「蛍流さんはどうやって乗り越えたんですか。元の世界に帰れない悲しさや寂しさを」
「元の世界が恋しくて泣いていると、いつも落ち着いた頃合いを見計らって師匠がやって来るのだ。『泣き疲れただろうから』と、蜂蜜をたっぷり淹れた甘い柚子茶を手にして。そんなことを繰り返していたある時、柚子茶を届けてくれた師匠に詫びを言ったのだ。元の世界では大人の仕事を邪魔するような行為や、迷惑をかける行いはしないように散々言われていたからな。それなのにこの世界に来てからの自分は、幼児のように師匠の手を煩わせては迷惑ばかりかけていた。赤の他人であるおれが恩人であるはずの師匠たち親子に……情け無いことにな」
「そんなことはありません。その時の蛍流さんは子供でした。急に見知らぬ場所に連れて来られて、パニックを起こすのも当然です」
「謝罪を口にしながら、また泣き出したおれに対して、師匠は何とも無いように返したのだ。『家族だから謝らなくていい』と。それでようやく思えた。師匠たちは本当におれを家族として受け入れようとしていると……」

 温かい柚子茶に息を吹きかけ、ゆっくりと口にする幼い蛍流の頭を愛おしむように撫でながら、師匠は優しく言ったという。
 ――私は蛍人の本当の父親じゃ無ければ、本当の家族でも無い。けれども、これから蛍人の新しい家族になれるように努力する。だから蛍人も少しずつでいいから、私たちを新しい家族として受け入れて欲しい、と。
 後にも先にも、師匠が『自分の後継者となる蛍流』ではなく、『異なる世界からやって来た蛍人』に向かって語りかけたのは、この時だけであった。

「その時に言われた『家族には遠慮や迷惑を考えなくていい。遠慮せずに迷惑を掛けても許される存在が家族だ』という師匠の言葉の意味をずっと測りかねていた。そこで今度は少しずつ自分の気持ちや感情を口にしては、それに対する師匠の反応を推し量るようになった。ここで少しでも師匠が不機嫌や不満、怒りを露わにしたら、自分の殻に閉じこもって二度と出て来ないつもりでいたが、師匠は根気よく付き合ってくれた。プティングだっておれが食べたいと我が儘を言ったばかりに、わざわざ師匠が作り方と材料を調べてくれたのだ。そんな師匠の姿を見続けたことで、自分の心に巣食っていた不安や疑心は徐々に消え失せ、やがて二人を信用しようと思い始めた」
 
 その時になって、蛍流はいつの間にか自分の心が軽くなっていたのを感じた。
 それもそのはず。信頼のおける家族と自分を迎え入れてくれる温かい家という、この世界で安心できる居場所をようやく得られたのだから――。
 
「それでもまだ師匠を父と呼ぶのは躊躇われたから、師匠と呼んで少しずつ家族になろうとした。師匠を真似して書道を始めて、師匠に教わって掃除を覚えて、そして師匠の後について料理を習った。その間に茅晶とも打ち解けて、ますます本音を吐露するようになった」

 少しずつ蛍流からも師匠や茅晶に歩み寄ることで、二人はますます家族として受け入れてくれるようになった。
 蛍流のことを元から一緒に住んでいた家族として扱い、この世界について知識を身につけていった蛍流も、次第に目の前の現実と青龍としての自分を受け入れられるようになり、この世界とここでの生活に馴染んでいった。

「日に日に泣く回数は減ったが、それでもやはり元の世界を思い出しては泣いてしまう日もあった。その度に茅晶はそっとしてくれて、代わりに師匠が甘い柚子茶を作ってくれた。今度お前にも作ろう。師匠直伝の柚子茶はおれの得意料理の一つでもあり、師匠から教わった数々の料理の中でも一番初めに覚えたものだ」
「ありがとうございます。その後はどうなったんですか?」
「三人で暮らし始めてしばらくたった頃、ようやく師匠をこの世界での父と思えるようになった時に初めて『父』と呼んだ。その時の師匠の顔は今でも忘れられない。憑き物が落ちたような泣き笑い顔をしたのだからな。おれがずっと師匠たちに対して気を張っていたように、おそらく師匠もおれに気を遣っていたのだろう。ここでようやくおれは師匠たちと家族になれたのだと、自信を持てるようになったのだ。それでも茅晶の前で父と呼ぶのが気恥ずかしくて、二人きりの時しか呼ばなかったが……」

 師匠を父と呼んだ時の幸せな記憶を呼び覚ましているのか、蛍流の藍色の両目に輝きが宿る。
 
「だがその日からは、元の世界に対する恋しさで枕を濡らす夜は無くなった。その代わり、師匠に縋りついて甘えるようになったな。添い寝してくれた師匠はこの世界の昔話や七龍の話を寝物語として聞かせてくれて、それがますます青龍の形代としての自覚を持つきっかけにも繋がった」

 師匠たちと本当の家族のようになれた気がしてくると、ずっと嫌だった「蛍流」という名前を受け入れられるようになった。
 師匠の後継者として、青龍の形代になるという覚悟も決まったという。