海音が蛍流のために、雲嵐から材料を取り寄せてまで作ったお菓子というのは、昔ながらの砂糖菓子であるカルメ焼きであった。
小学生の時に習ったが、日本では南蛮貿易をきっかけとして、諸外国から多くの菓子が伝来されたと言われている。
その前から日本各地では餡、水飴、煎餅といった菓子が作られていたが、それらとは一線を画す形で、金平糖や有平糖などの砂糖菓子、カステラやボーロなどの卵を使う菓子が宣教師たちによって日本に持ち込まれた。そんな珍しい菓子の一つに、このカルメ焼きもあったという。
当初は高価な砂糖や卵白を使用していることから、高級品の一つとして扱われていたが、やがて時代を経て安価な値段で材料が入手出来るようになると、カルメ焼きは庶民の間にも広まったとされている。
海音も小学校の理科の授業で作ったことがあるが、あまりにも美味しかったことから自宅に帰って父親にねだって材料を揃え、一人で完璧に作れるようになるまで何度も作った。受験生の時も、勉強中の糖分回復のお伴として、市販のものを買って食べていたくらいである。
元の世界では駄菓子屋や祭りの屋台で売られていたが、この世界では市販よりも各家庭での手作りが多いようで、ここまで材料を運んでくれた雲嵐もまだまだ店頭で売っているお店は少ないと教えてくれた。
作り方が簡単な上に材料さえ揃えれば誰でも作れるが、温度の管理や調整、重曹を加えてからの混ぜるタイミングが難しいので、コツを掴むまでは膨らまずに焦げてしまうが、慣れてしまえば手軽に作れるようになる。
そんな海音でも勝手が違うこの世界の炊事場では、何個も失敗してしまった。元の世界と同じような温度計がこの世界には存在していないため、温度の管理についてはほとんど勘に頼るしかなかったというのも原因だろう。
この世界での作り方をよく調べないままに始めた手探りでの調理だったからか、手ごたえを得るまで時間と材料を大分浪費してしまった気さえする。材料が底をつく前に成功して良かったと、密かに安堵しているくらいであった。
「なかなか上手に作れなくて、悪戦苦闘している内に砂糖の匂いが充満したみたいです。先日書道を教わったお礼として、どうしても手作りしたくて……。でも元の世界と勝手が違うので、時間が掛かってしまいました」
「礼を言うのはおれの方だ。お前がここに来てからというもの無聊を託つ暇も無く、毎日が充足感で満たされている。こんなことは、この二年間で一度も無かった」
「二年間も……」
「青龍の務めを果たした師匠が深い眠りについて、おれが跡を継いでから……。この二年間は自分のことで手一杯だったな。早く師匠のような一人前の青龍にならなければと、ただ無我夢中に務めを果たして知識を蓄え続けたが、それでも心が満たされず……漠然とした焦りと不安に支配されていた。お前がここに来るまで、ずっとな……」
「一生懸命だったんですね。休む間もなく、たくさん努力をされて」
「それでもまだ師匠の足元には遠く及ばない。自分が青龍としての務めを果たした分だけ、あの方の偉大さに気付かされる。歴然とした差に、己の無力さを痛感してしまう……」
海音の呟きにも律儀に答えてくれた蛍流は、どこか寂しさを含ませた笑みを浮かべるが、すぐに「つまらない話を聞かせたな」と話をカルメ焼きに戻す。
「そんなことで、久方ぶりに菓子を口にする。お前が手作りしたというカルメ焼き、実に楽しみだ」
「なんだか緊張します。お口に合えばいいのですが……」
「菓子に飢えた口だ。甘いものなら、なんでも口に合う」
二人並んで縁側に腰掛け、カルメ焼きが載った皿を蛍流に差し出す。先程一口大サイズに切って爪楊枝を刺したカルメ焼きは、まだほんのり温かい。蛍流が一切れを取ると、海音も反対側から一切れ取る。
「いただこう」
「いただきます」
焦がし砂糖の甘い匂いが漂うカルメ焼きを口にした瞬間、じゅわっと口の中で溶けて甘い砂糖の味に満たされる。口腔内の熱でとろけるのはメレンゲと同じだが、メレンゲがふわっと消えるように溶けていくのに対して、カルメ焼きは珈琲に溶かされる角砂糖のようにじわじわとゆっくり溶けながら消えようとする。
雪のように影も形も無くなるメレンゲとは違って、カルメ焼きは存在していた証を残すかのように舌の上に溶け残った砂糖を残す。舌先で味わうこのジャリジャリした砂糖の感触も、砂糖を主原料としたカルメ焼きならではの特徴だろう。その分、他の菓子よりカロリー数値が高いのが難点ではあるが、そこは夕餉で調整すればいい。そもそもこの菓子が広まった時代には菓子の種類自体が少なかったので、一日の摂取カロリーなんて気にしていなかっただろう。貴重な菓子として多くの人たちに食べられていたに違いない。
続けて食べると砂糖の甘ったるさで胃もたれを起こしそうだが、このカルメ焼きは焦がした部分が苦味となってアクセントの役割を果たすからか、そこまでもたれずに済みそうである。
「美味いな。これもお前の作り方が良いからだな」
「そんなことはありません……。混ぜ合わせ方が悪くて膨らまなかったものや、温度の調整が出来なくて割れてしまったものもあります。これだって焦げ目があるので、成功したと言っていいのかどうか……」
「売り物では無いのだ。これでも充分、成功に値する。焦げた部分は流石に処分するしかないが、失敗したものは後で料理にでも使えばいい。そうだな……せっかく砂糖と卵があるのなら、たまには作ってみるのもいいかもしれないな……プティングでも」
「プティングって……プリンのことですよね。あの、黄色と茶色をしたお菓子の! プリンなんて、作れるんですか?」
茶碗蒸しならこの世界でも何度か口にしたが、まさか洋菓子のプリンまで存在するとは思っていなかったので、海音の心が沸き立ってしまう。それもまさか菓子作りに興味が無さそうな蛍流が作れるというのも驚きであった。
期待を込めて蛍流を見つめると、二個目のカルメ焼きを口にした蛍流が教えてくれる。
