「……んはっ! はぁはぁ……」

 薄明るい部屋の中、掛け布団を跳ね除けるようにして海音は飛び起きる。額や身体は寝汗で湿っており、寝巻は乱れはだけていたのだった。

(またあの嫌な夢……。それにあんな蛍流さん、見たことない……)

 蛍流の顔をした別の生き物。人ならざるもの――そんな単語が頭に浮かぶ。あんな薄気味悪い笑みを浮かべられるのは、悪魔のような人智を超えた存在だけ。
 それとも蛍流が自分を拒絶するはずがないと思いたいだけかもしれない。先日の告白がまだ胸の中に残っているから――。
 きっとここでの生活に慣れて疲れが出始めてきただけだろうと思い直す。布団から起き出して、着替えようと寝巻を脱いだ瞬間、自分の鎖骨に小石サイズの濃い藍色の欠片がついているのを見つける。最初は塵でも付いているのかと思って爪を立てたものの、全く取れる気配が無かった。そこで今度は摘まんで剥がそうとするが、指先に冷たい硬質な感触が当たったところでぞっと鳥肌が立つ。
 転がるように姿見のところまで行って自分の姿を写した時、信じられないものを見つけたのだった。

「なに、これ……」

 海音の鎖骨から生えていたのは、浅葱色の鱗であった。ガラス細工のようにどこか透き通っている浅葱色やひし形状の形、そして肌から生えている様子までもが、夢の中で海音を覆った鱗と瓜二つ。手で触れた時の触感もガラス細工と同じ冷たく無機質で、そこだけ血が通っていないかのようにひんやりとしていた。

「そんな……」
 
 もし夢の中と同じ運命を辿るとしたら、この後の海音、そして蛍流が待ち受けている未来は――。
 嫌な想像を膨らませたところで、身体が大きく身震いする。一筋の熱涙が頬を伝って流れ落ちると、浅葱色の鱗に落下して吸い込まれるように消えてしまう。

(いや……いやっ! 怖い、怖いよ。誰か、誰か助けて……)
 
 室内に差し込む朝の陽気を反射する鱗が、不気味な笑みを浮かべた夢の中の蛍流の姿を重なったのだった。

 ◆◆◆ 

 寝汗で湿った肌を拭き、着替えて部屋を出ると、丁度蛍流が青龍の神域である滝壺から帰ってきたところだった。玄関まで出迎えに行くと、手桶を片付けていた蛍流が海音の姿に気付いて声を掛けてくれる。

「おはよう。今朝は早いのだな。まだ朝日が昇り始めたばかりだぞ」
「おはようございます。なんとなく早く目覚めてしまったので、一足先に朝餉の支度を始めようかと」
「そうか。おれも荷を片付けたら、すぐに行こう」
「いえ、一人でも大丈夫です。蛍流さんは神域に行ってきたばかりですよね。ゆっくりしてください」

 青龍の形代とその伴侶の日課の一つに、早朝の神域の見回りと歴代の青龍の形代とその伴侶が眠る石碑の掃除がある。いわゆる巡邏と墓参のことだが、神域はこの国に流れる水の龍脈の源に当たるため、異常事態が起こらないように管理するのが形代の担う一番大きな役割らしい。
 そんな重要な役目を長らく任じられてきた形代とその伴侶が眠る石碑の管理と掃除は、形代を支える伴侶の務めであるが、蛍流の伴侶は不在のため、今は蛍流が代わりに請け負っていた。
 只人である海音は神域への立ち入りを禁じられているため、こうして屋敷で蛍流の帰宅を待つことしか出来ない。それが非常に歯痒く感じられたのだった。

「ここに来たばかりの時とは違って、もうひと通り自分一人で出来ます。それに使用人の身で、いつまでも蛍流さんの手を借りてばかりいるわけにもいきませんし……」
「そうは言っても、力が必要な時もあるだろう。青龍だからと気を遣わずに、頼ってくれていい」
「ですが……」
「二人で支度した方が早く終わる。そうしたらお互いにゆっくり休めるだろう。そうだ、朝餉の後にひと息ついたら、庭でも散歩しないか。先程見に行ったところ、ようやく梅の花が満開になったのだ。芳しい匂いに心が弾む。お前にも見て欲しい」
「梅が満開に……もうそんな時期なんですね」
「もう少し暖かくなって桜が開花したら、花見をするのもいいかもしれない。昔も師匠や茅晶と三人でしたのだ。大量の桜吹雪に包まれた時は、夢見心地な気持ちになる。あの幻想的な光景を一緒に見たい。お前と共に……」

 藍色の瞳を細めて微笑む蛍流に胸が高鳴る。この間、蛍流の想いを振ったばかりだというのに、未だにどこかで期待してしまう。このままずっと二人きりで、この至福の時間を過ごせるのではないかと……。
 それでもやはり自分と蛍流では住む世界が違う。海音が告白を断った後も、蛍流は変わらずに接してくれるが、海音自身がどこかで居心地の悪さを感じてしまう。今も蛍流に花見を誘われて嬉しい反面、それを素直に喜べない自分がいる。
 別れを惜しんでいるのは蛍流ではなくて、本当は自分自身なのかもしれない。
 けれどもそんな気持ちを蛍流に悟られなくて、海音は「ありがとうございます」とそっと笑みを返す。