明日の仕入れのため、早々に帰った雲嵐を見送った海音は、早速白い割烹着を身に付けて炊事場に向かう。同じように雲嵐を見送った蛍流はすぐに自室に戻ってしまった。そのため、炊事場には海音一人しかいなかったのだった。

(この世界にも重曹があったのには驚きだけど……)

 卓の上には雲嵐に持って来てもらった重曹の入った袋に加えて、白砂糖、卵が並んでいた。そして卓の端には紙袋に入った、蛍流へのもう一つの贈り物。海音は頼んだだけなので、これが贈り物になるかは不明だが、少なくともこの世界に来てからは一度も見たことがなかったものだ。

(竈の使い方は教わっているし、必要な道具も揃っている。あとは完成させるだけ)

 そうして何度かの失敗を繰り返して、家中が砂糖の甘い匂いで満たされた頃、ようやくお菓子が完成させた海音は割烹着を脱いで蛍流を呼びに部屋へと行く。
 奥座敷の隣にある蛍流の部屋は妙に静かであった。あの規則正しい生活を送っている蛍流が寝ているということは無いだろうが、一応起こさないように声を潜めながら呼びかける。

「蛍流さん、すみません。少しお話したいのですが、あの、起きていますか……?」
「起きている。入っていいぞ」

 灰簾家で教わったように、つま先を立てて正座をしてから襖を三回に分けながら開けていく。すると襖を開けた先には、蛍流の達筆な墨字が書かれた大量の紙が部屋一面に広がっていた。これには思わず、「失礼します……」という海音の声も引き攣ってしまう。

「もしかして、お邪魔でしたか?」

 明らかに書道の途中だったという蛍流は文机の前で筆を握っていた。蛍流自身は「邪魔では無い」と否定したものの、落ちている紙に書かれている文字はいずれも「心頭滅却」や「明鏡止水」、はたまた「大悟徹底」といった、どれも平静さを保とうとして書いていたであろうものばかり。
 蛍流が何を考え、そして何を思って書いていたのか、一目瞭然であった。

「何かあったのか?」

 持っていた筆を筆置に置いた蛍流が海音と向き合うように、その場で向きを変えてくれるが、どうしても目線は先日触れてしまった蛍流の唇にいってしまう。
 艶やかで柔らかく、そして温かな蛍流の唇。最近は一緒に食事をしても蛍流の口元ばかり見てしまって、肝心な料理さえ満足に味わえていない。
 食事中はかろうじて自分の料理を注視することで誤魔化せるが、今はそうもいかない。きちんと目を見て、蛍流と話さなければ。

「何かというわけではありませんが……。雲嵐さんに届けてもらった材料でお菓子を作ってみたので、よければ食べてみませんか? 休憩ということで……」

 遠回しにひと休みを提案したが、蛍流はしばし考えた後に「そうだな」と承諾してくる。

「丁度、集中力が切れて、ひと休みをしようかと思っていたところだ。菓子なんて久しく食べていないから楽しみだ」
「それでしたら、縁側はどうですか? ここ数日は天気も良くて暖かいですし、お茶も淹れてきますので、ぜひ……」
「分かった。足の踏み場も無いこの部屋を片付けたら、すぐに向かう」

 蛍流と別れて一度炊事場に戻った海音は、冷ましていた薄茶色の菓子を一口大に切り分けると、小皿に盛りつけて爪楊枝を刺してお店の試食風に形を整える。二人分の煎茶を淹れて、取り皿として他の小皿を数枚、そしてもう一つの贈り物も紙袋ごとお盆に載せて全ての用意を整えると、ようやく縁側に向かったのだった。
 麗らかな日差しが射し込む縁側には既に蛍流が待っていたが、海音の姿を見つけるなり、音も無くすっと立ち上がってお盆を受け取ってくれる。

「ありがとうございます……」
「これは……カルメ焼きか? どうりで屋敷中が砂糖を煮溶かしたような甘い匂いに包まれていたわけだ」