「ここでのプティングは蒸し料理のことを指すが、その中に砂糖と卵を使った甘い菓子がある。卵の黄色とカラメルソースの茶色の二層仕立てになっている茶碗蒸しに似た甘味だが、この菓子のカラメルソース作りには砂糖が欠かせない。独り身の時は敢えて作るものでも無かったが、材料があるのなら作ってみるのもいいかもしれん。ただプティング作りに必要な牛の乳が足りるか……」
「足りない時は雲嵐さんに頼みましょう! プリンなんて久しぶりなので楽しみです!」
「プティングが好きなのだな」
「はい! 子供の頃から好きでよく食べていました! 甘くて冷たくて、何より柔らかくて食べやすいので、風邪を引いて食欲が無い時は必ずお母さんが買ってきてくれました。早く元気になりなさいって、励まされて……っ」
そこまで言い掛けたところで、亡き母親との思い出を想起して胸が苦しくなってしまう。
海音が幼い頃は風邪を引いて寝込む度に、母親がスーパーマーケットから三個セットのプリンを買ってきてくれた。粥も食べられないくらい具合が悪い時でも、不思議と冷たいプリンだけは食べられたので、熱を出した海音が食べたいとねだっていたことも関係あるのだろう。熱で火照った身体に、冷たいプリンがすうっと身体の中を通っていく快感が今でも忘れられない。
母親が亡くなってからは一度も風邪を引いていないが、今でも母親が恋しくなった時にはプリンを買って食べていた。プリンを食べていると、次々と母親との思い出が蘇ってきて、寂しい心を癒してくれたのものだった。この世界に来たからには、もう両親との思い出に由来するものとは出会えないと思っていたが、もしかすると探せばあるのかもしれない。
急に海音が黙ってしまったからか、蛍流が心配そうに「海音?」と声を掛けてくれる。咄嗟に頭を振ると、何でもないというように笑みを浮かべたのだった。
「すみません。元の世界のことを思い出して、しんみりしてしまいました。元の世界で食べたプリンをもう二度と食べられないと思うと、なんだか寂しくなってしまって……」
「これまで敢えて聞いてこなかったのだが、お前について教えてくれないか。年齢的におれと同じくらいなら、学校にも通っていただろう。家族はどんな人たちだったのだ?」
「本当だったら、四月から看護師を目指して、看護系の学校に通う予定だったんです。お母さんが病気に罹って入院した時に、入院先の看護師さんたちにたくさん良くしてもらったことが忘れられなくて……。大人になったら私も看護師になって、お世話になった看護師さんたちのようになりたいと思ったんです」
「立派な心がけだな。母君は完治したのか?」
「結局治らなくて、九年前に亡くなりました。でも最期はお母さんの希望で、家族みんなで自宅に帰ってゆっくり過ごせたんです。自宅に帰ることさえ難しいってお医者さんに言われていたのに、最初の峠を越えてからなんだか急に元気になったみたいで……」
末期を迎えた母親が自宅に帰れたのは、一週間にも満たないほんの数日間のみ。それでもその数日間は、海音の中で忘れられない思い出となって、今も残り続けている。
病気が発覚してから、長らく病院に入院していた母親の最後の願い。辛い闘病期間中もこの願いだけを支えに耐え続けていたと、後に父親から聞かされた。
家族みんなで自宅に帰る、という願いを――。
「薬石効なくか……。それはさぞかし辛かっただろう」
「最初こそ、なかなかお母さんが亡くなった現実を受け入れられなくて辛かったです。でもいつまでも泣いているわけにはいきませんし、私まで塞いでいたら、ただでさえ打ちひしがれているお父さんがますます立ち直れなくなります。そんなことは天国にいるお母さんも、きっと望んでいないと思うので……」
「強いのだな。父母のためにも前を向こうとして、だが……」
そっと蛍流の手が海音の頭に乗せられたかと思うと、優しく撫でてくれる。
「その悲しみや寂しさを、ここでは隠す必要は無い。元の世界や両親を恋しがって泣いたとしても、それを咎める者も、罪悪感で苦しむ者もいない。この世界はお前の父君はおろか、召天された母君でさえ目の届かない場所。これまでのように我慢せず、気が済むまで声を上げて泣いてもらったって構わない。肩を貸して話しを聞くくらいなら、おれにだって出来る。ここに来た頃のように、もう人目を忍んで泣かずともいいのだ」
「ありがとうございます。気を遣っていただいて……」
「気遣いなんてしていない。おれにはお前の気持ちが痛いほど分かる。元の世界に残してきたものに対する未練や後悔さえも。家族や友人に別れをする間もなく、あまりに突然だっただろうからな」
耳たぶまで真っ赤になりながら礼を口にすれば、蛍流は柔和な笑みを浮かべる。海音の頭を愛撫して、黒髪に触れる蛍流の手がむず痒い。
もしかすると、蛍流なりにずっと気にしていたのだろうか。ここに来たばかりの頃、元の世界や両親が恋しくて泣いていた海音のことを。
「本当だったら、神社に立ち寄った帰りに、お母さんにお供えするお花を買って帰るつもりだったんです。お母さん、季節のお花が大好きだったから……」
「……この世界が死後の世界だと言われたら、きっと諦めがついただろう。だがおれたちはここでこうして生きていて、元の世界に酷似したものも多数ある。どこかで地続きしているのではないかと期待をしてしまう。本当は異世界に来たのではなく長い夢を見ているだけで、自分が眠るベッドの周りには目覚めを待つ家族が集まっており、今も覚醒を待ちわびているのではないかと……」
「それでも元の世界に帰る方法も、夢から醒める方法も無いんですよね?」
「……おれが調べた限りでは」
はたと手を止めた蛍流の視線の先に気づいて、傍に視線を移す。そこにはもう一つのお礼の品が入った紙袋が置かれていたのだった。
「ところで、そこの紙袋には何が入っているのだ?」
「これもお礼の品です。カルメ焼き作りが失敗したら、こっちをお礼として渡そうと思って、用意してもらったんです」
紙袋ごと蛍流に渡して、封を開けてもらう。すると「おおっ!」という感嘆の声と共に、蛍流は中身を取り出す。
「これはあんぱんだな」
