「そうだったんですね……」
「おれがこの世界に現れた日は、前日に降った大雪で二藍山が真っ白な銀世界に包まれた日だったそうだ。朝陽が昇り始めたばかりの早朝、滝壺に行ったところ、石碑の前に倒れていたと聞いた。見つけたのは、師匠とその息子である……」
「茅晶さんですか?」
「茅晶のことを、知っていたのか?」

 虚を突かれたように蛍流が藍色の目を丸くしたので、「雲嵐さんに聞きました」と素直に頷く。すると、一拍置いた後に「そうだろうな」と返される。

「最初に発見したのは茅晶だったと師匠に聞いた。言われて師匠が駆け寄った時には、おれは青龍の神気を帯びており、その影響で髪や目も師匠や茅晶と同じこの色になっていたという。元の世界ではお前と同じ黒髪黒目だったから、今の自分の姿を受け入れるまで随分と時間が掛かったな」

 浅葱色の髪と藍色の瞳という現実離れした蛍流の容姿は、青龍の神気を受けた影響によるものだと知る。確かに元の世界でこんな容姿をしていたら、インターネットやSNSなどで話題になっていてもおかしくない。
 
「茅晶さんと師匠さんに出会って、ここで暮らし始めたんですか?」
「師匠に介抱されて共に暮らし始めたものの、ここに来たばかりの頃は元の世界に帰りたいとずっと泣いていた。師匠たちはおれのことを家族として受け入れて、分け隔てなく接してくれたが、二人のことを家族とは到底思えなかった。おれの本当の家族はあの世界にいる。仕事で世界中を飛び回っており、年に数回しか会えない両親ではあったが、それでもその両親だけがおれの家族だった」

 蛍流の実の父親は国内はもとより国外でも有名な大企業の社長であり、仕事の関係で一年の大半を海外で過ごしていた。蛍流の母親は結婚前から秘書として父親を支えていたそうで、蛍流の子育てがひと段落すると早々に信頼できる使用人たちに息子を託して、海外を飛び回る夫の公私をサポートしていたという。
 そんな両親の間に生まれた蛍流は父親の跡を継ぐ後継者として教育を受けたものの、両親の方針で厳格とは程遠い年相応の子供らしく育てられた。
 学校が終われば、同級生と近所の公園でサッカーや野球、雨の日はカードゲームやテレビゲームをして過ごし、休日は使用人に頼んで動物園や水族館、天文台や大型商業施設などに連れて行ってもらった。
 蛍流と同年代の御曹司の子息が厳しい教育に耐えている中、この世界に来るまでの蛍流はどこにでもいるような八歳の男児らしい日々を過ごしていたという。

「どんなに優しくしてくれたところで、師匠たちはあくまでも他人の家族。心を許せるはずが無かった。あの頃は師匠と茅晶の親子が親し気に話しているのを見ているだけでも、疎外感と孤独感で居たたまれない気持ちになっていたな。その度にこの世界にはおれの本当の名前を呼んで、抱き締めてくれる者は誰もいないと言われているのも同然だった。急に『蛍流』なんて名前を付けられて、元の世界には二度と帰れないとまで断言されたからか、両親への寂しさは募る一方だった」
「蛍流さんの名前って、師匠さんが名付けてくださったんですよね?」
「今では気に入っているが、当時は呼ばれるのも嫌だった。おれは『蛍流』なんて名前じゃなければ青龍でも無いと、声を大にして叫びたかった。いや……もしかしたら叫んでいたのかもしれない。おれには本当の両親に名付けてもらった蛍人(けいと)という名前があって、蛍流なんて名前じゃ無いと……。今思い返しても、恥ずべきところしかないな」

 その時のことを思い出したのか、蛍流は自分を嗤笑しつつも、続きを話してくれる。
 
「そんなおれを説き伏せるように、師匠は何度も青龍やこの国の話を聞かせてくれた。それでも自分が師匠の後継者である青龍で、これからはこの世界で生きるように言われたところで認められるはずも無かった。これは夢を見ているだけか騙されているだけだと、ひたすら考え続けた。そうすることで現実から目を逸らそうとしたのだろうな。両親や清水を始めとする家族同然の使用人たち、学友……あまりにもあの世界に残してきた未練が多すぎる」

 師匠たちに騙されているかもしれないという考えは、「蛍流」という青龍としての名を与えられてからますます強くなったという。
 早く家に帰って両親に会いたい。ここは自分の世界じゃ無ければ、こんな姿は自分じゃ無い。
 何もかも認められない、受け入れられない。
 だって、自分は「蛍流」では無いのだから――。

「元の世界への想いが昂るあまり、何度もここから脱走しようと試みた。真冬に裸足で屋敷を飛び出したことだって何度もある。最初こそは元の世界に意地でも帰るという気持ちで、次いでここに居たくないという逃避から、やがて自分でもよく分からないまま衝動的に。慣れない環境と絶えない緊張感、そしてどこからともなく迫りくる不安で追い詰められて、心が擦り減っていたのだろう。しかもこの世界に来る直前、おれの母は子を身籠っていたのだ。臨月が近かったこともあって、父や使用人たちも母にかかりっきりだった。それもあって両親に捨てられたと、無意識のうちに焦っていたのかもしれないな。かなり情緒が不安定だったに違いない」
「でも、ここに居るということは連れ戻されたってことですよね。師匠さんか政府の人たちに」
「実際に連れ戻したのは師匠だが、それ以前に青龍の形代であるおれがこの地を離れることを清水が許さなかった。この屋敷に続く山道、獣道、滝壺、どの道を使って山から降りようとしても、何故か麓が見えてこない。何時間掛けて下山しても結果は同じ。この山の水辺は全て清水の移動範囲内のため、川や滝壺に入って泳いで下山しようものなら清水に脱走を知られて、師匠の元まで強制送還されてしまう。その清水に事情を説明して、元の世界への帰還を訴えても結果は変わらず。これから死ぬまで、この山で『青龍の蛍流』として生きなければならない絶望を突き付けられただけだった……」

 青龍に選ばれてこの地に来た以上、形代の役目を終える時まで蛍流はここを出て行くことを許されない。それを知らなかった幼少の蛍流は幾度となく逃走を企てては、二藍山の山中を彷徨うことになった。
 
「青龍であるおれがこの山から出ることは叶わず、結局歩き疲れてどこかの木の根元に座り込んで、ひたすら泣きじゃくるだけだった。そんな身勝手なおれを師匠と茅晶は毎回探しに来てくれた。師匠の背に負われて屋敷に連れ戻されて、それでもずっと泣き続けた。泣き喚くおれを師匠は決して叱らなければ咎めもせず、そして慰めもしなかった。気が済むまで泣かせてくれた」
「どうして師匠さんは蛍流さんを放っていたのでしょうか?」
「師匠も分かっていたのだろうな。おれが異なる世界から来たと分かった以上、この寂しさと不安を埋めてくれるものは何も存在しないと。この世界に生きる人間なら、家族をここに呼んで会わせれば良いだけだが、住む世界が違うとそうはいかない。ただ耐え忍んで、長い年月を掛けて時間が解決してくれるのを待つしかない。それでも古傷のように疼く時が今でも時々ある。……こればかりは一生抱えなければならない傷だろうな」

 寂しげに目を伏せる蛍流に合わせるように、海音も自分の胸に手を当てる。今は目の前のことで手一杯だが、いずれは自分も蛍流と同じように元の世界に対する望郷の想いや寂寥感を心に刻み付けられ、生涯癒えない傷として負い続けることになるのだろうか。