「雨が降ってきたので、洗濯物を取り込みに……。でも庭に人影が見えたので、その前に傘を届けようかと」
「人? 誰もいないが?」

 その言葉で弾かれたように後ろを向くが、蛍流の言う通りにそこには誰もいなかった。跡形もなくいなくなった青年に今度は海音が首を傾げる。

「おかしいですね。確かに今までここに居たのに……」
夢幻(ゆめまぼろし)でも見たんじゃないのか。ここは青龍が住まう地。そういった不可思議な出来事が起こってもおかしくない」

 それだけ言って、屋敷の中に戻る蛍流の後ろをついていく。蛍流は幻だと言うが、海音にはどうしてもそうは思えない。
 今もはっきりと耳に残っている。「青龍の伴侶か?」という泡沫(うたかた)のような青年の問い掛けが。
 青龍の伴侶じゃない自分は、果たして何者なのだろうか。
 元の場所に傘を二本とも戻して、屋敷の中に入った海音だったが、ふと足を止めた蛍流の声に顔を上げる。

「懐かしいな。お前が出したのか?」

 蛍流の視線の先に目をやれば、そこには縁側に出したままになっていた玩具と玩具が入っている行李があった。

「部屋で見つけて、せっかくなので埃を落としていました。蛍流さんのものですか?」
「子供の頃、師匠にもらったものだ。最近どこかで見かけて、後で蔵にでも仕舞おうと思っている内に忘れてしまったのだな。そうか、お前の部屋にあったのか……」

 懐かしむように目を眇めると、蛍流は縁側の行李の側まで行く。黒ずんだサイコロを摘んで、手の平で転がす。
 そんな蛍流を見守っていた海音だったが、埃と寒さで小さなくしゃみをしてしまう。

「雨に濡れたのか?」
「多分、雨が降って気温が下がっただけだと思います。それか玩具に付いた埃か……」

 鼻を啜っていると、不意に手拭いが頭に掛けられる。蛍流が洗濯物として取り込んだものを被せてくれたのだった。

「この青の地は水を司る青龍の影響で雨が多い。特に春先の雨は底冷えもする。少しでも濡れたのなら、身体を拭いた方が良い」
「ありがとうございます……」

 そのまま自分で顔を拭こうとするが、それより先に蛍流が海音の顔や髪を拭ってくれる。力を入れ過ぎて、肌に傷を付けないように気を遣ってくれているのか、どこか不器用な手つきがくすぐったい。
 すると、そこに雲嵐がやって来たかと思うと、「邪魔してごめんね~」と何とも無いように声を掛けてくる。

「悪いんだけど、雨脚が強くなって来たから今日はお暇するね。明日に備えて仕入れもしなきゃだし、下山出来ないとボクも困っちゃうからさ」
「それでしたら次に来るまでに、悉皆屋に依頼する分と返却する分を取り分けるようにします」
「日程が決まったら、また連絡するね。じゃあ後は若い二人で、仲良くごゆっくり~」
「誤解しないで下さい! おれと海音はそういう関係じゃ……!!」

 蛍流は反論するが、雲嵐は足早に去ってしまう。
 片手で顔を覆ってしまった蛍流に、海音は「あの……」とおずおずと話し掛ける。

「雲嵐さんとの話は終わったんですか?」
「ああ。話が終わったところに、丁度雨が降ってきたからな。洗濯物を取り込もうと外に出ただけだ。お前は着替えて、ずっと縁側に居たのか?」
「お借りした本を読んでいましたが、飽きてしまって……行李を持って、縁側に来たところでした。そこで雨が降ってきて、洗濯物を取り込みに行く途中で、庭に人影を見つけて外に出ました。雲嵐さんの連れの方だと思ったのですが……」
「雲嵐殿は基本的に一人で行動している。幻かそうでなければ賊か……。どのような人だった?」
「不思議な人でした。物静かな若い男性で、月の無い夜みたいな雰囲気を持っていました。髪や目は私と同じ黒でした」
「そのような者に心当たりは無いな。地元民か新しく政府から派遣されてきた役人か……。いずれにしても、シロたちが騒いでいないから盗人では無いのだろう」
「そうですか……」
「それはそうと、渡した薬は塗ったのか?」
「はいっ! 一応……」
「その……経過を観察したいから、見せてもらえるだろうか。特に首の怪我は鏡が無いと塗りづらいだろうから、代わりにおれが塗っても良いだろうか?」

 海音の部屋には鏡が設置されていないので、首の怪我については海音も指先の感覚と傷の痛みで当たりを付けながら薬を塗った。蛍流の言う通り、現在傷口がどうなっているかも分からない上に、塗りづらさを感じていたところだった。

「お願いしていいですか? 首の怪我まで診てもらっても……」
「ああ。薬を持って、おれの部屋まで来てもらえるだろうか?」

 そこで先程渡された薬壺を取りに一度戻ると、雲嵐が帰る前に荷物を運んでくれたのか、部屋の内外には山のような着物と日用品の類が並べられていた。その中には鏡台もあったので、明日からはこの鏡を使って薬を塗ればいいのだろうと考える。蛍流の部屋は奥座敷のすぐ隣の部屋だと聞いていたが、初めて訪れるので内心では緊張してしまう。声を掛ければ、すぐに入室を促す蛍流の声が聞こえてきたので、「失礼します……」と学校の職員室に立ち入る学生さながら、おずおずと入室したのだった。