蛍流の手に掴まれていたのは、こんがりと焼けた茶色の表面と、薄っすらと漂う甘い餡と酒の匂いが食欲をそそる小ぶりのあんぱんであった。
表面に開いた穴からは、黒いこし餡が中にぎっしりと詰まっているのが一目で分かり、その上には塩漬けの桜の花びらまで埋め込まれている。
「あんぱんを知っているんですか?」
「ああ。師匠が好きで、よく雲嵐殿に届けてもらっていた。懐かしい……いただいてもいいだろうか?」
「勿論です。お召し上がりください」
蛍流に勧められて、海音もあんぱんを口にする。
茶色の見た目や柔らかな食感はこれまで食べてきたあんぱんと同じであったが、酵母に酒から造られた酒酵母を使っているからか、ほんのりと香る酒の香りが元の世界のあんぱんには無い特徴であろう。加えて、塩漬けの桜からしみ出す塩味と上質な小豆を使ったこし餡の甘さが、他のパンとの格の違いを現す高級品を思わせる。
「久しく食べていなかったが、師匠が食べていた頃から全く変わらない味だな。新聞によると、今年店主の代替わりが行われたそうだが、同じ味を保ち続けているというのは並々ならぬ努力の賜物だろう」
「良かったです。気に入っていただけたようで」
「これもカルメ焼きと同じで、独り身の時はわざわざ取り寄せてまで食べるものでも無かったからな。ここではパンを作るには設備が足りず、材料も揃えづらい。買う以外に方法が存在せず、そこまでしてまで食べたいと思わなかったからな」
「赤の土地で開いているお店でしか買えないんですよね。ここではまだまだパン食が広まっていないから……」
雲嵐に聞いたところ、この青の地は国内でも屈指の稲作が盛んな土地のため、白米文化が主流らしいが、火山地帯の赤の土地や砂漠地帯の黄の土地では小麦文化の方が広く食されているとのことであった。
今回海音が取り寄せしたこのあんぱんも、数十年前に余所から赤の土地に店を移した親子が始めたお店で作られる人気の商品だそうで、赤の土地で昔から人気のこし餡と外国を旅した際に教わったパンを合わせた、この国で初めて誕生した「菓子パン」とのことであった。
開店から時間が経った今でも、あまりの盛況ぶりになかなか手に入らないことで有名らしい。
「この青の地に暮らす華族の中には金に物を言わせて屋敷に機材を揃えて、焼き立てのパンを食卓に並べる者が増えてきたらしいが、庶民にはまだまだパンそのものの馴染みが薄い。このあんぱんも赤の土地まで買いに行かなければ手に入れられず、土地の移動に使う汽車や乗合馬車、路面電車の料金も決して安価ではないからだろうが」
「お店まで買いに行っても、買えるとは限らないんでしたっけ?」
「ああ。開店前から客たちが列を成しており、早い時には昼前に完売するそうだ」
「そんな人気商品を、雲嵐さんは毎回どうやって入手しているんでしょうか……?」
「あの人に関しては謎が多い。いつから七龍相手に行商人をやっているのか、七龍の元に来ない日は何をやっているのかも皆目見当がつかない。おれがここで暮らし始めてから見目が変わらないのも奇妙だ」
「雲嵐さんに教えてもらいましたが、その新しい店主さんが新商品を開発しているそうです。こし餡の代わりに別のものをパンの中に入れられないか試作中だとか……。いつかクリームやジャムが入った菓子パンや、揚げ物や卵が間に挟まった惣菜パンも誕生しそうですね」
話している内に、よく買い物に行っていたスーパーマーケットのパン売り場の情景が浮かんでくる。
食パンやバターロールパン、クロワッサンなどの定番商品を始めとして、ジャムパン、クリームパン、メロンパンなどの菓子パン、ソーセージが挟まったホットドッグや大きなコロッケが間に入ったコロッケパン、肉汁がたっぷり詰まったハンバーガーまで。中にはご当地限定のパンもあった。
こぢんまりとしたスーパーマーケットだったが、各社で製造されたパンがずらりと陳列される様子は圧巻で、つい買う用事が無くても立ち寄ってしまう品揃えの良さだった。今の時期になるとパンを買って点数が書かれたシールを集めて、食器やバッグと交換をしていた。
最寄り駅には開店したばかりのパン屋もあって、いつか行きたいと思ってそのままになってしまった。お店の前を通るたびに焼き立てパンの匂いが漂ってくるので、夕食時はいつも空腹を刺激されて誘惑と戦っていたのも遠い昔のようである。
「どんなパンを食してみたいとか、希望はあるか?」
「そうですね……。この世界にあるかは分かりませんが、チョコレートっていう甘いお菓子が中に入ったパンが食べてみたいです。子供向けのお菓子にもあって、元の世界ではよく食べていました。小さな箱に入った一口サイズのパンのような形をしていて、中にはチョコレートが入っていて……」
「おおっ! あの菓子はまだ存在しているのか! 外箱には髭を生やしたパン職人が書かれていなかったか?」
「書かれていましたが……知っているんですか!?」
「知っているもなにも、両親や使用人の目を盗んで、初めてスーパーマーケットなる場所に行った際に買ったものだ。学友から聞いて、スーパーマーケットでも菓子が買えるというのは知っていたが、手元にあったのは両親に内緒で使用人の手伝いをしてもらった百円玉が二枚だけ。数ある菓子の中からどれを買えばいいのか分からず、一番下の棚に陳列されていたチョコレート菓子の箱を手に取った覚えがある」
「スーパーに……チョコレート……」
まるで海音が暮らしていた世界を知っているかのように、蛍流は興奮気味に話し続ける。昔を懐かしむあまり、圧倒されている海音に気づいていないようだった。
「自分で小銭を払って買い物をした達成感で意気揚々として帰ったものの、仕事で滅多に自宅に立ち寄らない両親が、何故かその日に限って帰っていてな。菓子をどう隠そうか迷ったな」
「その後、どうしたんですか?」
「一人で外出したと知られたら叱られると思って庭に隠れていたら、庭師に見つかった。父の秘書にして執事を務めていた清水のところまでこっそり連れて行かれると、車の後部座席に乗せられて、車を洗浄すると父に断りを入れた清水が自宅から車を出してくれたのだ。洗浄している間に車内で食して良いと、その日だけは許可をもらった。普段は車中での飲食を禁止されているからか、これには魂消てしまったな」
