「久しくお花見をしていなかったので、楽しみにしています」
「ああ、では一度部屋に戻る。すぐに炊事場に向かうからな」
「あの、蛍流さん……」

 身体に鱗が生え始めたことを相談しようと咄嗟に呼び止めてしまったものの、素直に話してしまったら心配を掛けてしまうかもしれない。そしてここから出て行くように勧められることだって……。
 伴侶になれない自分は、いずれここを出て行かなければならない。いくら頭では分かっていても、やはり蛍流から離れたくないと思ってしまう。
 蛍流が自分と同じ世界からこの世界にやって来た「仲間」であり、道ならぬ恋をしている「想い人」だからだろうか。

「どうした?」

 言い淀んでいると蛍流が不思議そうに首を傾げる。海音は作り笑いを浮かべると、「いえ」と首を振ったのだった。

「お花見ならお弁当を用意した方がいいのかなって、思っただけです」
「そうだな。握り飯を拵えて、重箱におかずを詰めるのもいいかもしれない。昔使っていたものが、炊事場のどこかにあるはずだ。探しておこう」
「楽しみにしていますね」

 そうして蛍流と別れた海音だったが、手は自然と鎖骨を押さえていた。厳密に言えば、着物に隠れる鱗の辺りを。

(きっと大丈夫だよね。桜が咲く頃までは持ってくれるよね……)

 全身が鱗に覆われるまで、どれくらい時間が残されているのかは分からない。それでもせめて蛍流と花見をするまでは、何も起こらないで欲しいと願ってしまう。
 これ以上、心優しい蛍流を悲しませたくない。蛍流の心を守るためなら、自分はどうなってもいい。
 二人で花見をした後はこの山を出て行って、人知れず夢と同じように砕け散ってしまったとしても。

(もし夢の通りにならなかったとしても、ここを離れてしまったら、蛍流さんと会うことはきっともう二度と無い。それならせめてお花見までは一緒に過ごしたい)

 海音が山を降りることになった時、きっと蛍流はいつでも来ていいと言うだろう。だがその言葉に甘えてまた戻って来てしまったら、今度こそ蛍流から離れ難くなる。そんな海音を蛍流は何も言わないだろうが、きっと清水や本来の伴侶である和華たちがそれを許さない。何がなんでも追い返そうとするだろう。
 そうなったら、ますます蛍流を困らせることになってしまう。それならもうここにはもう戻らない方が良い。
 会うことが叶わないのなら、せめて蛍流には最後まで笑っていて欲しい。その笑顔を胸に焼き付けてから、跡形も無く消えられるのなら本望だ。
 好きな人の極上の笑みを手向けとして得られるのなら、この見知らぬ世界で待ち受ける孤独な日々も悪くないと思えてしまう。

(伴侶じゃない自分にはここにいる資格が無い。あの夢とこの鱗はきっといつまでもここに居座っている自分への警告なのかも。この先ますます離れがたくなる前に、早く蛍流を諦めてここを出なさいという……)

 それでもどこかで希望を捨て切れていないのは、未だ蛍流が海音に対する純愛を向けてくるからなのか。それとも海音自身が奇跡を信じているからなのか。
 蛍流が海音を選び、二人で添い遂げられる日を迎えられると――。
 
(もう考えるのは止めよう。それよりも残された時間をどう過ごすか考えないと)

 今のところ、海音にはここから去った後の行く当てが無い。蛍流に話した通り、どこかで住み込みで働くとしても、働き先が見つかるまでは宿などに泊まることになる。それなりの資金を用意しておく必要があるが、蛍流に頼むわけにもいかない。そうなると売れるものを用意するしかないが、売っても良さそうなものは和華の身代わりとして嫁いだ際に仕立ててもらった豪奢な振袖くらい。後は元の世界から持ってきたスマートフォンや財布などの小物くらいだが、この世界では使い道が無いので無価値の可能性がある。
 それ以外のものは蛍流に用意してもらったものだが、政府が捻出する七龍の生活費――おそらく市民から徴収した税金、で購入したものらしいので売るに売れない。必要最低限のものだけもらって、ここに置いていくつもりだ。それなら手に職を付けた方がいいかもしれない。いわゆる内職だが、これから始めて完成品を雲嵐辺りに買い取ってもらえるのなら資金繰りは問題ない。そのためにもこの世界での内職や必要な技術について知る必要があるが、それこそ商売人として顔が広い雲嵐あたりに聞いてみようか。
 そんなことを考えながら、朝餉の支度に取り掛かったのだった。

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