そんな蛍流の言葉が合図になったのか、滝壺の中心部から天に向かって浅葱色の鱗に覆われた巨大な龍が立ち昇る。水飛沫をあげながら天へと昇っていく迫力ある姿は、まさに映画や漫画のようでもあった。この地を守る守護龍の清水は上空を一回転すると、海音たちの目の前に降り立つ。

「騒がせてしまってすまない。おれの無責任な発言が彼女を傷付けて、屋敷から飛び出す原因を作ってしまった。青龍の神気を持たない者が無断で神域に立ち入ったことを謝罪する」

 その言葉の真偽を確かめるかのように、次いで清水が海音に目線を送る。足首の怪我を庇いながら立ち上がった海音も、その場で「すみません」と頭を下げたのだった。

「道に迷って、清水さまの神域と知らずに立ち入ってしまいました。うるさくしたことを謝ります。すみません」

 無言のまま海音を見つめていた清水だったが、やがて今朝と同じ風声が長めに聞こえてきたかと思うと、蛍流が「分かった」と首肯したのだった。

「彼女……海音にはおれから伝えておく。……そう心配せずとも、ただの痴話げんかだ。お互いに枕を濡らすようなことはするものか」

 その言葉に満足したのか、清水は滝壺の中心へ飛んでいくと再び水中に潜ってしまう。蛍流から借りた濃紺色の羽織で水飛沫が掛からないように頭をすっぽりと覆いつつ、その隙間から水も滴る蛍流のほんのり赤く染まった横顔を眺めたのだった。

(何を言われたんだろう……)

 海音が視線を向けていることに気付いたのか、蛍流は軽く咳払いをすると「今のはな……」と説明をしてくれる。

「神域に立ち入ったことは怒っていないから問題ない、とのことだ」
「それだけですか? 他にも言われたように見えたのですが……」
「それはだな……」

 しばらくもごもごと口ごもっていた蛍流だったが、やがて覚悟を決めたのか海音から目線を逸らしながら教えてくれる。

「……伴侶を迎えたいと申し出た以上、もう少し女人に対する気遣いを覚えろ。とのお達しだ。昨晩お前が来るまで、ここに女人が来たのは二年ぶり。年頃の娘は、おれが覚えている限り一度も無い」
「つまり……女慣れしていない蛍流さんに対する注意も含まれていたということですか?」
「……まぁ、そういうことになるな」

 恥ずかしそうに話す蛍流に、つい破顔すると俯いて肩を震わせてしまう。声を立てないように両手で口元を押さえて隠したものの、その様子だけで海音が思っていることがバレてしまったらしい。顔を紅潮させた蛍流が「だから言いたくなかったんだ!」と声を荒げる。

「あの時はまさかお前の部屋に役人たちが立ち入ろうとするとは思わなくて、咄嗟に誤解を招くような発言をしてしまった。その……心から悪かったと思っている」

 異性と触れ合うことに不慣れな男性と言えばいいのか、それともいくら大人ぶっていても内面はまだまだ年相応なのか。
 浅葱色の長めの前髪で顔を隠そうとする今の蛍流の姿が、この国の守護者という人間離れした存在ではなく、一人の初心な男性として目に映る。
 ここに居るのは、和華たちから聞いた数々の怖い噂を持つ特別に選ばれた青龍ではなく、青龍としての務めを果たそうとするどこにでもいるような青年なのだと、ようやく蛍流を身近な存在として感じられたのだった。

「いえ……。私も勝手に誤解して屋敷を飛び出してすみませんでした。でもそれなら今度から私のことを聞かれた時は、女中や臨時のお手伝いとして紹介して下さいね」
「だが、今のその姿では……。いや、何でもない。お前さえ良ければ、次回からそう説明しよう」
「そうしてください。それから女中に見えるように、普段から屋敷のことを手伝わせてください。そうしたら、いざという時も女中として振る舞えるので」
「そうかもしれないが、客人のお前を無給で働かせるのも……」
「無給じゃありません。既に衣食住の三つをいただいています。食べる物と着る物があって、住む場所をいただけるだけでも充分です! お世話になっている間は、精一杯青龍としての務めを果たす蛍流さんのお手伝いをさせていただきます!」
「そうか……。正直、今日のように来客がある日は手を借りられると助かる……が、足と首の怪我が治らない内は無理をしないでくれ。嫁入り前の娘を傷物にしたなんて清水に知られたら、それこそ次は何を言われるか分かったものではない。おれを育ててくれた師匠にも顔向けが出来ない」

 照れ隠しのつもりなのか、顔を伏せながら蛍流が背を向けてしゃがんだので、海音は手を伸ばすとまた広い背中に掴まる。海音を背負い直す蛍流に向けて、そっと話しかける。
 
「師匠さんを慕っているんですね」
「おれにとっては青龍としての全てを教えてくれた師匠であり、育ての親だからな。もう会うことは叶わないが、せめて師匠に恥じない生き方をしたいものだ」

 そうして屋敷に向けて歩き出した蛍流に身を預けた海音だったが、元の山道に戻ったところで二人を追い掛けてくる気配を感じて頭だけ動かす。そこには成獣した虎が一頭、二人の後をついてきていたのだった。