その時を思い出しているのか、蛍流は遠くを見つつ声を弾ませながら話し続ける。
「外で清水が車を洗っている間、おれは初めて自分で買った菓子を食したが、あのチョコレート菓子の甘い味と外から聞こえる車の洗浄音は今でも忘れられない思い出となった。知ってるか? 洗浄中の車を内側から見ると、窓には白い泡のカーテンが掛かっているように見えるのだ。それがまるで雲の中にいるように思えて、次いで泡を洗い流す際には滝を内側から眺めているような不思議な気持ちになる。そんな中で食べるチョコレートは、どんな高級チョコレートよりも甘く感じられた。小さな冒険の結末に相応しい褒美だった」
「白い泡のカーテンに滝の内側、そしてピンチを切り抜けてようやく食べられた宝物のようなお菓子。なんだかファンタジー作品に登場する冒険者みたいです。その……私が住んでいた世界に、あまりにもそっくりな気がしましたが……」
「そっくりというより、同じ場所だろうな。おれが生まれ育った場所と、お前が住んでいた世界というのは」
「それって、つまり……」
緊張のあまり、海音は喉を鳴らしてしまう。さっきの話を聞いた時も予感がしたが、子供の頃の蛍流の話を聞いて、もしかしたらという期待がますます膨らむ。
こんな偶然があるのだろうか、まさか目の前の蛍流も――。
「今から十年前、青龍の形代に選ばれたおれは、青龍の清水によってこの二藍山に連れて来られた。それまで両親と共に暮らしていた世界――『日本』という国から」
その瞬間だけ、いつも陰を帯びている蛍流の笑みが晴れやかなものとなる。右目下の小さな黒子ごと細められた藍色の目と薄っすらと赤みが差した白い頬を柔らかく弛めて、ようやく胸につかえていたものが無くなったというような年相応の爽やかな笑顔。
これまで見たことが無い蛍流の微笑みに、海音の胸が激しく高鳴り出す。
初めて自分と同じように異なる世界からやって来た人を見つけたというのもあるだろう。これまで一線を引いて海音と接してきた蛍流の過去に、どこか興奮を隠しきれない。
「そうだったんですね……」
「おれがこの世界に現れた日は、前日に降った大雪で二藍山が真っ白な銀世界に包まれた日だったそうだ。朝陽が昇り始めたばかりの早朝、滝壺に行ったところ、石碑の前に倒れていたと聞いた。見つけたのは、師匠とその息子である……」
「茅晶さんですか?」
「茅晶のことを、知っていたのか?」
虚を突かれたように蛍流が藍色の目を丸くしたので、「雲嵐さんに聞きました」と素直に頷く。すると、一拍置いた後に「そうだろうな」と返される。
「最初に発見したのは茅晶だったと師匠に聞いた。言われて師匠が駆け寄った時には、おれは青龍の神気を帯びており、その影響で髪や目も師匠や茅晶と同じこの色になっていたという。元の世界ではお前と同じ黒髪黒目だったから、今の自分の姿を受け入れるまで随分と時間が掛かったな」
浅葱色の髪と藍色の瞳という現実離れした蛍流の容姿は、青龍の神気を受けた影響によるものだと知る。確かに元の世界でこんな容姿をしていたら、インターネットやSNSなどで話題になっていてもおかしくない。
「茅晶さんと師匠さんに出会って、ここで暮らし始めたんですか?」
「師匠に介抱されて共に暮らし始めたものの、ここに来たばかりの頃は元の世界に帰りたいとずっと泣いていた。師匠たちはおれのことを家族として受け入れて、分け隔てなく接してくれたが、二人のことを家族とは到底思えなかった。おれの本当の家族はあの世界にいる。仕事で世界中を飛び回っており、年に数回しか会えない両親ではあったが、それでもその両親だけがおれの家族だった」
蛍流の実の父親は国内はもとより国外でも有名な大企業の社長であり、仕事の関係で一年の大半を海外で過ごしていた。蛍流の母親は結婚前から秘書として父親を支えていたそうで、蛍流の子育てがひと段落すると早々に信頼できる使用人たちに息子を託して、海外を飛び回る夫の公私をサポートしていたという。
そんな両親の間に生まれた蛍流は父親の跡を継ぐ後継者として教育を受けたものの、両親の方針で厳格とは程遠い年相応の子供らしく育てられた。
学校が終われば、同級生と近所の公園でサッカーや野球、雨の日はカードゲームやテレビゲームをして過ごし、休日は使用人に頼んで動物園や水族館、天文台や大型商業施設などに連れて行ってもらった。
蛍流と同年代の御曹司の子息が厳しい教育に耐えている中、この世界に来るまでの蛍流はどこにでもいるような八歳の男児らしい日々を過ごしていたという。
「どんなに優しくしてくれたところで、師匠たちはあくまでも他人の家族。心を許せるはずが無かった。あの頃は師匠と茅晶の親子が親し気に話しているのを見ているだけでも、疎外感と孤独感で居たたまれない気持ちになっていたな。その度にこの世界にはおれの本当の名前を呼んで、抱き締めてくれる者は誰もいないと言われているのも同然だった。急に『蛍流』なんて名前を付けられて、元の世界には二度と帰れないとまで断言されたからか、両親への寂しさは募る一方だった」
「蛍流さんの名前って、師匠さんが名付けてくださったんですよね?」
「今では気に入っているが、当時は呼ばれるのも嫌だった。おれは『蛍流』なんて名前じゃなければ青龍でも無いと、声を大にして叫びたかった。いや……もしかしたら叫んでいたのかもしれない。おれには本当の両親に名付けてもらった蛍人という名前があって、蛍流なんて名前じゃ無いと……。今思い返しても、恥ずべきところしかないな」
その時のことを思い出したのか、蛍流は自分を嗤笑しつつも、続きを話してくれる。
「そんなおれを説き伏せるように、師匠は何度も青龍やこの国の話を聞かせてくれた。それでも自分が師匠の後継者である青龍で、これからはこの世界で生きるように言われたところで認められるはずも無かった。これは夢を見ているだけか騙されているだけだと、ひたすら考え続けた。そうすることで現実から目を逸らそうとしたのだろうな。両親や清水を始めとする家族同然の使用人たち、学友……あまりにもあの世界に残してきた未練が多すぎる」
