(本当だ。風に乗って、梅の甘い香りがする)

 柔らかな春風に乗って、微かに梅の甘い香りが物干し竿の辺りにも漂う。
 そんな春らしい優しい香りに頬を緩めながら洗濯物を干していると、終わりかけの頃、屋敷裏の畑の様子を見に行っていた蛍流がやってくる。

「もう終わったのか。仕事が早くて助かる」
「いいえ……。最近は天気も良くて、洗い物も少なかったので」

 最後の敷布を物干し竿に掛けてしまうと、麗らかな春の陽気の下で洗いざらしの白い布が風に吹かれて靡く。空になった桶を持とうとするが、すでに蛍流の腕の中に収まっていた。
 
「手伝いに来たつもりだったが無用だったか。ここでの生活にも大分慣れたようだな」
「洗濯機のありがたみを実感しました。ここでは踏み洗いや揉み洗いが普通なんですね。洗濯板の存在は知っていましたが力仕事だったことも知らなかったですし、灰汁や米のとぎ汁で汚れが落ちるのもこの世界に来るまで全く知りませんでした」
「あっちの世界とは違って、洗剤を必要とする油汚れが無いからな。ここで暮らし始めた時は衝撃を受けたものだ。米のとぎ汁なんて捨てるものだと思っていたからな。知らずに捨てようとしたら茅晶には怒られ、師匠にも止められた」
「蛍流さんにもそんな失敗があるんですね」
「元の世界では何もかも使用人がやってくれたというのもあるが、それにしても度を越した世間知らずだったな。最初は着替えさえ自力で出来ず、師匠に着せてもらっていた。湯浴みや布団の敷き方さえも……幼児のように面倒を見てもらってばかりだったな」
 
 そんなことを話していると、玄関口から「ごめんください」と男性の声が聞こえてくる。応対しようと玄関に足を向けたところで、蛍流に手で制止されたのだった。

「どうやら政府からの早馬のようだ。おれが出よう」

 そうして海音の代わりに政府からの使者と話し始めた蛍流だったが、すぐに「なんだと!」と仰天したような声を上げたのだった。

「馬鹿な。そのようなことを急に言われても困る。日時と内容を改めるように先方に伝えてくれ……!」

 政府からの連絡が余程思いがけないものだったのか、蛍流は小さな悲鳴にも似た声を上げる。しばらく使者と言い争っていたが、やがて使者は帰って行ったようだった。心配になった海音が玄関先まで小走りで行くと、そこにはどこか放心したような蛍流が文を片手に呆然と立っていたのだった。

「言い争っているようでしたが、何かあったんですか……?」
「和華が……」
「和華ちゃんがどうかしたんですか?」

 言葉を飲み込んだ蛍流を不安そうに見やる。どこか青くも見える蛍流の横顔を眺めつつ、続く言葉を待っていると、衝撃的な内容を口にしたのであった。

「和華が今日輿入れしてくるそうだ」
「えっ……今日ですか?」
「ああ。本人の希望らしい。ようやくここに嫁ぐ決心がついたと」

 蛍流は心ここにあらずといったように返したが、本当は海音自身も驚愕のあまり動転していた。
 海音が和華の身代わりとして蛍流の元にやって来てから、そこそこの日数が経っている。蛍流は何も言わなかったが、海音が来てからもずっと和華に嫁入りを申し出ていたのだろう。それでもその要請に応えなかったということは、蛍流の元に意地でも嫁ぎたくないからだと思っていた。
 想い人がいて、蛍流が自ら流した悪い噂もあることから、和華は自ら輿入れを承諾するのではなく、最後は蛍流の命を受けた政府の者たちによって、強引に連れて来られるとばかり考えていた。それが何の前触れもなく、本人の意思で蛍流の元に嫁入りするという。そのあまりの心変わりように驚き呆れてしまう。
 
「それは随分と急ですね……」
「それもそうだが、そうではない。これまで和華は頑なに輿入れを拒否してきたのだ。どうして今になって決心がついたなどと……。いや、それは本人の気持ちの問題だから、とやかく言うつもりは無い。だがこの条件は良くない……」
「どんな頼み事をしてきたのですか?」
「和華というよりは、これは灰簾家からの要望だろうな。和華を嫁がせる代わりに海音を返して欲しいと申し出てきたのだ」
「私を? どうして灰簾家の人たちが私のことを……」

 てっきり和華の身代わりを失敗した海音のことを、灰簾家の人たちは用済みと見做しているのだと思っていた。灰簾家に戻ることは叶わず、どこかで細々とした貧しい暮らしを送ることになるのだろうと。そんな海音を灰簾家の人たちは再び迎え入れようとしている。青天の霹靂とはまさにこのことを指すのだろうか。