばさんに伝えるからな!」
「おい、やめろ」
「でもその読みは正しいとは、いっておこう」
「失敗しない料理か。あ、やきそば?」
「お、正解。もしかして朔馬からやきそばのリクエストされてた?」
「朔馬はそういうことしないし、さすがに頻繁に出されたら嫌いになるだろ」
 朔馬は曖昧な感じでうなずいた。
「夏休みって、やきそば率上がるよな。うちだけ?」
「いや、うちもだけど」
「そういや朔馬は夏休みどっかいくの?」
 毅の問いに朔馬は首を振った。
「あ、悪い。もう話していいよ。ゲーム終了」
 朔馬は「どこにもいかないよ」と答えた。
「どこもいかないか。補講もあるしな」
 教師が教室に入ってくると、生徒たちは一斉に話をやめて黒板を見つめた。
 同じものを見ていても、見えている世界はちがっていることがある。今、この瞬間、僕はそれを強く感じている。
 隣にいる朔馬は、今朝からゆっくりとキツネの姿に近づいている。キツネのような耳は、時間が経つごとにはっきり見えるようになっている。午後になると、尻尾も透けて見えはじめた。
 昨夜、朔馬になにがあったのかを詳しく知らないからこそ、彼になにが起きているのか不安であった。