師匠たちに騙されているかもしれないという考えは、「蛍流」という青龍としての名を与えられてからますます強くなったという。
早く家に帰って両親に会いたい。ここは自分の世界じゃ無ければ、こんな姿は自分じゃ無い。
何もかも認められない、受け入れられない。
だって、自分は「蛍流」では無いのだから――。
「元の世界への想いが昂るあまり、何度もここから脱走しようと試みた。真冬に裸足で屋敷を飛び出したことだって何度もある。最初こそは元の世界に意地でも帰るという気持ちで、次いでここに居たくないという逃避から、やがて自分でもよく分からないまま衝動的に。慣れない環境と絶えない緊張感、そしてどこからともなく迫りくる不安で追い詰められて、心が擦り減っていたのだろう。しかもこの世界に来る直前、おれの母は子を身籠っていたのだ。臨月が近かったこともあって、父や使用人たちも母にかかりっきりだった。それもあって両親に捨てられたと、無意識のうちに焦っていたのかもしれないな。かなり情緒が不安定だったに違いない」
「でも、ここに居るということは連れ戻されたってことですよね。師匠さんか政府の人たちに」
「実際に連れ戻したのは師匠だが、それ以前に青龍の形代であるおれがこの地を離れることを清水が許さなかった。この屋敷に続く山道、獣道、滝壺、どの道を使って山から降りようとしても、何故か麓が見えてこない。何時間掛けて下山しても結果は同じ。この山の水辺は全て清水の移動範囲内のため、川や滝壺に入って泳いで下山しようものなら清水に脱走を知られて、師匠の元まで強制送還されてしまう。その清水に事情を説明して、元の世界への帰還を訴えても結果は変わらず。これから死ぬまで、この山で『青龍の蛍流』として生きなければならない絶望を突き付けられただけだった……」
青龍に選ばれてこの地に来た以上、形代の役目を終える時まで蛍流はここを出て行くことを許されない。それを知らなかった幼少の蛍流は幾度となく逃走を企てては、二藍山の山中を彷徨うことになった。
「青龍であるおれがこの山から出ることは叶わず、結局歩き疲れてどこかの木の根元に座り込んで、ひたすら泣きじゃくるだけだった。そんな身勝手なおれを師匠と茅晶は毎回探しに来てくれた。師匠の背に負われて屋敷に連れ戻されて、それでもずっと泣き続けた。泣き喚くおれを師匠は決して叱らなければ咎めもせず、そして慰めもしなかった。気が済むまで泣かせてくれた」
「どうして師匠さんは蛍流さんを放っていたのでしょうか?」
「師匠も分かっていたのだろうな。おれが異なる世界から来たと分かった以上、この寂しさと不安を埋めてくれるものは何も存在しないと。この世界に生きる人間なら、家族をここに呼んで会わせれば良いだけだが、住む世界が違うとそうはいかない。ただ耐え忍んで、長い年月を掛けて時間が解決してくれるのを待つしかない。それでも古傷のように疼く時が今でも時々ある。……こればかりは一生抱えなければならない傷だろうな」
寂しげに目を伏せる蛍流に合わせるように、海音も自分の胸に手を当てる。今は目の前のことで手一杯だが、いずれは自分も蛍流と同じように元の世界に対する望郷の想いや寂寥感を心に刻み付けられ、生涯癒えない傷として負い続けることになるのだろうか。
「蛍流さんはどうやって乗り越えたんですか。元の世界に帰れない悲しさや寂しさを」
「元の世界が恋しくて泣いていると、いつも落ち着いた頃合いを見計らって師匠がやって来るのだ。『泣き疲れただろうから』と、蜂蜜をたっぷり淹れた甘い柚子茶を手にして。そんなことを繰り返していたある時、柚子茶を届けてくれた師匠に詫びを言ったのだ。元の世界では大人の仕事を邪魔するような行為や、迷惑をかける行いはしないように散々言われていたからな。それなのにこの世界に来てからの自分は、幼児のように師匠の手を煩わせては迷惑ばかりかけていた。赤の他人であるおれが恩人であるはずの師匠たち親子に……情け無いことにな」
「そんなことはありません。その時の蛍流さんは子供でした。急に見知らぬ場所に連れて来られて、パニックを起こすのも当然です」
「謝罪を口にしながら、また泣き出したおれに対して、師匠は何とも無いように返したのだ。『家族だから謝らなくていい』と。それでようやく思えた。師匠たちは本当におれを家族として受け入れようとしていると……」
温かい柚子茶に息を吹きかけ、ゆっくりと口にする幼い蛍流の頭を愛おしむように撫でながら、師匠は優しく言ったという。
――私は蛍人の本当の父親じゃ無ければ、本当の家族でも無い。けれども、これから蛍人の新しい家族になれるように努力する。だから蛍人も少しずつでいいから、私たちを新しい家族として受け入れて欲しい、と。
後にも先にも、師匠が『自分の後継者となる蛍流』ではなく、『異なる世界からやって来た蛍人』に向かって語りかけたのは、この時だけであった。
「その時に言われた『家族には遠慮や迷惑を考えなくていい。遠慮せずに迷惑を掛けても許される存在が家族だ』という師匠の言葉の意味をずっと測りかねていた。そこで今度は少しずつ自分の気持ちや感情を口にしては、それに対する師匠の反応を推し量るようになった。ここで少しでも師匠が不機嫌や不満、怒りを露わにしたら、自分の殻に閉じこもって二度と出て来ないつもりでいたが、師匠は根気よく付き合ってくれた。プティングだっておれが食べたいと我が儘を言ったばかりに、わざわざ師匠が作り方と材料を調べてくれたのだ。そんな師匠の姿を見続けたことで、自分の心に巣食っていた不安や疑心は徐々に消え失せ、やがて二人を信用しようと思い始めた」
その時になって、蛍流はいつの間にか自分の心が軽くなっていたのを感じた。
それもそのはず。信頼のおける家族と自分を迎え入れてくれる温かい家という、この世界で安心できる居場所をようやく得られたのだから――。
