「かつてこの世界に来たばかりのおれは、師匠と茅晶がくれた数々の言葉に救われた。時間こそ掛かったものの、青龍そして家族として受け入れてくれたことで、先の見えない不安が消し飛んだ。あの時にもらったものを、今度はお前に与えたい。おれと同じように異なる世界から迷い込み、自分の在り処を探して彷徨い、心許なさから涙を溢す、お前に……。輿入れの日、木の根に座り込んで泣いている姿を見つけた時から、ずっとそんな気持ちでいる」

 蛍流の手が海音の髪を撫で、そして頬に触れる。唇に指先が触れただけで高揚したかと思えば、愛おしむように細められた藍色の瞳と視線が絡み合っただけで心が歓喜で沸き立つ。

「滝壺に迷い込んだお前を探し出し、屋敷まで背負った時だって、師匠はこんな気持ちで逃げ出したおれを探していたのだろうかと考えもした。共に手習いをした時も、お互いの身の内を語り合っているこの瞬間もな」
「もし許されるのなら、蛍流さんと一緒にずっとここで暮らしたいです。伴侶にはなれませんが、これからも使用人として置いて欲しいです。勿論、許されるのならばの話ですが……」
「おれも許されるのなら、未来永劫ここに留めておきたいとさえ思っている。けれどもそれを清水が許されないだろう。ここは青龍が司る神気の根源となる場所。普通の人間にとって神気とは毒でしかない。近い内にお前の身体を蝕み、心身を崩壊させてしまう。そうなる前にこの山から降りて、別の場所に行ってもらった方がいいが、異なる世界から来た人間がどのような末路を辿るのか知っている以上、このままお前を外に放り出すのは忍びない。ここを出たお前がどんな目に遭遇したのか……そしてどんな最期を迎えたのか。この新聞に載っている者たちと同じ目に遭ったと知るのが怖い」
「そうなったとしても、蛍流さんは関係ありません。全てこの世界について私が無知なのと、運の悪さが原因です」
「いいや、ちがう! 元は異なる世界の住人であったとしても、この世界に来た以上は、おれたち七龍が庇護すべき存在なのだ。彼らも守れずして、国を護れるはずがない。それも苦しんでいる相手というのが、恋慕を寄せているお前だぞ! たとえ人の世に私情を挟むことを禁じられている七龍の形代であったとしても、助けてやりたいと思うのが道理だろう!」
「恋慕を寄せている……って、蛍流さんが私にってことですか……?」

 勢いのまま言ってしまったのだろう。海音の指摘に蛍流はしまったという顔をする。バツが悪い顔をした蛍流だったが、やがて観念したのか諦めたように白状したのだった。

「……先日事故とはいえ、互いの唇が重なった時にようやく自覚した。おれはお前に家族以上の特別な感情を抱いている。しかしそれを口にするつもりは無い。青龍に選ばれたおれと夫婦の契りを結んでいいのは、同じく青龍に選ばれた伴侶である――和華だけだ」
「そうですよね……」
「この先、おれは和華を伴侶に迎え入れる。だが心はお前に捧げるだろう。この世界でお前が平穏無事に過ごせるように祈り続ける。青龍として、一人の男として。この山の上からお前を想い続けよう……」

 熱を帯びた藍色の瞳を輝かせながら海音を見つめる蛍流の鶯舌が紡ぐ愛の言葉に、身体だけではなく心まで震える。その告白に対する返事をしなければと口を開こうとしても、気持ちが先走って上手く言葉にならない。
 本当は海音からも蛍流に対する並々ならぬ愛情を伝えたい。けれども「伴侶ではない」という負い目が、止めどなく溢れる蛍流への想いを阻む形で海音の前に立ち塞がる。次いで躊躇いが言葉を奪い、地歩の違いが恋心に蓋を閉じさせる。
 ここで海音の想いを伝えることは簡単だ。その結果、蛍流と相思相愛になれたのなら、この世界での海音の憂いは無くなる。蛍流の腕の中という安心できる居所を得られ、この世界での「家族」が出来る。誰にも関係を認められず、神気によって添い遂げられなくても、心が通じ合っている以上は、「家族」と呼べるだろう。だがその後は?
 蜜月の関係になったとしても、青龍の蛍流と人間の海音は同じ時間を生きられない。何も変わらない蛍流に対して、海音は老いていきやがて数十年には朽ちてしまう。
 永遠に近い年数を青龍の形代として生きる蛍流からしたら、海音と一緒に居られる時間というのは玉響の如く刹那の時間であろう。海音との限りある時間を大切にしたい気持ちも理解出来るが、それでも触れ合った時間だけ、交わした想いの数だけ、残された蛍流を苦しめる。喪ったものの重みにくずおれ、海音を心恋(うらこ)うあまり、哀傷が蛍流の心を蝕もうとするかもしれない。
 そうなれば蛍流の力はますます不安定になり、遠からず青龍の龍脈と青の地にまで影響を及ぼすだろう。ひいてはこの国に暮らす無関係な人たちまで、海音たちの巻き添えを喰らうことになる。
 伴侶にはなれない海音の存在が、青龍としての務めを果たそうとする蛍流の足枷になってしまう。そんなことは海音自身望んでいない。
 ようやく蛍流と心を通わせられそうなのに、立場の違いが二人を阻む。だからこそ七龍と添い遂げられるのは、七龍と同じ時間を生きられる伴侶だけだと気付かされる。
 何度も出会いと別れを繰り返して七龍が心を痛めないように、深い関係を持てるのは七龍と同じ存在のみ。七龍と永遠なる時間を生きられる存在――伴侶だけなのだろう。
 もしかするとこの国の創世にも書かれていた「七龍と同等の歳月を過ごせる伴侶」というのは、周囲と隔絶された時間を生きる七龍の形代の心を守る存在として生み出されたのかもしれない。親兄弟、友、師、そして愛する人。それらを見送り続ける七龍の形代が失意の中で壊れてしまわないように――。
 自分の心のままに気持ちを伝えるか、それとも蛍流の心を優先するべきか。海音の中でせめぎ合う二つの相反する感情と葛藤している間に、興奮は熱が引いたように落ち着く。自分に何度も問い質して逡巡した後に、ようやく口をついて出てきた言葉は「駄目ですよ」という自分の想いとは裏腹の一言だった。

「蛍流さんは伴侶を――和華ちゃんだけを大切にしてください。そうしなければ、別れが辛くなります。同じ時間を生きられないのに……」
「海音……」

 どこか困惑しているように目を見開く蛍流の反応から、もしかすると泣きそうな顔になっているかもしれないと自覚しつつ、海音は表情筋に力を入れて貝の形をしているであろう口元を正すと作り笑いで誤魔化す。
 
「私のことはいずれ忘れてください。本当だったらここにいない人間です。ただの身代わりなんですから、私は……」
 
 蛍流の想いを理解しながら、突き放すような言葉に胸が痛む。これはこの場限りの恋なのだと、一花心(ひとはなごころ)なのだと自分に言い聞かせるが、それでも自分の気持ちに嘘をついているからか、罪悪感と悲愴感がより増して海音をじわじわと責め立てる。
 その言葉に一瞬だけ蛍流は表情を固まらせたものの、すぐにいつも通りのどこか物思いに沈んでいるようにも見える涼しげな微笑みを浮かべたのだった。