「本当だったら、神社に立ち寄った帰りに、お母さんにお供えするお花を買って帰るつもりだったんです。お母さん、季節のお花が大好きだったから……」
「……この世界が死後の世界だと言われたら、きっと諦めがついただろう。だがおれたちはここでこうして生きていて、元の世界に酷似したものも多数ある。どこかで地続きしているのではないかと期待をしてしまう。本当は異世界に来たのではなく長い夢を見ているだけで、自分が眠るベッドの周りには目覚めを待つ家族が集まっており、今も覚醒を待ちわびているのではないかと……」
「それでも元の世界に帰る方法も、夢から醒める方法も無いんですよね?」
「……おれが調べた限りでは」

 はたと手を止めた蛍流の視線の先に気づいて、傍に視線を移す。そこにはもう一つのお礼の品が入った紙袋が置かれていたのだった。
 
「ところで、そこの紙袋には何が入っているのだ?」
「これもお礼の品です。カルメ焼き作りが失敗したら、こっちをお礼として渡そうと思って、用意してもらったんです」

 紙袋ごと蛍流に渡して、封を開けてもらう。すると「おおっ!」という感嘆の声と共に、蛍流は中身を取り出す。

「これはあんぱんだな」

 蛍流の手に掴まれていたのは、こんがりと焼けた茶色の表面と、薄っすらと漂う甘い餡と酒の匂いが食欲をそそる小ぶりのあんぱんであった。
 表面に開いた穴からは、黒いこし餡が中にぎっしりと詰まっているのが一目で分かり、その上には塩漬けの桜の花びらまで埋め込まれている。

「あんぱんを知っているんですか?」
「ああ。師匠が好きで、よく雲嵐殿に届けてもらっていた。懐かしい……いただいてもいいだろうか?」
「勿論です。お召し上がりください」

 蛍流に勧められて、海音もあんぱんを口にする。
 茶色の見た目や柔らかな食感はこれまで食べてきたあんぱんと同じであったが、酵母に酒から造られた酒酵母を使っているからか、ほんのりと香る酒の香りが元の世界のあんぱんには無い特徴であろう。加えて、塩漬けの桜からしみ出す塩味と上質な小豆を使ったこし餡の甘さが、他のパンとの格の違いを現す高級品を思わせる。

「久しく食べていなかったが、師匠が食べていた頃から全く変わらない味だな。新聞によると、今年店主の代替わりが行われたそうだが、同じ味を保ち続けているというのは並々ならぬ努力の賜物だろう」
「良かったです。気に入っていただけたようで」
「これもカルメ焼きと同じで、独り身の時はわざわざ取り寄せてまで食べるものでも無かったからな。ここではパンを作るには設備が足りず、材料も揃えづらい。買う以外に方法が存在せず、そこまでしてまで食べたいと思わなかったからな」
「赤の土地で開いているお店でしか買えないんですよね。ここではまだまだパン食が広まっていないから……」
 
 雲嵐に聞いたところ、この青の地は国内でも屈指の稲作が盛んな土地のため、白米文化が主流らしいが、火山地帯の赤の土地や砂漠地帯の黄の土地では小麦文化の方が広く食されているとのことであった。
 今回海音が取り寄せしたこのあんぱんも、数十年前に余所から赤の土地に店を移した親子が始めたお店で作られる人気の商品だそうで、赤の土地で昔から人気のこし餡と外国を旅した際に教わったパンを合わせた、この国で初めて誕生した「菓子パン」とのことであった。
 開店から時間が経った今でも、あまりの盛況ぶりになかなか手に入らないことで有名らしい。
 
「この青の地に暮らす華族の中には金に物を言わせて屋敷に機材を揃えて、焼き立てのパンを食卓に並べる者が増えてきたらしいが、庶民にはまだまだパンそのものの馴染みが薄い。このあんぱんも赤の土地まで買いに行かなければ手に入れられず、土地の移動に使う汽車や乗合馬車、路面電車の料金も決して安価ではないからだろうが」
「お店まで買いに行っても、買えるとは限らないんでしたっけ?」
「ああ。開店前から客たちが列を成しており、早い時には昼前に完売するそうだ」
「そんな人気商品を、雲嵐さんは毎回どうやって入手しているんでしょうか……?」
「あの人に関しては謎が多い。いつから七龍相手に行商人をやっているのか、七龍の元に来ない日は何をやっているのかも皆目見当がつかない。おれがここで暮らし始めてから見目が変わらないのも奇妙だ」
「雲嵐さんに教えてもらいましたが、その新しい店主さんが新商品を開発しているそうです。こし餡の代わりに別のものをパンの中に入れられないか試作中だとか……。いつかクリームやジャムが入った菓子パンや、揚げ物や卵が間に挟まった惣菜パンも誕生しそうですね」

 話している内に、よく買い物に行っていたスーパーマーケットのパン売り場の情景が浮かんでくる。
 食パンやバターロールパン、クロワッサンなどの定番商品を始めとして、ジャムパン、クリームパン、メロンパンなどの菓子パン、ソーセージが挟まったホットドッグや大きなコロッケが間に入ったコロッケパン、肉汁がたっぷり詰まったハンバーガーまで。中にはご当地限定のパンもあった。
 こぢんまりとしたスーパーマーケットだったが、各社で製造されたパンがずらりと陳列される様子は圧巻で、つい買う用事が無くても立ち寄ってしまう品揃えの良さだった。今の時期になるとパンを買って点数が書かれたシールを集めて、食器やバッグと交換をしていた。
 最寄り駅には開店したばかりのパン屋もあって、いつか行きたいと思ってそのままになってしまった。お店の前を通るたびに焼き立てパンの匂いが漂ってくるので、夕食時はいつも空腹を刺激されて誘惑と戦っていたのも遠い昔のようである。