「理由までは文に書かれていない。使者も知らないと繰り返していた。だが……嫌な予感がする。このままお前を灰簾家に引き渡すのは良くないと直感が告げているのだ。おれが手放したくないと思っているだけかもしれないが……」
「何が起こるのでしょうか……」
「それは分からないが、灰簾家にはもう少し詳細な内容を尋ねてみようと思う。仮にも華族の一員でもある灰簾子爵家が、保護した異世界人を遊女や女工として売り飛ばす真似はしないだろうが、万が一の場合もある。今から政府に早馬を走らせるよりも、これから輿入れするという和華が何か知っている可能性も高いが……」

 蛍流を始めとする形代たちは、自分が統治する土地に暮らす民と直接やり取りすることを禁じられている。彼ら形代たちを選んだ七龍は、この国の守護神であり、この国の崇拝的な存在。人の世に干渉することはこの国のバランスを崩しかねないとして、特定の人間と自ら関係を持つということは禁止されていた。
 そのため、家族を含めて特定の人間と連絡を取りたい時は、一度政府を介して相手に連絡してもらうことになる。
 唯一の例外が伴侶であるが、その伴侶も政府が伴侶と認定しない限りは直接連絡を取り合えない。それまでは他の民と同じように政府を仲介して、文を交わすことになるのだった。
 顔を曇らせる蛍流を安心させようと、海音は首を振ると笑みを浮かべる。
 
「あまり心配しないでください。私は大丈夫です。これまで何とかなってきましたし、これからもきっと何とかなります」
「だが……」
「でもこれで蛍流さんの力は安定しますね。どのみちいつかはここを出て行かなければならなかったんです。それが今というだけです」
「……桜を見に行く約束を交わしたばかりだというのにな」
「残念です。せっかくならその約束は和華ちゃんと果たして下さい。これをきっかけに二人の仲が深まるのなら私も嬉しいです」
「海音……」

 蛍流に左肩を掴まれるが、話題を変えながらそっと手を払う。
 
「和華ちゃんが来るのなら、部屋を明け渡さなきゃですよね。私が使っている部屋は伴侶のために用意された部屋ですから」
「そうだが、今すぐでなくてもいい。和華には客間を使ってもらう。部屋は和華が来てからでも……」
「私も灰簾家に戻らなければならないですから。片付けは早いうちから始めた方が良いと思うんです。そうだ、私の荷物を客間に運ばせてください。そうすればすぐに引き渡せます」
「海音、おれはお前のことを……」

 何かを言いかけた蛍流に気付かない振りをして、海音はなんともないように部屋に戻る。
 これも本来あるべき形に戻っただけ。それなのにまたしてもすっきりしない。蛍流の告白を断った時と同じように心がモヤモヤしてしまう。
 蛍流の側から海音が消えて、代わりに和華が蛍流の隣に行く。たったそれだけのことなのに、どうして得心が行かないのか。
 このままここにいたって、海音が蛍流のために出来ることは何も無いと分かっているのに……。

(きっと勘違いしているだけ。伴侶になれるはずがないのに、どこかでなれるんじゃないかと期待を寄せているだけ)

 その時、左肩の辺りに棘が刺さったかのようなずきりとした小さな痛みが走る。人目の付かないところに移動して帯を緩めて肩を晒せば、鎖骨に生えていた浅葱色の鱗が肩にも広がっていたのだった。
 
(どうして、今朝見つけたばかりなのに……)

 想定よりも鱗が生えだす間隔が短い。このままでは数日中には全身に鱗が覆ってしまう。早ければ、明日か明後日にでも……。
 自分を抱き締めるように両腕をぎゅっと包むと、冷たい床の上にくずおれる。この先に待ち受ける未来を想像して、身体からは血の気が引いていった。

(このままじゃ私だけじゃなくて、蛍流さんもきっと夢の通りに……。でも正直に打ち明けたところで解決するの? ますます蛍流さんを不安にさせるだけかも……)

 蛍流に助けを求めたところで、状況が変わるとは思えない。いたずらに迷惑を掛けるだけだろう。ただでさえ蛍流は自分のことと伴侶のことで手一杯だ。そこに海音の問題を持ち込んでますます手を煩わせたくないが、だからといって、海音一人ではどうすることも出来そうにない。
 身体に生え続ける鱗の色からして海音の身体を蝕もうとしているのが青龍である以上、頼り先は蛍流以外の七龍または七龍に詳しい者に限るだろうが、助力を乞うにしても他の七龍と連絡を取るには伝手が無い。簡単な方法は雲嵐に頼んで他の七龍に言伝をしてもらう方法だろうが、つい数日前に来たばかりで当面の間ここには来ない。雲嵐の代わりに政府経由で七龍と接触を図ろうにも、どれくらい時間が掛かるのか皆目見当がつかなかった。

(私が伴侶だったら、もっと良い方法があったかもしれない。蛍流さんに頼らなくても自分で解決する方法が)
 
 只人の海音にはただ身体を戦慄かせて、最悪の想像を巡らせることしか出来ない。何の力にもなれない自分を嘆き、迫る未来に怯えることしか……。
 どんなに蛍流のことを大切に想っていたとしても、所詮海音は蛍流の伴侶では無いのだから。