「あれ、もう雨が降ってきた」

 自室で若草色の紬に着替えて、部屋で見つけた子供用玩具に付いた埃を縁側で払っていた海音は、急に降り出してきた糸雨を眺めながら声を漏らす。

「さっきまで快晴だったのに、急にどうしたんだろう。この世界ではこれが普通なのかな……?」

 蛍流たちが話していたように、この紬という着物はさっきまで着ていた振袖よりも断然着付けしやすくて動きやすい。昨日蛍流から借りた紬は袖や裾が余ったので、たすき掛けや帯で調整して着たが、この紬はさほど調整するところが無いので楽に着られた。
 しばらくは部屋で本を読んでいたが途中で飽きてしまい、何か他にやることがないか部屋を眺めていたところで、昨日見つけた玩具が入った行李を思い出した。
 まだ中身を全て見ていなかったので、この際埃を落としながら確認しようかと縁側で行李を開けていると、急に轟音と共に雷光が空を走り始める。しばらくして空が曇り出したかと思うと、ぱらぱらと雨が降り始めたのだった。

「そうだ! 洗濯物!」

 庭に洗濯物が干されていたことを思い出すと、小走りで玄関に向かう。すると、縁側を眺めるように一人の青年が佇んでいるのが視界の隅に映ったのだった。

(誰だろう……。雲嵐さんの連れの人かな?)

 どこか哀切を漂わせる黒曜石のような目、宵闇に紛れてしまいそうな短い黒髪。蛍流や海音と同年代らしき青年は降りしきる雨を物ともせずに庭から屋敷を眺めていたが、その姿が捨てられた子犬のように見えて、どこか目が離せなくなる。
 玄関までやって来た海音は傘立てにあった和傘を二本手に取ると、自分用の傘を開いて青年の元に向かう。草履で水を跳ねながら青年の元に近寄った海音は、静閑な青年にもう一本の傘を差し出したのだった。

「これを使って下さい。そのままでは濡れてしまいます」
「……」

 青年は不思議そうな顔で海音と傘を交互に見比べる。こうして近くで見ると、蛍流に負けず劣らずの美丈夫であった。均整の取れた身体と海音より頭一つ高い身長は、どこか蛍流と雰囲気が似ているが、濁りの無い細水のような蛍流とは違って、悲哀の色を湛えるこの青年からは底知れぬ深い闇が感じられる。
 全てを飲み込むような闇を背負った青年に、どこか背筋が凍るような気さえしたのだった。

「雲嵐さんのお連れの方でしょうか。良ければ、中でお待ちください。雨も降ってきたので、外も寒いと思います。風邪を引く前に屋敷の中に……」
「君は青龍の伴侶か?」

 ようやく発した青年の美声に目を瞬いてしまう。
 抑揚は無いものの、凛として耳に留まる心地良い音色に聞き惚れてしまいそうになるが、その問い掛けにどう答えていいか分からず迷いが生じる。

「私は伴侶では……」
「伴侶では無いのか?」
「えっと……」

 この青年も雲嵐と同じように自分を伴侶と思って接してくれているのだろうか。
 それならここではっきり否定してしまうと、今度は海音が蛍流の側にいる理由を説明しなければならなくなる。使用人と答えるしても、汚れ一つ付いていない新品の紬を着た今の海音は、到底使用人に見える格好をしているとは思えない。
 だからといって伴侶に選ばれた和華の身代わりに来たと素直に答えたのなら、余計に話がこじれてしまうことは想像に難くなく、とはいえ伴侶を騙るわけにもいかない。いずれにしても、ますます面倒な事態になってしまうのは間違いなかった。
 どうしたらいいのか逡巡していると、後ろから「海音?」と呼びかけられたのだった。

「そんなところで何をやっている?」

 その声に振り返れば、唐紅色の和傘を差した蛍流が干していた洗濯物を手に立っていた。