「それでもまだ師匠を父と呼ぶのは躊躇われたから、師匠と呼んで少しずつ家族になろうとした。師匠を真似して書道を始めて、師匠に教わって掃除を覚えて、そして師匠の後について料理を習った。その間に茅晶とも打ち解けて、ますます本音を吐露するようになった」
少しずつ蛍流からも師匠や茅晶に歩み寄ることで、二人はますます家族として受け入れてくれるようになった。
蛍流のことを元から一緒に住んでいた家族として扱い、この世界について知識を身につけていった蛍流も、次第に目の前の現実と青龍としての自分を受け入れられるようになり、この世界とここでの生活に馴染んでいった。
「日に日に泣く回数は減ったが、それでもやはり元の世界を思い出しては泣いてしまう日もあった。その度に茅晶はそっとしてくれて、代わりに師匠が甘い柚子茶を作ってくれた。今度お前にも作ろう。師匠直伝の柚子茶はおれの得意料理の一つでもあり、師匠から教わった数々の料理の中でも一番初めに覚えたものだ」
「ありがとうございます。その後はどうなったんですか?」
「三人で暮らし始めてしばらくたった頃、ようやく師匠をこの世界での父と思えるようになった時に初めて『父』と呼んだ。その時の師匠の顔は今でも忘れられない。憑き物が落ちたような泣き笑い顔をしたのだからな。おれがずっと師匠たちに対して気を張っていたように、おそらく師匠もおれに気を遣っていたのだろう。ここでようやくおれは師匠たちと家族になれたのだと、自信を持てるようになったのだ。それでも茅晶の前で父と呼ぶのが気恥ずかしくて、二人きりの時しか呼ばなかったが……」
師匠を父と呼んだ時の幸せな記憶を呼び覚ましているのか、蛍流の藍色の両目に輝きが宿る。
「だがその日からは、元の世界に対する恋しさで枕を濡らす夜は無くなった。その代わり、師匠に縋りついて甘えるようになったな。添い寝してくれた師匠はこの世界の昔話や七龍の話を寝物語として聞かせてくれて、それがますます青龍の形代としての自覚を持つきっかけにも繋がった」
師匠たちと本当の家族のようになれた気がしてくると、ずっと嫌だった「蛍流」という名前を受け入れられるようになった。
師匠の後継者として、青龍の形代になるという覚悟も決まったという。
「おれは顔を知らないが、どうやら子供の頃のおれの姿というのは、亡くなった師匠の伴侶にそっくりだったらしい。雲嵐殿や政府の役人たち、師匠の伴侶を知る者たちにもこぞって言われた。元の世界でも母親似だと言われていたが、まさかここでは師匠の伴侶に似ていると言われるとは思いもしなかった」
蛍流が懐かしむように笑みを浮かべる。
今でこそ男性らしい凛々しくも綺麗な顔立ちをしているが、子供の頃は少女と見紛うばかりの愛らしい顔だったのかもしれない。
男の子は母親似が多いという話を聞くので、蛍流もそうだったのだろう。
「それまでは師匠と伴侶の間に生まれたもう一人の子供として勘違いされるのがずっと嫌だったが、この頃にはそう言われるのも悪くないと思えるようになった。師匠と師匠の伴侶、その二人の間に生まれた師匠そっくりの茅晶、そして余所から来たはずなのに何故か師匠の伴侶と見目が似通っているという蛍流。この世界には誰とも繋がりが無いと思っていたはずが、思わぬところで繋がりが生まれてしまった。師匠の伴侶に似ていると言われている時だけは、師匠たち家族の本当に一員になれたような錯覚が出来るからな」
「似ていなかったとしても、蛍流さんはもう十分師匠さんたち家族の一員ですよ。しっかり家族の固い絆で結ばれていますから」
「そうなら良いことだ。だが全てそう上手くはいかなかった。結局のところ、おれがこの世界に来たことが原因で、師匠たち家族の絆を断ち切ってしまったのだからな」
「どういうことですか?」
「ここで重ねた歳月の分だけ、次代の青龍だったおれの神気は目まぐるしく成長したが、対して当代の青龍だった師匠の神気は衰えていった。神気の減少に伴い、身体の自由が利かなくなり、とうとう布団から起き上がることさえ困難になった。そうなった原因を師匠は年齢と言っていたが、師匠の死後、それはおれを傷つけないための嘘だったと知ってしまった」
「嘘……だった……?」
深く息を吐き出してゆっくりと語られた蛍流の言葉に、海音は瞠目してしまう。蛍流と師匠、そして茅晶の三人で楽しい時間を過ごせしたわけではなかったのか。続く蛍流の言葉に固唾を呑んで、耳をそばだてる。
「一つの土地に七龍の形代は一人しか存在できない。先代の形代の力が衰え始めた時、七龍は次代の七龍となる形代を選定する。そして師匠の後継者となる新たな形代が選ばれたということは、それは師匠の形代としての役目が終わることを意味する」
「役目が終わったら、自由になれるってことですよね。この山を降りて、好きなところに行って、好きなことを出来るってことじゃ……」
「そうではない。青龍の形代に選ばれた以上、おれたちの命は青龍と繋がり、一蓮托生の関係となる。七龍は形代の命が消える前に、次代の形代を定めて自分の力を分け与える。そうすることで、七龍はこの国に流れる龍脈と国の安寧を保ってきたのだ。つまりおれが選ばれたということは、それは師匠に残された時間が残りわずかであることを意味する」
蛍流は目を伏せて、後悔と切なさがない交ぜになった寂しげな微笑みを浮かべる。鼻梁の整った蛍流が形作る陰りを帯びたその笑みに、海音の胸がひどく掻き乱されたのだった。
「次代の青龍の形代であるおれがこの世界に来た時点で、師匠の死は決まったも同然だったのだ……」
七龍と一心同体の形代といえども不死では無く、やがて肉体に限界が訪れる。本人が気付かない内に、身体からは徐々に七龍に与えられた神気が流れ落ちていき、落ちた力は自分の跡を引き継ぐ次代の形代に流れていく。次代の形代の神気が高まるのと比例するように先代の形代からは神気が消え失せ、やがて神気の抜けた先代の身体には、形代となってから止まっていた人としての時間が急速に流れ出す。形代に選ばれてから止まってしまった老化を始め、これまでは七龍の加護によって無縁となっていた病や怪我、そして神気に長時間当たっていたことによる心身への変調。それらが負荷となって先代の形代の身体を蝕み、耐えきれなくなった身体は死を迎える。
