「お父さまがね、お姉さまのために良い縁談先を用意してくれたのよ。お父さまの仕事の関係者なのだけれども、数年前に奥様を亡くされて後妻を探していたらしいの。そこでお父さまからお姉さまの話を聞いて縁談の申し出をされたそうよ。後妻として迎え入れたいって」
「縁談って、何も聞いていない! そんなことを急に言われたって……」
「本当にお姉さまって何も知らないのね。ある日突然、家同士の繋がりのために結婚を命じられることなんて、わたしたち華族の娘にとっては珍しくもなんともないのよ。青龍さまから嫁入りを申し込まれたわたしだってそうだったもの。自由恋愛なんて夢のまた夢。そんなのお伽噺の世界だけなんだから」

 和華の言う通り、この世界の華族の令嬢にとってはこれが当たり前なのかもしれない。海音も今後この世界で生きていくのなら、こんな日が来てもおかしくないが、それにしてもあまりにも急で何一つ心構えが出来ていない。いつかここを出て行くことにしても、それが今日明日の話になるとは思いも寄らなかった。

「縁談の話を聞いて、お父さまは喜んで承諾されたわ。そこでわたしと引き換えにお姉さまを呼び戻すことにしたらしいの。政府からの催促にも辟易していたし、お相手の方はお姉さまを名指しされたそうだから。お姉さまが戻り次第、すぐに日程を整えて輿入れさせると仰られていたわ」
「でも、どうして私が灰簾子爵の娘として嫁ぐことになるの? だって、私は……」
「今やお姉さまも立派な灰簾子爵家の娘だもの。家のために政略結婚をするのは当然のことでしょう。ただでさえ、こっちは貴女みたいなどこの馬の骨とも知らない異邦人が戸籍上の姉になっただけでも不愉快なのよ。これくらいは役に立ってもらわないとね」
「そんな……」
「そうそう。お姉さまに縁談を申し込まれた方は、齢六十を過ぎた成り上がりの資産家らしいわ。社交界でも一躍有名な方で、そんな方の後妻になれるなんてとても幸せなのよ。その代わり、奥様が存命の頃から年若い女中に手を出してばかりいたそうだけれども。若い子女なら教養が無くて醜くくても良いそうだから、お姉さまでもきっと喜ばれるわ!」

 時折見え隠れする海音に対する和華の嫌悪感も気になるが、それよりも今は急な輿入れ話と蛍流との別れで頭が混乱していた。何か言い返さなければと思っていても思考が上手く働かない。手足が強張るのを感じながら、ただ和華に言われるがままになっていた。
 すると海音が戻ってこないのを心配したのか、部屋の外から「いいだろうか」と蛍流のくぐもった声が聞こえてくる。

「和華が連れてきた女中と下男だが、どちらも使用人部屋に案内していいだろうか」
「女中についてはそうしてもらえるかしら。下男はすぐに帰すからいいわ。お姉さまと一緒にね」
「海音も共に? そうなのか?」
「私は……」
「ええ、そうよね。いつまでも食客として青龍さまのお世話になるわけにはいかないもの。ちょうど今その話をしていたところだったのよ。ねえ、お姉さま?」

 無邪気に腕に絡みついてきながらも、和華からは余計なことは言うなという圧を感じられる。物言いたげな顔をする蛍流の目線から逃れるように、海音は目線を下に向けたまま小さく頷く。「そうなのか……」という驚愕したような蛍流の掠れ声に、ますます胸を掻きむしられたような気持ちになる。

「だが今から荷造りをして山を下り始めても、途中で日が暮れてしまうのは明白だ。山道に慣れた者や男の足なら問題ないだろうが、海音の足には厳しいだろう。明日の朝でもいいのではないか」
「平気よ。下男だっているもの。つつ闇だろうが、心配することは何も無いわ」
「その下男に海音は嫁入り道具を盗まれた挙句、山中に捨て置かれたが?」

 和華と蛍流の間に流れる一触即発の空気に海音の腕やうなじが逆立つ。咄嗟に和華を振り払うと、「止めて下さい」と二人の間に割って入る。

「私なら平気です。和華ちゃんが連れて来た人たちと一緒に山を下ります。それでいいよね、和華ちゃん?」
「ええ、もちろ……」
「ダメだっ!」

 蛍流の玉音から発せられる怒声に海音の肩が大きく跳ねる。蛍流自身も自分の言葉に驚いているのか、藍色の目を見開いた後にバツが悪そうに目を逸らす。