「さっきの和華との話を聞いてしまったのだが……」
「話ですか?」
「……灰簾家の娘として輿入れするそうだな。どこぞの年老いた資産家のところに」
 
 残念そうに声を落とす蛍流に海音は「そうらしいですね」と返す。

「いつの間にか灰簾家の娘になっていたみたいで、家のために結婚するように言われました」
「……灰簾家の娘として、今後何不自由なく困らないようにして欲しいと頼んだのはおれだ。それがまさかこうなるとは思いも寄らなかった」
「そうだったんですか?」

 てっきり和華の身代わりを引き受けた都合上、和華の父親である灰簾子爵が便宜を図ってくれたと思っていたが、蛍流の頼みがきっかけだったとは考えもしなかった。
 言葉に詰まって何も言えなくなっていると、蛍流が苦々しい顔で呟く。

「どうしても行くのか。この山を下りて、他の男のところに」
「……ここに居ても、蛍流さんの役には立てませんから」
「おれが居て欲しいと言ったとしても?」
「清水さまが許してくれません。それに和華ちゃんだって……」
「清水も和華もおれが説得する。灰簾家も! それでも駄目だというのか、お前は……」
「駄目ですよ。だって私は伴侶になれないのだから……っ!」
 
 身を切るように声を荒げれば、蛍流に抱き締められる。「行くな」という囁きまで付いて。

「お前の幸せを願うと言った。だがどうしても今は手放したくないのだ。他の男の元に行かせたくない。海音はおれのものだ……。誰よりもお前を幸せにできる自信だってある。どこぞの好色漢に渡してたまるものか」
「蛍流さん……?」
「これが片恋でたとえ泡沫(うたかた)に消えてしまうとしても、お前を恋い恋う想いは抑えられない。この瞬間も濁流のように流れ、激情となって彼方より押し寄せている。こんな感情をおれは知らない。胸を掻きむしられるような遣り切れない想いも。狂おしいほどに焦がれるお前への愛さえもっ……!」
「どうしてそこまで私を想ってくれるんですか? だって私は偶然同じ世界から迷い込んだだけの人ですよ……。蛍流さんに好かれるようなところは何も……」
「おれだって戸惑っている。愛とはここまで理性を奪い、恋い余らせるものなのか。遠くから幸せを願うと格好をつけた矢先に、別れを拒むくらいに分別もつかなくなるのか。この腕の中に永遠に閉じ込めてしまいたいと思うものなのか……こんなこと、一人で無聊を託っている時は考えもしなかった。形代に選ばれたことを今ほど後悔したことは無い。おれが形代じゃ無ければ、この胸に滾る熱情を口に出来るというのに……」

 低い声で唸るように呟きながら、海音を抱く腕に力が込められる。それだけで蛍流がどれほど海音を想い、そして今にも迸りそうな情熱を胸に秘めているのか伝わってしまう。
 伴侶という越えられない壁を前にして、海音だけではなく蛍流も苦悩している。
 恋した人が伴侶じゃないから、愛する人が青龍だから――。

「そんなことを言わないで下さい。青龍の形代に選ばれたことを蛍流さんは誇りに思っているんですよね? 敬愛する師匠さんのようになりたいんですよね?」 
「そうだ。師匠のような堂々たる形代になるのがおれの目標だ。師匠から託された役目を放棄するつもりは無いが、お前を恋い慕う気持ちにも嘘偽りは無い。その目も髪も言葉さえも、何もかもが愛おしい。せめてそれだけは分かってくれ、海音……」

 ここまで弱々しい蛍流を見たことは無かった。蛍流の言う通り、恋とは人を狂わせる曲者かもしれない。
 それでも海音は告げねばならない。
 それはこの世界での自分の身元を請け負ってくれた灰簾家のためでも、一時でも海音を姉として慕ってくれた蛍流の伴侶である和華のためでも無い。
 他ならぬ蛍流と、自分の心を守るためにも――。
 そのために海音は微笑み、そっと蛍流を突き放す。その時の深い悲しみを湛えた蛍流の心底傷付いた顔を忘れることは永遠に無いだろう。
 これも生涯背負い続けるのだ。元の世界への恋しさや未練と一緒に……。