神気の膨張によって次代の形代が活性化されていくのに対して、神気の収縮によって弱体化していく先代の形代の関係性というのは、長い板の中心を支点として上下運動を繰り返す公園遊具のシーソーと似通っていた。
「古来より七龍の形代の代替わりというのは、諍いが耐えないものだった。先代の形代からしたら、自分の後継者が現れるということは、自分の死期が迫っていると教えられているのも当然だからな。地獄の使者なんて揶揄して、軋轢が生じるのもおかしくない。そんな形代たちの姿に流石の七龍たちも辟易したのか、今は七龍と伴侶の子供から次代の形代を選ぶことが一般的になった。青龍の場合、本来であれば師匠の実子である茅晶が選ばれるはずだった。それなのに次代の形代に指名されたのは、異なる世界に住んでいたおれだった」
「清水さまはどうして茅晶さんではなく、蛍流さんを選んだのでしょうか?」
「それは清水にしか分からない。これまで幾度となく尋ねたが、頑として答えてくれなかった。師匠なら知っていたかもしれないが、今となっては尋ねようも無い」
「珍しいことなんですか。蛍流さんのように、形代と伴侶の子供以外の人が後継者に選ばれることって」
「現在の七龍の形代の中で、前任者の血縁者以外が形代に選ばれたのは、青龍のおれともう一体だけ。あっちは大変だったらしい。何せ守護する土地に影響を及ぼすほどの騒動に発展したと聞く。今後の話など到底出来るはずがなく、とうとう喧嘩別れのようになったそうだ」
深く息を吐いた蛍流は「それに対して」と話し出す。
「おれと師匠の代替わりというのは、かなり最良の関係だったらしい。師匠はおれが現れたことによる不満や恨み、迫りくる死への恐れを一切口にしなかった。その代わり、形代として青龍とこの青の地について教え、父として今後一人で生きて行くのに必要な知識や技術を覚えさせようとした。最後まで自らの役割を全うしたのだ」
蛍流がこの世界に来た時点で自分の身に何が起こるのか師匠は察していたはずだが、それを子供たちの前ではおくびにも出さなかった。
その代わりに、蛍流と茅晶、二人の息子を愛おしみ、日々の成長を楽しみとしていた。一つしか持たない玩具を取り合う二人のために同じ玩具を手製して、成長に合わせて浴衣や甚平を手縫いし、二人の希望を交互に聞いては好きな料理や食べたい菓子を作ってくれたという。
「師匠にはおれを責めて詰る権利があった。茅晶と親子水入らずで暮らしていたところに割り込んだだけではなく、師匠に残された時間が短いことも伝えにきたようなものだ。不幸をもたらす存在に、甲斐甲斐しく世話を焼く必要さえ無い。その辺に捨て置けば良かったのだ。これまでの七龍の代替わりと同じように」
「でも師匠さんはそうしなかった。元の世界を恋しむ蛍流さんの気持ちを受け止めて、茅晶さんと分け隔てなく愛情を注いでくれたんですよね。青龍としての務めを全うされて……素晴らしい方です。私だったら自分の居場所を奪われるような気がして、きっと受け入れられません」
「おれもだ。これまで自分の全てを犠牲にしてまで得てきたものを横取りされるように思えて、怒り狂うだろうな。あの方の器の大きさには、到底敵う気がしない。それを最期まで一切悟らせず、跡を継ぐおれが罪悪感に苦しまないように配慮する思慮深さまでも……そんなこと優れた人格者でも無ければ、出来るはずもない。もっと早く気付けていれば、師匠の力になれたかもしれない。後悔先に立たずとはまさにこのことだな」
「そんなことは……」
そう言い掛けた海音であったが、蛍流は自身を嘲るように鼻先で笑い飛ばされてしまう。雲嵐も言っていたように、蛍流も充分に青龍としての役割を全うしている。今はまだ師匠の足元には及ばないかもしれないが、追いつくのも時間の問題だろう。
けれどもそれを部外者の海音が言葉を紡いで説明したところで、蛍流の心に届くことはない。青龍として苦悩する蛍流の気持ちを理解して、支えてあげられるのは、七龍と同じ時を過ごすことになる伴侶だけ。ただの人間である海音は蛍流の心を理解して見上げることは出来ても、隣に並ぶことは許されない。
ただ蛍流の苦しみが軽くなるように、祈ることしか出来ない。
「この世界に来て五年が過ぎた頃から、師匠が寝込むようになった。回数は日増ししていき、亡くなる数か月前には、布団から起き上がることさえ困難になった。青龍の仕事は全ておれが行い、その合間に師匠の看病を担うようになった。その頃になると、茅晶は日がな一日部屋に引きこもって、何か調べ物をしているようだった。顔を合わせるどころか、口さえほとんど利かなくなっていた」
「それまで茅晶さんと仲が良かったんですよね。どうして……」
「きっと茅晶は知っていたのだと思う。おれが師匠の命を脅かしていることに。おれが力を蓄えて活気づいていくにつれて、師匠は衰えていき、やがて命さえも青龍に刈り取られてしまう。嫌われても当然だ」
今まで膝の上で固く握りしめていた拳を開く。そうして在りし日を回想するように、蛍流は耳に心地の良い好音を低くして静かに続ける。
「……最期の瞬間、おれは布団に横たわる師匠の手を握り締めていた。呼吸がか細くなるにつれて、握り返す師匠の手からも力が抜け落ちていったが、それでもその手が冷たくなるまで握り締めていた。あの手の温もりと握り返してくれた掌の感触を生涯忘れはしない。そして誓いを立てたのだ。これまで師匠から与えられた恩に報いるためにも、おれはこの地で青龍として生きると」
その後、師匠が生前に残した遺言に従って荼毘に付した後、滝壺近くにある石碑の下に埋葬した。石碑の下には歴代の青龍やその伴侶たちの亡骸が眠っており、師匠も自らそこで眠ることを希望したからであった。そして石碑には、形代としての師匠の名である「茅」を刻んだという。
「後に残されるおれたち二人のことを考えて、師匠はいくつもの形見の品を残してくれた。屋敷、技術、知識、人脈、そして遺言。遺言はいくつかあったが、その一つが伴侶を迎えて家族を作ることだった」
