「正体が知られるのを恐れたおれは雲嵐殿に頼んで噂を流してもらった。師匠が形代だった時とは違って、気軽にここに来られては困るからな。『人嫌い』、『冷酷無慈悲』、『冷徹』、『非人情』、『冷涼者』、思いつく限りの人が遠ざかるような噂を幾つも……。その噂は徐々に広まり、やがて用もなくこの山に来る者は誰もいなくなった」
「寂しくなかったんですか。こんな山の上にたった一人で……」
「寂しくないと言えば嘘になる。が、ここにはおれが生み出した守護獣のシロたちがいて、行商で雲嵐殿が来てくれる。時折師匠や茅晶の影を感じてしまうが、その時はただ黙して耐えればいい。二人の幻影が消えるまで身を固くするだけだ。難しい話では無いだろう」
「それでもやっぱり一人は辛いです。誰しもが一人では生きていけません。それがたとえ七龍の形代だとしても……蛍流さんだって、私たちと同じ心を持った人ですから」
「それならお前はどうやって耐えたのだ。母君を亡くした後、何を支えにした。しばらくの間は故人の気配を全く感じなかったわけではないだろう」 
「私にはお父さんや友達がいました。それにお母さんとの約束がありました。『人の心や痛みを知って、思い遣れる人になる』って。その約束を支えに、私はここにいます。お母さんを亡くしたお父さんの痛みを知って、前向きに生きる姿を見せて元気になってもらおうと考えました。病気や怪我に苦しむ人たちを理解して、痛みを和らげるお手伝いをするために看護師を志しました。この世界に来てからは、青龍に嫁ぎたくないという和華ちゃんの心を理解して身代わりを引き受けました」

 母親を亡くした直後は海音も父親と同じように母親を悼み、嘆き、骨身に応えもした。学校の友人や先生はそんな海音を慰め、労りもしてくれたが、しばらくは誰の言葉も心に響かなかった。何も手につかない父親の代わりに家の用事を済ませようと外出すれば、幸せそうな母子ばかりが目に入って、その度に塗炭の苦しみを味わうことになった。それでも海音の心が挫けなかったのは、母親と生前に交わしたこの約束があったから。
 もしかしたら母親は自分がいなくなった後、残された海音たちが悲嘆に暮れることを分かっていたのかもしれない。海音と父親、どちらも悲しみの沼に沈んだまま、いつまでも浮上出来ずにいることを――。
 それを少しでも和らげるために、母親はこの約束を考えついたのだろう。いずれは海音が愁嘆する父親の手を引いて、二人で母親を喪った痛嘆を乗り越えられるように。
 病気に罹る前の母親は事あるごとに「お父さんより海音の方がしっかりしている」と言って、繰り返し父親を揶揄していた。その母親が最後に当てにしたのが「しっかり者の海音」だとしたら、海音はその期待に応えたくなる。
 それが母親からの最後の頼みだとしたら尚の事、必ず叶えたいと考えてしまう。

「他の人からしたら、お母さんとの約束は大した内容では無いかもしれません。ですがお母さんとの約束が悲しみに暮れていた私を奮い立たせてくれました。もう一度、心から笑える日を迎えられるように立ち上がる勇気を与えられました。お母さんとの約束に私は支えられて、いつも後押しをしてもらっています。私の考えや行動の原点にはお母さんとの約束があると言えるかもしれません」

 改めて母親との約束を口に出している内に、どこか気恥ずかしささえ感じられて誤魔化すように海音は愛想笑いをする。平凡な理由に鼻で笑われて一笑されるかと思っていると、小さな笑みを浮かべた蛍流に「おれも同じだ」と柔らかな声色で返される。
 
「この世界に来る直前に出会った少女と約束を交わしたのだ。『今日悲しいことでたくさん泣いたら、明日は楽しいことでたくさん笑う』とな。子供らしい、くだらない約束かもしれないが、それでもその約束が今のおれを支え、活力となって身体中を漲らせている。この世界に来てからの訳もなく不安を抱えていた日々も、そうして師匠亡き後も。元の世界や両親への恋しさから涙を溢した日も、不甲斐ない自分に何度も心が挫けかけた時も、その度に少女と交わした約束がおれの力になってくれた。失敗しても逃げずに青龍としての務めを果たせるのは、師匠や茅晶からもらった愛情と少女との約束があるからだ。明日は笑って楽しい日となるように、今日という悲しい日を乗り越えようという気持ちにさせてくれるのだ」
「蛍流さんにもそんな約束があったんですね」
「名前を知らず、もう顔すら思い出せない少女との約束だが、この胸にしかと刻まれている。今思い返せば、あの少女は青龍の遣いだったのかもしれないが……」
「聞いてもいいですか? 蛍流さんが大切にされている約束について」
「話すのは構わないが、ここに来た影響なのか、元の世界での直前の記憶が曖昧でな。所々しか覚えていないのだ。少女と出会ったのは秋と冬の間ぐらいの季節。おれは父の仕事関係者のパーティーに参加するため、父と父に仕える清水と共に遠方の地にやって来たのだ……」

 いつもは蛍流の父親のパートナーとして、蛍流の母親がパーティーやレセプションなどに同行するらしいが、その時は蛍流の弟妹となる二人目の子供を身籠っており、産み月が近いことから遠方への外出が出来ずにいた。そこで母親の代わりに連れて行かれたのが、息子の蛍流だったらしい。
 子供の蛍流からしたらつまらない大人の会話を聞くのが退屈な上に、年に数回しか会えない寡黙な父親と過ごす時間も窮屈でしかならなかった。そこでパーティーが始まって大人たちの注目が逸れた瞬間を狙って、こっそりパーティー会場を抜け出して外に飛び出したという。

「行く当ては無く、どこかで時間を潰せればいいかと思って歩いていると、同い年くらいの少女が泣きながら遠くを歩いているのを見つけた。すかさず駆け寄って迷子かと尋ねると、少女は涙ながらにこう答えたのだ。『お母さんが死んじゃう』とな」
「事故か事件に巻き込まれて、助けを求めていたのでしょうか?」
「詳しく聞けば、病に伏していた母親の容体が急変したらしい。今夜が峠かもしれないという話を聞いて、大人たちの緊張感と父親の嘆きに耐えきれなくなって出てきたと言っていたな。おれはすぐ病院に帰るように説得したが、少女は帰りたくないと懇願してきた」

 少女をこのままにするわけにもいかず、蛍流は大人に助けを求めようと来た道を戻ろうとしたが、初めて訪れた知らない土地だったことや夜間で道が暗かったこともあって、自分がどこから来たのか分からなくなっていた。幸いにも少女が母親の入院する病院の名前を知っていたので、近くを歩いていた通行人に場所を教えてもらえたことだけが救いだった。