「その……やはり今から下山するのは危険だ。今夜はここに泊まって、明日の朝にしないか。三月といっても夜には寒の戻りもある。途中で野宿するにしても花冷えして風邪を引くことや、山に住まう獣に襲われる可能性もあるだろう。それに野宿した際に、下心を持った下男によって海音が危険に晒されることだって十分あり得る」
灰簾家(うち)の下男が信用できないっていうの?」
「信用の問題ではない。海音とこの山を慮っての言葉だ。ここは青の地を庇護する青龍が暮らす山。不用意に立ち入って山を荒らせば、安息を妨げられた青龍の怒りを買うだろう。下男とその下男を連れて来た和華、ひいては灰簾家に天罰が下るかもしれない」
「天罰なんてどうせ作り話でしょう。そんな脅しが通用するわけ……」
「脅しかどうかは、外を見れば分かるのではないか」

 その言葉で弾かれたように外を見れば、いつの間にか黒煙に似た雷雲が夕月夜を覆っていた。ともすればタイミング良く、咆雷が辺りに轟き始める。
 この雷が怒り心頭に発した蛍流の昂る感情から発生していることに海音は気付く。

「きゃあ!」

 遠くに落ちたのか地雷が響くと、和華は小さな悲鳴を上げながら両耳を押さえて震え始める。この雷の正体を知っている海音は、「大丈夫だよ」と和華の肩に手を置きながらつい声を掛けてしまったが、邪険に払われただけであった。
 そんな和華に蛍流は冷淡にも聞こえる低い声を掛ける。

「これで分かっただろう。この山に住む青龍はお怒りなのだ。自分の住処を荒らすかもしれない下男が、いつまでも山に留まってことを良しとしていない。先に下男だけ帰し、海音は明日の朝にでも信頼できる筋に頼んで、灰簾家に送り届けさせよう」
「明日の朝までにお姉さまが逃げるかもしれないじゃない……。青龍さまと別れたくないからって」
「逃げたところで獣の餌になるか、凍死するだけだ。そんなことは今日までここで暮らしてきた海音も承知している……そうだろう?」

 蛍流の問い掛けに静かに頷けば、和華は「分かったわよ」と小さな鼻をふんと鳴らす。

「本当に明日の朝には出て行くのね?」
「ああ。万が一にも何か起こったら、責任は全ておれが負う。和華は何も気にしなくていい」
「そう。じゃあさっさと出て行ってくれるかしら。いつまでもここにいないで、早く視界から消えてちょうだい」
「分かった……海音、今夜は客間を使ってくれないか。女中部屋は和華が連れて来た女中で埋まってしまったのだ」
「分かりました……」

 そうして蛍流と二人揃って、部屋を後にする。客間には和華が輿入れしてくると聞いた後に蛍流の手を借りつつ、部屋から海音の荷物を運びこんでいた。蛍流が形代になってから使われたことは無いらしいが、毎日の掃除で清潔に保っていたのですぐに使える。和華のあの様子だと、今夜は部屋で大人しくしていた方がいいかもしれない。
 そんなことを考えながら廊下を歩いていたが、和華の部屋から見えない位置まで歩を進めたところで、後ろを歩いていた蛍流に呼び止められる。