「どうして師匠さんは伴侶を迎えるように言い残したのでしょうか?」
「生前、師匠は異なる世界から来たおれが、この世界に一人取り残されてしまうことを心配していた。もしかすると知っていたのかもしれない。この後に起こる一連の出来事を……」
「何があったんですか?」
「師匠が亡くなった直後、清水の命を受けて、始めて青龍の形代としての仕事を果たすことになった。その最初の仕事というのが……茅晶をこの山から追い出すことだった」
青龍の代替わりに伴う諸々の処理を終えて、正式に次代の青龍が蛍流に決まると、また日々の生活が戻り始めた。
これからは二人で手を取り合い、お互いを支え合いながら生きて行こうと、改めて茅晶と向き合う決心をした時だった。
青龍の形代としての最初の仕事――茅晶の追放という勤めが、蛍流の元に舞い込んだという。
「ひどい……。どうして清水さまは茅晶さんを追い出すように命じたんですか?」
「清水は茅晶がここにいると、青龍の龍脈に悪影響を及ぼすと話していた。おれは反対したが、形代が七龍に逆らえるはずも無く……結局、命じられた通りに茅晶をこの山から追い出した。この世界でたった一人の家族を……。それ以来、茅晶の行方は依然として知らない」
青龍の命に茅晶は抵抗したが、最終的には蛍流の命を受けた政府の役人よって、半ば強制的にこの山から連れ出されることになった。師匠や茅晶がいなくなった屋敷は、蛍流一人には広く静かに感じられた。
「三人で暮らしていた頃は、一日があっという間に過ぎていったが、一人になった途端、とても遅くなったように感じられた。一人この屋敷で過ごす中で、そして師匠の後継者たる青龍の形代としての日々を過ごしている内に、次第に誤った選択をしたのではないかと不安が募り始めた。おれがするべきは茅晶を追い出すのではなく、茅晶がここに居られるように清水を説得することではなかったのか、と」
「茅晶さんを探そうとは思わなかったんですか? もう一度、ここで一緒に暮らしたいと」
蛍流はゆるゆると首を振る。一度七龍の形代となった以上、七龍の意志に背くということは、七龍の力を取り上げられることになるらしい。力を取り上げられた後は七龍によって罰を与えられ、最悪の場合、死に至るとも。
そのため蛍流は茅晶と連絡を取るどころか、探すことさえ出来ずにいるという。
「その不安が青龍の力までも不安定にさせているのか、おれが代替わりしてからの青の地は未だ安定していない。師匠が青龍の形代だった時と比べて、時季外れの雨が多く、川の氾濫が危惧されるまでになっている」
「でも……ここ数日は晴れていますよ。雨は多いかもしれませんが、それはこの時期によくある菜種梅雨ってものでは……」
「それはおれの感情が安定しているからだ。少しでも感情が昂ると、青龍が治める水の龍脈が乱れて天候が崩れてしまう。解決策が見つからない以上、常に平静を保たなければならない。喜びや悲しみといった喜怒哀楽を控えなければならない」
「そんなのおかしいです! 蛍流さんだって、私たちと同じように笑ったり、泣いたりして良いはずです。何か方法があるはずです。師匠さんや歴代の青龍さんたちが残していないか探してみましょう」
「無駄だ。おれだってこれまで手を尽くして調べた。清水に聞いても同じだった。何も分からなかったどころか、これまで異なる世界から来て、七龍の形代に選ばれた者は一人としていないことが判明しただけだった。おれだけが異質なのだ。この世界の住人でも無いのに、七龍の形代になったおれが……」
この世界に来たばかりの海音が感じていたように、蛍流にとってもこの世界の住人では無いという生まれ育った世界の違いは負い目でしか無いのだろう。
同じ場所にいるはずが、自分だけが周りとは違う空間にいるような気がする。考え方や視点が違うからなのか、どうしてもこの世界の住人たちとは相容れないように思えてしまう。それが孤独と寂しさを生み出し、世界から隔絶されているような疎外感を抱くことになる。
「頼りになる師匠はいない、心を許せる茅晶も。何も無くなってしまったおれは、ただ遮二無二青龍としての務めを果たそうとした。師匠の姿を思い出し、残してくれた書き置きを何度も読み返した。それでも力は不安定なままだった。雨季に関する政府や民からの嘆願は届くばかりで、根本的な解決策は何も見つからないまま。ただ時間だけが過ぎ去っていく中で、一つの可能性を見出すようになった。それが七龍の形代と共に生きる存在――伴侶だった」
「それで和華ちゃんに嫁入りの申し出をされたんですね」
「師匠の遺言通りに伴侶を迎えれば、この不安定な青龍の力が安定するだろうと考えた。心を寄せて想いを重ねて、師匠や茅晶の時と同じように信頼関係を結べれば、あるいは……」
「でも和華ちゃんは……」
「おれの噂を聞いて来なかったのだろう。代わりに嫁いでくれる相手を和華が探して、そうして来てくれたのが海音――お前だった」
「あの噂だっておかしいです。蛍流さんはこんなに優しい人なのに、冷酷とか無慈悲とか、冷涼だとか。全然そんなことはないのに。いったい誰があんな噂をっ……!」
「誰でもない。あの噂を流すように頼んだのは、他ならぬおれ自身だからな」
「蛍流さんが? どうして……」
急に蛍流は音も無く立ち上がったかと思うと、「少し待っていろ」とだけ言って部屋に戻ってしまう。そうしてすぐに戻ってきたかと思うと、スクラップブックのような和綴じの本を手にしていた。
「それは?」
「雲嵐殿に持って来てもらう新聞を切り抜いてまとめたものだ。元は師匠がまとめていたものだが、今はおれが後を継いでまとめている」
行商に来る雲嵐が習字に必要な道具とセットで、毎回数日分の新聞を蛍流に届けているのは知っていたが、それがこんなことに使われていたとは思わなかった。
渡された本を開いた海音だったが、すぐにハッとして息を呑む。紙を捲って他のページも確認したが、そこに収められている記事は全て同じ内容、あるいは似た内容について扱っているものであった。