それから夕餉の時間を迎え、そして朝になっても蛍流とはまともに会話すら出来ていなかった。
 本来の伴侶である和華の手前、食客の扱いとなっている海音は二人との同じ席に座ることを許されず――和華が同席を渋ったというのも大きいが。女中と同等の扱いを受けて、屋敷の主たちの給仕や世話に徹した。
 夕餉の席で泣き腫らした海音の顔を見た蛍流は何か言いたそうに度々口を開きかけたものの、その度に傍らの和華に阻まれては閉口してしまう。そんな和華も海音に対しては冷ややかな侮蔑の眼差しを向けてきたので、蛍流と会話する余裕さえ無かった。先程よりも態度が悪化しているのは、廊下で交わした海音たちの会話を小耳に挟んだのだろうか。終始不機嫌そうにむくれていた。
 海音の願いを尊重してどうにか良好な関係を結ぼうとする蛍流にはそこそこ態度を軟化させるが、海音に対してはあからさまな無視を貫く。その割には事あるごとに海音を呼び出して、用事を押し付けてくるので納得がいかない。
 小間使いのように働かされる海音を哀れに思った蛍流が途中で止めに入ってくれたものの、和華が素直に従うはずが無かった。口先では嫌々準ずる振りをしつつも、蛍流の姿が見えなくなった途端に、また海音を呼びつけては雑用を頼んできたのだった。
 これにより本来なら女中が請け負うはずの仕事も海音が奪ってしまったようで、和華が屋敷から連れて来た女中たちの視線まで痛くなる。ますます居たたまれない気持ちになったのだった。
 夜半になってようやく床に入ったものの、蛍流のことばかり考えてしまい、ほとんど眠れないまま夜明けを迎えてしまう。
 蛍流が朝の日課である神域の見回りと石碑の掃除に出て行くと、海音はそろそろと着替えて庭に出たのだった。

(たった一日でここまで鱗が広がったんだ……)

 空色の紬の袖を捲ると、肩から肘の辺りまで浅葱色の鱗でびっしりと覆われていた。両腕共に隙間なく鱗で覆われているので、どことなく鱗の刺青を入れたように見えなくない。それでも肌に刺す刺青とは違って、触るとひんやりとした硬質な感触が伝わってくる。
 駄目元で爪を引っ掛けて取れないか試すが、本当に海音の身体の一部と化してびくりともしない。これらは間違いなく海音の身体から生える龍の鱗で間違いないのだろう。
 麗らかな春の白い陽光を反射した鱗に、やつれた自分の顔が映る。本当にこれが自分の身体なのか、どこか気味が悪いとさえ思ってしまう。

(やっぱり伴侶でも無いのに、いつまでも蛍流さんの傍にいるのが原因なの?)

 やはり自分と蛍流は決して結ばれない関係なのだと、残酷な現実を突きつけられる。誰よりも蛍流の近くに居て、互いに心を通わせたとしても、国を守護する青龍と異世界から迷い込んだだけの只人では住む世界が違う。まさに身分違いの恋だと思い知らされる。

(こんな苦しい想いをするくらいなら、身代わりなんて引き受けなければ良かった。蛍流さんと出会わなければ、今頃は何の迷いや躊躇いもなく、灰簾家のために輿入れできたのに……)
 
 蛍流と出会ったばかりの頃のようにこの世界について無知なままの海音だったら、相手が親子ほどの年の離れた資産家であろうと、灰簾子爵に言われるがままに嫁いでいただろう。それがこの世界での「常識」だと信じ込まされて、言われるがままに身体も差し出していた。
 けれども今は違う。身も心さえも蛍流以外に触れられたくないと思ってしまう。壊れ物を扱うような蛍流の大きな掌と不器用な力加減が恋しくて仕方がない。
 たった半日距離を置いただけで、こうも愛おしくなるとは夢にも思わなかった。ここに来たばかりの頃、身代わりがバレて小刀を喉に突きつけられた時は、ただ恐怖しか感じなかったというのに。

(ううん。蛍流さんと出会わなかったら、きっと掴まれた手の温かさも腕の中の安心できる温もりも知らずにいた。偶然重なった唇の柔らかさまでも……)
 
 海音の耳朶を打つ心地の良い玉音の声と熱を帯びた艶やかな唇を思い出している内に、海音の目から涙が一筋流れる。白い頬を伝い落ちた涙は朝陽に照らされゆらめきながら、芽吹き始めた地面に吸い込まれたのだった。

「うっ……!」

 突然膝の辺りを針で刺すような痛みが走って、海音は膝を押さえながら小さく呻き声を上げる。痛みはすぐに引いたものの、嫌な予感が止まらなくてそっと裾を捲れば、とうとう腕を覆う浅葱色の鱗が太腿や膝下にも生え始めたのであった。

(どうして……!?)
 
 ハッとしたように息を呑んで、まばらに鱗が生える両足を見つめる。
 せめてもの救いはまだ着物で隠れる場所にしか生えていないところだろうが、顔や手足が鱗に覆われてしまうのも時間の問題だろう。
 蛍流に気付かれてしまう前に、ここを離れなければならない。

(この山を離れたら、きっと鱗も消えるよね……?)

 身体を覆う鱗と蛍流から離れることばかり考えていると、不意に海音の後ろで人が顕現した気配を感じる。腰を上げて後ろを振り向いたのと、左肩を掴まれたのがほぼ同時だった。