「……そうだな。おれたちは互いに大切な存在を喪う悲しみを知っている。同じ時間を生きられない苦しさも」

 海音は母親を、蛍流は師匠を喪った時に、身を切るような痛みを経験している。時間の経過と共にいずれ消えると知ってはいても、それまでは春が来るまで極寒に耐えるのと同じくらい苦しい。
 七龍と人間、生きる時間が違う蛍流と海音にもいつか別れがくる。蛍流には師匠を亡くした時と同じような経験をまた繰り返して欲しくない。それならいっそのこと海音の存在自体を忘れて欲しい。そう思ってしまうのは、海音の我が儘だろうか。

「だがいずれここを出て行くにしても、定期的に便りは寄越してくれ。お前の無事を知りたい。どこでどんな暮らしを送り、何をしているのか。幸せかどうかも含めてな。そして困ったことがあったら、いつでも頼って欲しい」
「ありがとうございます。蛍流さんの代わりにこの山の外の様子をたくさん教えますね。他の土地にも行ってみたいですし、元の世界との違いも知りたいです。絵や写真があれば一緒に送ります」
「そうしてくれ。おれはこの山の外の様子について、見聞きした内容を元に想像を膨らませるばかりなのだ。憧れてはいるものの、この地を離れられないからな。せめてテレビやラジオがあれば良かったのだが、生憎とこの世界には存在していないらしい」
「テレビだけではなくラジオも無いなんて残念です。でも仮にテレビが存在していたとして、こんな山の上まで電波が届くのでしょうか……?」
「その時は政府に頼んで電波が届くように二藍山のどこかに電波塔を建ててもらおう。神域に人の手が入ることを清水は嫌がるかもしれないが、そこは納得してもらえるように形代であるおれから説得を試みるつもりだ」
「山の上に電波塔ですか……。なんだか急に元の世界にありそうな光景になって、親しみを感じられるようになりますね……」

 この自然豊かでどこか厳かな空気に満ちた二藍山の山頂に、鋼鉄で作られた人工の電波塔が建てられるかと思うと、あまりにもアンバランスに感じられてつい相好を崩してしまう。そんな海音に釣られるように蛍流も口元を綻ばせたので、二人は顔を見合わせるとお互いに笑い合ったのだった。

「さて、すっかり話し込んでしまったな。片付けはおれが請け負おう」

 縁側から立ち上がった蛍流が素早く使い終わった食器を集め始めたので、海音は慌てて制止する。

「片付けなら私がやります。カルメ焼き作りに使用した道具を出したままにしていましたし、炊事場の掃除もしなきゃだし……」
「炊事場の後片付けもおれがやろう。ようやく秘め事を明かせたからか、身も心も軽いのだ。お前はもう少しここで寛いでいるといい」
「でも……」
「もし可能なら、残っているあんぱんを分けて貰えるだろうか。師匠の墓前に供えたいのだ」
「勿論です。ぜひお供えして下さい」

 空になった茶器を盆に重ねていた蛍流にあんぱんの紙袋を差し出す。受け取る際に互いの手が触れ合ったが、もうどちらともなく逸らそうとしなかった。それどころか、その一瞬さえも寂しく思えてしまう。蛍流の手を借りて書道をした時は、何とも思わなかったというのに。蛍流に避けられていたこの数日で、海音の心も随分と蛍流に傾いたのだと自覚する。

「ありがとう」

 囁くようにそれだけ言うと、蛍流は炊事場に戻ってしまう。縁側にはどこか夢うつつな海音とカルメ焼きが載った皿だけ。残っていたカルメ焼きを摘まみながら、海音は溜め息を吐く。

(これでいいんだよね。お母さん……)

 蛍流が後に心を痛めるだろうと考えて、今後の蛍流を思い遣った上で慕情に気付かない振りをした。結果的に蛍流が寄せる好意を拒んだ形になってしまったが、これも徒恋となる前に一線を引いただけ。それでもどこか釈然としないのは、自分の感情を偽ったからだろうか。

(蛍流さんが和華ちゃんと夫婦になる姿を見るのが苦しい。身代わりでも伴侶になれない自分が憎い。好きな人と結ばれないことがこんなにも辛いなんて、知らなかった……)

 甘いはずのカルメ焼きがどこかほろ苦く、塩気まで感じられる。焦がしたところでも無ければ、塩を使ってもいない。それにもかかわらず、蛍流と食べていた時と全く味が違っているように思えてしまう。
 実りそうで実らない恋のことを「空なる恋」と呼ぶと古典の授業で聞いたことがある。天上で輝く月に恋をするかのように、儚く、虚しい恋をすることだと。今の海音もそんな「空なる恋」をしているのだろう。決して結ばれない月――蛍流への恋心。悲恋と分かっていながらも、どうしても蛍流への想いを止めることが出来ない。蛍流への密心が胸に溢れて歯止めがきかなくなる。この恋慕の情は誰かに悟られる前に仕舞わなければならない。深い水底に、水籠りしなければ――。
 ふと庭から視線を感じて頭を上げれば、遠くに黒い人影が見える。今日は誰も来ないと聞いていたが、この間の役人たちと同じ急な来客だろうか。使用人という手前、ここは出迎えに行かなければならないだろう。海音は袖で目元を拭うと、沓脱石の上の草履を履いて人影に向かう。
 木々を掻き分けるようにして近寄ると、音も無く佇んでいたのは、初めて雲嵐と会った時に庭で会った青年であった。